秋晴れ



 秋晴れのお手本のような、雲一つない空が広がる10月のある日の事。

 青を映し出す窓硝子がずらりと並ぶ城内の廊下で、爽やかな景色に不似合いなやり取りが交わされていた。
「申し訳ございません」
 そう言って丁寧に頭を下げたのは、先日メイドとして城に勤務し始めた雫だ。
 彼女は城門が見下ろせる三階廊下の真ん中で、箒片手に仁王立ちの秀と対峙している。
「掃除くらい客の見えぬところでできんのか?新人だかなんだか知らないが、それくらい…」
「秀さん。これから聖さんが来られるそうです」
 海羽とはぐれて機嫌が悪いのか、ねちねちと始まった秀の文句を遮ったのは有理子であった。彼女の台詞に登場した名を聞いて、秀は一瞬だけ固まった後にゆっくりと背後の有理子を振り返る。
「…それはそれは。メイドなんぞに構っている暇ではありませんね」
 ピシッと両足を揃えて咳払いし徐に呟いた秀は、速足にその場を去っていった。
「ごめんなさい。大丈夫だった?」
 雫はホッと胸を撫で下ろし、有理子の小さな声に頷いて答える。その笑顔に疲れが滲み出ているように見えて、有理子は追加で問い掛けた。
「無理してない?」
「大丈夫ですよ。ああいうの、日常茶飯事でしたから」
「そう?ならいいんだけど…あなたのポーカーフェイス、なんだか蒼くんと似てるから」
 流れのままに口から出た有理子の言葉を聞き届け、雫はぐるりと思考を巡らせる。
「そうか。そうでした」
 ぽんと手を叩いたかと思えば、瞳を輝かせた雫が身を乗り出したことで、有理子の上半身が後ろに反れた。
「あなたも一緒に戦った仲間の一人なんですよね?」
 何処に食い付いたのかと思えば…と、密かに驚く有理子を他所に、有理子が蒼を蒼と呼んだことに興奮ぎみな雫はキラキラと返事を待っている。
「ああ、うん。まぁ、一応そうなるわね。余り役には立たなかったけど…」
「陛下とは仲良しなんですか?」
「仲良しっていうか…うん、まあ…」
「どんな方なんですか?私と似てるって、どの辺りが?」
 更に食い下がってくる彼女の様子を眺めるうちに、なんだか微笑ましく思えてしまった有理子は、ふっと息を吹き出した。
「興味あるの?」
「そりゃあ、言い方はおかしいですけど、上司に当たる方ですし」
 笑われた事に対して、と言うよりは問い掛けに瞳を泳がせる彼女を前に、有理子は小首を傾げて悪戯を仕掛けてみる。
「下心あったりする?」
「なきにしもあらず、です」
 目を逸らしに逸らて真横を向いた雫に、有理子の含みのある笑顔が数回頷いて見せた。
「だって、かっこいいじゃないですか…あ!お金とか地位目当てじゃないですよ?私、そういうの興味ないんで!」
 有理子の表情に気付いた雫が慌てて言い訳を並べ連ねると、有理子は堪えきれずに大きく吹き出し彼女の肩をぽすぽす叩く。
「なんだか大丈夫そうね?」
「へ?」
「良い感じに息抜き出来てるみたいだから。安心した」
 呆気に取られる雫を置いて、笑顔で踵を返した有理子は、ひらひらと手を振りながら王座の間方面へ戻っていった。
「何かあったら遠慮なく言ってね?」
「ありがとう。有理子さん」
 有理子に聞こえるように返答し、雫はその場の仕事を片付ける。
 しかし邪魔が入ったせいもあり、数十分後に全てを終えた時には、定時を数分過ぎてしまっていた。

