新しい風


 
 
 面接だ採用だ書類だとバタバタしているうちに過ぎ去った10月の頭。
 満喫する間もなく流れていこうとする季節を引き止めるように、その日は僅かに暖かかった。

 数週間前同様に、見知らぬ顔を引き連れた参謀が近衛隊の駐屯地にて隊員達の前に立つ。
 しかし紫と違って、今回は一般から採用した正式な隊員である。
「新入りの…」
「轟(とどろき)だ!以後宜しゅう!」
 沢也が紹介する間もなく自己紹介を終えた彼は、目の前に佇む隊員達の大半が耳を塞いだことにも構わずガハハと笑って見せた。
「喧しいが使えんことはない。深夜に騒動起こさないよう注意だけはしてやってくれ」
 隣で片耳に人差し指を突っ込む沢也が告げると、最前列の義希が反応する。
「深夜ってことは…」
「ああ。第二の隊員だ。今日は挨拶がてら日勤だが、明後日からは夜勤がメインになる」
 沢也による説明の合間、一人愉しげに隊員達の顔を見渡す轟は、隣の沢也と同じくらいの背丈でありながら妙に大きく見える爆声の主だ。
 元から屋外で仕事をしていたのか、半袖のTシャツから覗く肌は良い感じに焼けている。
「一般公募に応募してきはしたが、元々郵便課の門松の大工仲間だったらしい。ここの備品も作ってもらうよう頼んであるから…」
「がってん、任しとけぃ!」
 またも解説を遮った威勢の良い声は、彼を中心にして全員の上半身を傾かせた。
「だ、そうだ。他にも数名追加する予定でいる。面接も残ってるし、また暫くバタ付く事になるが勘弁しろ」
 沢也は早口にそう言うと、全てを義希に押し付けて狭苦しい駐屯地を後にする。

 扉を出て、後ろ手に閉じ、薄暗い中で通りを振り向けば光が目を刺した。思わず細めた瞳をそのままに、路地から脱出した彼は直ぐに城へと足を向ける。
 なんだかんだで顔が割れている上に、倫祐やら某所関連のおかしな噂のせいで、街に出れば必ずと言って良いほど後ろ指を指される沢也ではあるが、本人は全く気にする素振りもない。
 それを証拠に彼の頭の中は仕事一色だ。
 午後の会議の事だとか、他の採用職員の事だとか、提出書類の事だとか…次から次へと浮かんでは積もっていくその中に、スライディングの勢いで滑り込もうとする声が、遠く背後から聞こえてくる。
「さーわーやーちゃーあぁあぁぁん!」
 脊髄反射で速足になった沢也、しかしあの沙梨菜がそうやすやすと逃がしてくれる訳もなく。
「下町に居るなんて珍しいね?何かの帰り?ご飯食べた?あのね、すぐそこに時田ちゃんのお店あるし、一緒に行かない?行こうよぅー!」
 人混みをすり抜ける彼に対して、割れた人垣の中央を直進してきた彼女は、その背中に取りついては路地裏に引き込もうとした。
 この人出の中良くも見付けてくれたものだとか、民衆の大半がこいつの味方なのかとか、色々な文句を抜きにして、沢也は心の底からの声を出す。
「うっっっっっぜぇぇぇぇ…」
「あー☆もう、そんな面倒くさそうにしちゃやだよう。この前のお礼に、何か奢るから!ね?ほらほら早くぅ」
 正直一刻も早く仕事に戻りたいのだが、だからと言って抵抗すれば後から余計に面倒になるため、沢也は仕方なく沙梨菜に付き合う事にした。