 早朝から午後二時まで、これが本日の雫の出勤時間である。

 メイド服を脱いで、私服に着替え、二階にある更衣室を出て、隣の給事室に挨拶をし、階下に降りては城門で茂達の持つ退場名簿にサインをして、のんびりと丘を下って行く。
 遠目に見えていた街の入り口が近付くと共に、喧騒の賑やかさも増していった。
 雫は帰宅する前に寄り道を、とレンガ通りに足を踏み入れて十数歩先にある雑貨店の前に立つ。
 街の中央付近にある雑貨屋に比べれば何処と無くひっそりとしているものの、趣のあるよい店だ。ごちゃごちゃと色々なものが置いてあるにも関わらず統一感があるのが不思議で仕方ない。
 扉を押すと小さな鈴の音が響く。背の高い商品棚の奥にあるカウンターで、店主が頭を下げるのが見えた。
 店内は静かだったが、他にも人の気配がある。しかし積まれた商品達のせいで姿までは見えない。
 雫は狭い通路をゆっくりと、陳列された品々を鑑賞するように歩いた。シンプルなアクセサリーや文房具、マグカップにカラトラリー、キャンディーやクッキーの詰まった缶…色も形も、趣すらも様々だが、どれも見ているだけでわくわくする。いつしか夢中になって眺め回していると、肩がなにかにぶつかった。
 ハッとして振り向けば、紫髪の背の高い男が彼女を見下ろしている。
「すみません」
 雫と同じく多少目を丸くしていたその彼は、彼女に気付くなり笑みを浮かべてそう言った。しかし雫は返答する所か、呆然と男の顔を見据えるだけ。
 それでも構わず立ち去ろうとする彼を、彼女は慌てて呼び止める。
「…あの!」
「はい?」
 大きな声にお互い驚いて、一瞬の間が出来上がった。男と向き合った雫はわたわたと落ち着きを取り戻すと、小さな声でしどろもどろに問い掛ける。
「あの、もし人違いだったら…その…」
「外、出ましょうか?」
 男は、雫が何を言おうとしたのか気付いているかのように、しかし気付いていない風に退店を促す。彼女はそれに黙って頷いた。
 揃って店の外に出ると、途端に音に包まれる。内と外との違和感を払えぬ雫に、男はにこりと自己紹介をした。
「僕、紫と申します」
「…紫…さん?」
「はい」
 それを聞いた彼女の中には、また違和感が産まれる。目の前の紫と名乗る男と、記憶の中での人物を照らし合わせ、ダメもとで思ったままを聞いてみることにした。
「…蒼さんではなくて、ですか?」
 控え目な問いに、紫が驚くことはなく。逆に楽しそうに笑顔を強めたように見えた。
「どうして分かったんですか?」
 彼はそう言って、笑い声を漏らす。緊張の余り、肯定されたのだと暫く気づけなかった雫は、整頓されていない台詞をそのまま口にした。
「や、やっぱり、ですよね?あの、雰囲気で…。えと…お、おしのび…なんですよね?」
「はい。なので、出来れば内密にお願いしたいのですが」
 眉を下げての進言に、雫は何度も頷いて了承する。紫は、ホッとしたように肩の力を抜いてはいつもの笑顔で言った。
「ありがとうございます」
「あの…」
 そのまま去ろうとする彼を、雫はまた呼び止めて小声に質問する。
「また街でお会いしたら、声をかけても…」
「はい」
 にっこりと、臆面の無い笑顔が向かい合い、二人はその場で別れを告げた。


 それから数日後。
 その日も綺麗に晴れて、紅葉はじめの樹木の青を吸い取るような空の下。

 真っ白な城の中の真っ青な王座の間の片隅に、二つのブラックコーヒーが並ぶローテーブルが置かれていた。
 それを挟んで向き合うのは、面接中の参謀と近衛隊員の帯斗である。
 何処か浮かない様子の帯斗との会話は、先程終着点に辿り着いた所だ。
 彼の一番の問題は、キレると周りが見えなくなること。
 倫祐や他の隊長からの評価を提示され、自分でも認識していると言う彼の中の核心を見出だそうと、問いを投げ掛けていた沢也は、固まってしまった帯斗を前に数分ぶりにコーヒーを手にした。
「死って…」
「考えたこと無かったのか?」
 呆然と呟く彼に沢也が問うと、すっとんきょうな返答が返ってくる。
「…死ぬって、なんすか?」
 今度は沢也が呆気に取られて固まった。そんな仕事をしていながら、あんな時代を生きていながら、何を言っているのかと言いかけて、しかし思い直して口をつぐむ。
「考えたことがないわけじゃないんす。でも、俺の生活からは遠すぎて、結局良く分かんないんすよ…」
 帯斗の言葉通り、彼の周辺…特に親族に関しては、彼の生きている間に他界した者は無く。彼の産まれ故郷であるクリフはそれなりに栄えた街である為、人は多けれど人付き合いは希薄になっているせいもあるかもしれない。
「そうか。幸せで良いことだ」
「馬鹿にしてるんすか?」
「いいや」
 思ったままを口にした沢也に対し、ムッとした顔で答えた帯斗は、返ってきた即答と鋭い眼差しに思わず怯んだ。
「だが、危ないな」
「え?」
「仲間が、自分が、死ぬかもしれない状況に置かれていることを。いい加減自覚した方がいい」
 急に何を言われているのか、頭の回転が追い付かず無理にアクセルをかけた帯斗に対し、沢也は更に言葉を続ける。
「それが出来ないなら、暫くは他の部署に移るべきだ」
「そんな…!」
「定一が、いつもお前に張り付いていた理由が分かったよ」
 やっとの事で追い付いた解析は、帯斗の体を頭から冷やしていった。沢也の有無を言わさぬ雰囲気が、これで会話を終わらせようとしているように思えたのだろう。
「待って下さい」
 慌てて椅子から立ち上がり、食い下がるようにして身を乗り出した帯斗は、コーヒーを啜る沢也ときちんと目を合わせられずに視線を流した。
「自覚って、どうやったら出来るんすか?どうしたら俺…」
「覚悟はあるか?」
「え?」
 不意な問い掛けに、頭を傾けた帯斗を沢也の視線が追いかける。そこでやっと、二人の目線がぶつかった。
「死ぬ覚悟はあるか?」
「…分かりません」
「痛みを覚えた事は?」
「…あります」
「誰かに殴られた事は?」
「…ないっす」
「怪我人を見たことは?」
「あります」
「どう思った?」
「…どう…って…」
 困ったように眉を下げた帯斗の額、立ち上がった沢也は上から銃口を押し付けて詰問を続ける。
「この引き金を引いたらどうなるか、分かるな?」
「分かります。でも、あなたにそれが出来るとは思えないっす」
「なら、これが強盗だったら?」
「…やっつけるす」
「倒せなかったら?」
「…倒せなかったら…?」
「そこでおしまいだ」
「おしまい?」
「分からないのか?」
「何が、終わるんすか?」
「お前の人生」
 次第に溜め息混じりになる沢也の台詞を最後に、口を尖らせる帯斗はソファに座りながら尋ねた。
「…終わったら、どうなるんすか?」
「さあな。それは俺にも分からないまだ生きているからな」
 それもそうだと思ったのか、それとも良く分からなかったのか、こめかみを掻いた彼は唸るように口にする。
「……ピンと来ないんす」
「お前、屋上から落ちたんじゃなかったか?試験中に」
「そっす」
「そん時、死ぬとは思わなかったのか?」
 具体的に例えを上げても帯斗の首は傾くばかり。諦めて肘を付いた沢也は、瞳を細めて切り捨てる。
「創造力足りなさすぎ」
「そうっすか?他のみんなは分かるんすか?」
「そこまで鈍感で、それでいて俺を恐れる理由は何だ?」
 合わせようにも直ぐに逸らされる目線を追いかける沢也に対し、帯斗はとうとう真横を向いてしまった。
「ふ…不思議な存在だから」
「呆れた奴だ」
 曖昧な返答は、彼がまだ恐怖の正体に気付いていない証拠でもある。沢也は一人納得して、彼を解放する言葉を吐いた。
「まあ、暫くは様子を見させてもらうことにする。お前なりに足掻いてみろ」
 言い終える間に退出を促され、帯斗は奥歯に何かが挟まった状態のまま王座の間を後にする。