 ぐいぐいそれそれと腕を引く沙梨菜を振り払い、駐屯地がある路地よりも更に暗い路地を突き進む。そんな沢也の後ろに沙梨菜がいそいそと付いて行った。
 初めて訪れる者であれば確実に迷う路地裏の一番奥、丁度L字路の角にその店はある。
 手前の背の高い建物と、奥側の幅広の建物との間に佇む小さな喫茶店は、日夜を問わず薄暗い中で息を潜めているように見えた。
 それでも気品を漂わせる佇まいは、流石元貴族の経営する店だと感心したい所ではあるが、正直こんな場所に建てておくのは勿体無くすら思えてくる。
 地図上では何度も目にしたこの区画、しかし実際に訪れるのは初めてな沢也が感慨に浸っていると、沙梨菜が背中の裾を摘まんだ。
 彼女的には単なるスキンシップのつもりだったのだが、彼的には急かされたようにも感じたのだろう。沢也は沙梨菜の手から逃げるようにして喫茶店の扉に手をかけた。
 手前に引くと、静寂の中に控え目な鈴の音が響く。続けて目の前に広がるのは、思いの外奥行きのある、そして思った以上に明るい店内だ。
「大臣…来て下さったんですね」
「遅れ馳せながら」
 カウンターの中から声をかけた時田は、拭いていたコーヒーカップを置いて二人に席を勧める。すると沙梨菜が当たり前のようにカウンターに着き、にこにこと沢也を手招いた。
 沢也は溜め息でそれに頷くと、向かって左手にある背の高い窓を観察する。
 隣の建物は三階建てで、日光を取り入れるのが難しい位置の筈なのだが。見上げてみるとどうやら倉庫である二階部分を僅かに削って、一階の陽当たりを良くしたらしい。
 まだ昇りきる前の陽は白に近い光を室内にもたらし、窓際に並ぶ四つのボックス席を独特の空気に染め上げていた。
 沢也が更に店の奥を覗こうとすると、右手にあるカウンターから沙梨菜が腕を引く。彼は奥の壁沿いにももう二組、テーブルセットがあることを確認して彼女の隣に腰掛けた。
 時田は二人に水を配るとカウンターの奥にある厨房に引っ込んでしまったらしく、現状沢也の話し相手になるのは沙梨菜だけと言うことになる。
「一応聞いておくが、その後変わった事は?」
 仕方無しに問い掛けた彼に、ご満悦に水を啜っていた沙梨菜がパヤパヤと答えた。
「うん、平気だよー☆お陰様で平常運転に戻りました」
 エヘヘ、と照れたように言ってのける彼女を沢也の鋭い視線が突き刺す。本当に大丈夫なんだろうな?とでも言いたげなそれに、焦った沙梨菜は言い訳の如く言葉を並べた。
「レコーディングもなんとか済んだし、変なファンレターも来ないし、みんなも警備強化してくれちゃってるし…」
 歯切れの悪いそれを聞いた沢也は、溜め息と共に沙梨菜から視線を外す。ほっと息を付いたのも束の間、その横顔が疲れているように見えて、沙梨菜は左隣に身を乗り出した。
「それより、沢也ちゃんは…大丈夫…」
「どうですか?経営は」
 沙梨菜の言葉を遮って問い掛けてくる沢也に、時田は苦笑混じりに肩を竦めて見せる。
「ご覧の通りですよ」
 言葉通り、沢也と沙梨菜以外に客はなく、新たに人が訪れそうな気配すらない。
「しかし、少しずつ常連さんもできてきていたりだとか。それなりに楽しませて貰っています」
 そう付け足して、時田は沢也の前にコーヒーを置いた。それは試作品として良く飲んでいたものの一つで、沢也が一番高く評価したものでもある。
 時田が沙梨菜の前にオレンジジュースを置く間に、早くもカップに口を付けた沢也は、カウンター越しに彼の横顔を見ては率直な感想を漏らした。
「顔色、良くなりましたね」
「そんなに悪かったですか?」
「前は死にそうな顔してた」
 苦笑を振り向かせた時田に沢也が悪戯な笑顔を返すと、沙梨菜が二人の間に割り込ませるようにして手を挙げる。
「時田ちゃん、いつもの頂戴?」
「いつものって…お前、入り浸ってんのか?」
「うん、先生がね、ここのコーヒーのファンになっちゃって」
「いつもありがとうございます」
 寄ってきた顔を押し返す沢也を笑い、沙梨菜に小さく礼をした時田はまた厨房に入って行った。
「で、何を作らせてんだ?」
「おいしーものだよ?」
「ああそうかよ…」
「それより沢也ちゃん、お仕事落ち着いた?ご飯ちゃんと食べた?ちゃんと寝てる?最近接触を自粛してたから心配だよう」
 素っ気ないながらも何とか会話を振ってくる彼にすがり付き、長文を垂れ流す沙梨菜がふにゃりと眉を下げる。沢也はその何とも言えぬ表情を一瞥してコーヒーと向き直った。
「自粛なんて難しい言葉使えてるって事は、大丈夫そうだな」
「ふえ?何か言った?」
 沙梨菜はコーヒーを飲む間際に泥のように吐き出された沢也の言葉を聞き取れず、ぱたりと右に小首を傾げる。
「お前は俺の心配より、心配性の頭の心配でもしてやれって言ったんだ」
「有理子、心配してくれてた?」
 彼女は続けて沢也の適当な言い訳を聞き付けては左に首を倒した。沢也は首肯だけで返答する。
「そか…最近ちゃんとお話出来てないからなぁ…」
「なら話せばいいだろ」
「そだね。丁度良さげなイベントもあるしね♪」
 沙梨菜が明るく納得するも、振り向かない沢也の耳元。隙アリだとか、こっち向けだとか、そんな意図もなく自然と顔を寄せた沙梨菜がこしょこしょと呟きを落とす。
 沢也は耳にかかった息に身を震わせて沙梨菜を払いのけ、あからさまに顔を歪めた。
「きしょい」
「だってぇ…誰かに聞かれたら困るでしょ?」
「誰にだ。それに然して困らん」
「そかなぁ?」
「そうだ」
 沙梨菜的にはちょっとしたサプライズ企画の一部を語ったつもりだったのだが、沢也にその思いは伝わらなかったらしい。仕方無しに周囲を見渡した彼女は、他に誰もいない現状を再認識して含み笑いを溢す。
「ここってないしょ話に向いてるよね?」
 求めた同意の代わりに返ってきたのは溜め息だけ。それでも沙梨菜がめげることはない。
「ないしょ話って言えばさ、この前ねー、あの子見たよ?えと。ほら、近衛隊の眼鏡の子」
「黒髪そばかすの?」
「うんうん、その子」
 しつこさに負けて返答した沢也が頷くと、沙梨菜は嬉しそうにサイドテールを揺らした。
「圓はお前や俺より歳上だぞ」
「そなの?ちょっと幼く見えるね。だからかな?歳上のおねーさんからモテるの」
 呆れた沢也の指摘を上に流した沙梨菜の台詞が、沢也を僅かに振り向かせる。短い間が彼の中の違和感を表した。
「圓が?」
「うん、最初は金髪のおねーさんからで、次の日は茶髪のおねーさんから口説かれてたよ?」
「何処で」
「路地裏だよー。先生の家のテラスから見えるの」
 対してニヤニヤと、女子特有のにこやかさで噂話を語る沙梨菜の元、運ばれてきたタンポポオムライスに歓喜の声が上がった。