 そうして下町に戻った帯斗が、考え事に頭を支配されたまま大通りを歩いていると、不意に右側から呼び掛けられた。

 知った声に身を跳ねさせて振り向けば、いつの間にやら例の煙草屋の前を歩いて居て、その煙草屋の中から例のお姉さんが手招きしているではないか。
 慌てた帯斗がぎこちなく歩み寄ると、煙草屋の彼女は柔和に微笑んだ。
「この間は有り難う」
「いえ、俺は何もしてないすから…」
「そんなことないわ。おかげで怪我も無かったし」
 だけど…と言おうにも言える訳がないと、帯斗は思う。彼女は自分の失態を目の当たりにしていながら、自分を責めるようなことはせず。逆に何の疑いもなく、感謝を述べてくれているのだから。
 そう考えると、余計に胸が痛んだ。
 彼女が自分にも感謝をしてくれると言うことは、彼女が自分を帯斗としてではなく、近衛隊員の一人として認識していると言うことなのだ。
 それも確かに悲しいけれど、ここで感謝を受け入れてしまえば、自分の欠点や失敗を無かった事にしているようで酷く心苦しい。
 だけどそれは彼女には関係の無いことだからと、自分に言い聞かせて笑顔を作る帯斗の前に、すっと大きな丸箱が差し出される。
「遅くなっちゃったけど。これ、お礼に。みなさんで召し上がって?」
「いえ、でもっ…」
「迷惑だったら捨ててもらって構わないから」
「そんな!あ、有り難く頂くっす…!」
 遠慮を受け付けぬ笑顔に負けて、帯斗は彼女の手から箱を受け取った。中身はクッキーだろうか?僅かながら甘い香りが漂ってくる。
「おーい、千世(ちせ)ー?」
 帯斗が再度礼を言おうとしたところに飛び込んできたのは、黒い髪の女だった。彼女は煙草屋の店員と帯斗とを見比べて姿勢を直す。
「あ、ごめん…お友達?」
「いえ、パトロールに来たしがない近衛隊員す!」
 友達、と言う言葉にすら過剰反応して敬礼する彼の腕章を見て、黒髪の女は安心したように顔を綻ばせた。
「あ。ほんと。じゃあ半分同業者だね」
「この子、この間からお城で働いているのよ」
「メイドさんです」
「そうなんすか」
 そうして三人が納得した所に響いてきたのは帯斗の携帯の着信音。明るいメロディーを慌てて止めて、彼はその場で足踏みをした。
「あ、そろそろいかないと…。これ、ありがとうございました!」
「また遊びに来てね」
 箱を掲げて礼をして、駆けていく帯斗を二人の女が見送る。
 煙草屋の女、千世は、彼の姿が見えなくなった所で黒髪の女を振り向いた。
「それで、雫。あなたはどうしたのかしら?」
 友人である雫に呼び掛けると、彼女は緩んだ頬をそのままにないしょ話のポーズを取る。
「実はね、凄いことがあったの」
「なあに?」
 促しを受けて煙草屋の裏口の戸を開き、中に滑り込んだ雫は、隣に腰を下ろした。
 千世は正面にある大通りを見据えたまま。雫は千世を背に、正面にある裏口の扉を見据えながら。二人は時折そうやって、お互いの近況報告をしているのである。
「内密な話なんだけどね?」
「うん」
「絶対に誰にも言わない?」
「うん」
「そうよね。そこは信用してる。千世って無駄に口が固いから」
「それで?」
 だから話すんだけど…と続いた独り言に被せて促した千世は、振り向いた雫の真剣な眼差しを横目に見下ろした。
「雑貨屋さん、あるでしょ?一番お城に近い」
「うん」
「そこでね、変装した王様に会ったの」
 眩しい程の雫の視線は数秒凝視されただけで逸らされる。食い付きの悪さに思わず腕を掴み、雫は千世の顔を覗き込んだ。
「ちょっ…嘘じゃないよ?本当だよ?」
「まだ何も言っていないわ」
「あなたの顔がそう言ってるの」
 雫が不服そうに口を尖らせると、千世は冷めた溜め息を吐き出しては質問を口にする。
「それで、会った雫はどうしたのかしら」
「勿論、話し掛けた」
「それで?」
「僕の正体に気付いたのは、貴方が二人目ですって」
「二人目なの?」
「うん。でももう一人は男の人だって言ってた」
 雫のその返しを受けて焦点がずれていることを悟り、千世は唸るでもなく流すようにして相槌を打った。
「そう。良かったわね?」
「良かったわねって…。もっと驚いてくれても良いのに」
「そう言われてもね…」
「じゃあ、もっとビックリする話、聞く?」
 雫は若干興奮が残っているのか、いつもより数倍高いテンションで、聞くとも言われなかったその先を報告する。
「それがきっかけかは分からないけど、私、本日付で王様専属のメイドさんになりました」
 敬礼付きのそれをさらりと流されて、固まる雫はカウンターの向こう側と会話を始めた千世の様子を窺った。
 接客を終えて息を付く彼女の表情に変化はなく、笑っているとも笑っていないとも取れぬ、いつもの彼女の顔をしている。
「喜んでくれないのね?」
 二人は5年来の付き合いだ。千世の雰囲気から感じたままを呟いた雫に、千世も否定する事なく苦笑する。
「場合によっては喜べるのだけど」
「どんな場合?」
 千世と違って食い付きの良すぎる雫の問いは、物理的な引力を伴い千世の体を傾かせた。
「雫が王様のことをどう思っているのか。まずはそこからね」
 雫を仕草で宥めながらそう言うと、千世はまた客の対応に戻る。カウンターの内側から取り出した煙草の箱は、薄い黄色のパッケージに緑色のロゴと模様が入った物だった。
「素敵だな、と思ってるわ」
 客が去ったのを見届けて、回答した雫を千世の流し目がとらえる。
「その素敵は、王様として?一人の男性として?」
 代金をレジに押し込みながら問い返すと、雫は怒ったように早口に捲し立てた。
「王様としてだなんて、あの人は王様である以前に、あの人なのよ?そんな失礼なこと言わないで頂戴」
 彼女がそうして過剰な反応をする理由を知っていながら、それでも千世は敢えて訊ねる。
「それは地位に興味がないアピール?それとも王様と言う階級が嫌いだとでも言いたいのかしら?」
「そのままの意味よ?」
 意地を張るように口を尖らせた雫のこの思想は、貴族だとか、平民だとか、妙に階級を気にする環境で育ったせいだろう。大体は彼女に同意したい思いもありながら、千世は複雑な表情を見せた。
「まあ、今はそれで良しとしましょう」
 雫は千世が引いたことに安心するだけで、彼女の内情を深く考えようとしない。それは雫自身が、大した事ではないと高を括っているせいだ。
 いや、大した事だと思いたくない気持ちの表れかもしれない。
 どちらにせよ、注意深く見守っていようと、千世はその日、密かに心に誓ったのだった。

 一方、城側の人々はと言うと。

 赤く染まった王座の間で、仕事を続ける沢也と有理子がこの先の打ち合わせをしていた。
 本日付けで立候補のあったうちから一人を蒼の専属として付けた為、有理子は翌日から財務を中心に仕事をすることとなる。
「でも、本当に良かったの?あの子で」
「そうは言っても、他に居なかっただろ?」
 それはそうだけど、と。雫の仕事ぶりを、橘や他のメイドからも推されていた事を思い直しながら呟く有理子の表情は芳しくない。沢也はそれを見据えた上で呆れた声を出した。
「また心配症が出やがったのか?」
「違う。蒼くんが複雑そうな顔してたから」
「お前自身は?」
「彼女のことはそう悪くないかな…と思ってたんだけど」
 悩ましい彼女の言葉は、沢也の口から溜め息を溢させる。有理子はそれが気にさわったのか、瞳を細めて皮肉を吐いた。
「あんたはいいわよね。蒼くんの考えなんてお見通しなんでしょうから」
「知るか。どっちかってーと、お前の恋愛観がガキのまんまなだけだろ」
「あら。まだガキですもの当たり前じゃない。ってかあんたにだけは言われたくないわ」
 熱の籠った有理子の声を、沢也のあからさまな溜め息で冷却する。彼は彼女が落ち着いた事を確認するように、静かに言葉を並べた。
「二人がそう言う関係になるかどうかは分からないが。お前が心配した所で何も変わりはしない。…いや、変えることは出来るのかもしれないが、それが良い方向に転がるかどうかは誰にも分からない」
「分かってるわよ」
「それに、恋愛だなんだって言っても、結局は人間関係だ。好意+好意が好意になるとも限らないし、それだけで上手くいくわけでもない。逆もまた然りだ」
 いつも通り、説明書でも読むような沢也の声に渋々頷いて、それでも有理子は反論する。
「だけど、蒼くんはあの子から何か感じ取った訳でしょう?」
「蒼からそう聞いたのか?」
「そうじゃないけど。なんだかそんな感じがするだけよ」
「てことはつまり、またお前が心配症発動するかもしれないことを察しただけかもしれないだろ?」
 なんとなくの心配を一蹴すると、思うところがあったのだろう。有理子はむぐぐと押し黙ってしまった。
「あいつに限らず、大体の人間はお前が思ってる以上に周りの事も考えてる。それくらいお前だって分かってるんだろ?」
「分かってる。分かってるけど…」
 呆れたように諭されて尚言葉を濁す。そんな有理子の内情を察して深く息を吐き、しかし感情移入しないまま、沢也は淡々とした持論を更に展開した。
「気持ちは分かるが。特に恋愛や人間関係なんて、どうやっても失敗して学んでいくもんだ。失敗が悪いことばかりではないし、経験しなければ分からないこともある。何もしないうちから先の心配をしているようじゃ、どこにも転びやしねえんだよ」
「分かってるってば」
 最後には苛立たしげにそう言って、そっぽを向いてしまった有理子に対し、沢也はまた溜め息でガス抜きして困ったように言う。
「何でそう、女ってのは他人の共感を得たがるんだろうな」
「仲間が居ると安心するじゃない」
「その仲間が全てを同意してくれる訳じゃねえし、同意するのが義務でもないけどな」
「もー!この皮肉屋!エスパー!眼鏡っ!」
 最後に放たれた皮肉めいた呆れ声に有理子の癇癪が巻き起こった。殺伐としたそれを聞き付けたように開いた一つの扉の向こうからは、正反対の穏やかな声が聞こえてくる。
「仲良しですね?」
 顔を覗かせた蒼はいつものように微笑んで、しかしそれ以上追求することもなく席に着いた。
 有理子は彼が自分達の会話内容を察していることに気付いてしまったせいで、ばつの悪い思いをしたわけだが。沢也は然して気にしていないようで、さっさと仕事に戻ってしまった。
 そこに響いたのは控え目なノック。誰ともなく返事をすると、珍しい人物が顔を覗かせる。
「お前がわざわざ此処まで来るなんて、雨でも降らす気か?」
 挙動不審の仁平を見るなり問う沢也に、蒼と有理子の温い苦笑が注がれた。それに構わず仁平は言う。
「まままままま…まさか、こんな良い日和にそのようなさささささささしでがましい事は…その…」
「分かりにくい冗談は置いといて。どうしたの?仁平さん」
 無駄に長くなりそうな前置きを遮ったのは有理子だ。彼女は彼に椅子を勧めようと立ち上がったが、仁平はそれを宥めながら本題に入る。
「ほ…本日は晴天で宜しい感じでございますが、せ…せせせ先日の秋雨はボクのせいかもしれませんですます。はい…」
「何か天文学的に珍しい事態でも起きたのか?」
 引き続き分かりにくい例えを沢也が噛み砕くと、蒼と有理子からはまた苦笑が漏れた。仁平はコクコク頷いて遠回りに解説する。
「し、下町をあ、歩いておりましたらその…み、みみみみ見知らぬ女性と出会い頭にぶぶぶぶぶぶつかりましてますて、その…お詫びにと、プレゼントを頂戴致した限りにございましてはい…」
 この状況で始まったのが自慢話な訳はないと、一同が固唾を飲んで見守っていると、彼は彼にしては珍しい種類の微笑を浮かべた。
「とても良いものでしたので、是非とも沢也さんにもご覧頂きたくありまして…」
「何だよ」
 沢也が手を出し促すも、仁平は首を振ってこう続ける。
「お忙しいなか恐縮でございますが、こ…此処には持ち込めません代物故、技術課までご足労頂けますまいでしょうか?」
 不可思議な物言いを聞いた三人はゆっくりと顔を見合わせ、頭を下げる仁平の旋毛を不思議そうに眺めた。その中でも一早く彼の行動の意味を察したのは、やはり沢也に他ならず。
「分かった。必要物資は?」
 同意して訊ねると、仁平はゆっくりと顔を上げてにこやかに言った。
「ポケットルビーなどあれば便利かと」

 その後、仁平が沢也に何を見せたのか。
 答えはまた別の機会に。







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