 そうして沙梨菜の意識がオムライスに逸れたことで、沢也が考え事を隅に押しやって時田との雑談を始めた頃。

 城で行われていた、有理子による新人メイドさん案内ツアーの最終便が終了した所だった。
 質問がある人以外は解散と告げると、一人だけが最終地点である厨房に残る。有理子と同じくらいの歳の、黒い髪を高い位置で結んだ真面目そうな女性だ。
 有理子が彼女を振り向くと、手にしていたメモを下げて厨房で働く先輩メイド達を見渡していたその人は、世間話程度に質問を投げてくる。
「みなさん、元は貴族の屋敷に勤務されていたんですか?」
 ツアー中の脱線話を綺麗に拾われていた事に苦笑しつつ、有理子は部屋の端に寄って答えを返した。
「皆じゃないのよ。それに、人の良い貴族の使用人だった子ばかりだから、此処に来る灰汁の強い貴族客には弱くてね…」
「ああ、成る程。だから私みたいなのが募集されてたんですね」
 周囲の仕事を見ては納得したように頷いて、不思議そうに首を傾ける有理子に気付いた彼女は言い訳のように続ける。
「あ、ごめんなさい。私、雫(しずく)って言います。レストランでウェイターをしていたので、接客には自信あるんです」
「ウェイターさん?辞めちゃったの?」
「はい。ちょーっと色々ありまして、店ごと潰れちゃって…」
 あはは、と愛嬌のある笑顔で誤魔化す雫に、有理子が若干緊張を緩めた所。不意に厨房の扉が開かれて独特の靴音が響いた。
「騒がしいですね。いくら外から見えない厨房だからと言って、勤務中に井戸端会議をするなんぞ…これだからこ」
「あの、ごめんなさい。お茶淹れたいので、道具だけ借りていっても…」
 入室するなり早口に捲し立てた秀の言葉を、後から続いた海羽が遮り用件を口にする。
 厨房に居たメイド達が固まる中、どう取り繕うかと一瞬固まった有理子の隣で雫がにこやかに肩を竦めた。
「どうぞー?こちらですよね?有理子さん」
 先の説明を覚えていたのだろう、傍らにあったティーセットを手に判断を仰いだ雫に有理子が首肯する。
 雫はそのままティーセット一式を差し出すが、今度は海羽が硬直してしまった。
「…海羽?」
「ごめんなさい。ありがとうございました」
 有理子の呼び掛けにハッとした彼女は、凝視していた雫の顔から目を逸らし、頭を下げてティーセットを受け取ると、また秀が何か言い出す前に…と、そそくさと厨房から出ていってしまう。
 過ぎ去った嵐に誰もがほっと息を付いていると、二人が去った扉を凝視する雫の口から低い一言がこぼれ落ちた。
「あの人達のせいなんです」
「え?」
 有理子の疑問符で厳しい顔付きを苦笑に直した彼女は、困ったように語りを繋いだ。
「口に合わないって、散々クレーム付けて…。それまでは常連さんも沢山いるいい店だったのに…」
 それを聞いて思わず胸元を押さえた有理子は、せめて表情に出すまいと努めるも、結果的には笑顔が引き吊ってしまう。
「それだけで…」
「それだけかどうかは分かりません。裏で手を回したのかもしれないですし。でも、あの人達が来てからおかしくなった事だけは、確かなんです」
 なんとか絞り出した曖昧な呟きも軽く拾われて、的確な見解を提示されてはどうにもならない。
 有理子は誤魔化すことを諦めて、素直に雫と向き合うことにした。
「…憎い?」
「憎いっていうか…まあ、ムカつきはしますけど」
「ポーカーフェイスね」
「仕事ですから」
 本心を目の当たりにしての率直な感想に返されたのは、先と同じ困った微笑だ。
 有理子が表情の使い分け方に感服していると、また雫の表情が変わる。
「あの女の子、お友達かなにかです?」
「うん、まあ…」
「訳ありですか?」
 よく見ているなぁと再びたじたじになりながら、有理子は頷いて肯定した。すると雫は表情を和らげて安心したように言う。
「じゃあ、あの子は悪くないんですね」
「え?」
「有理子さん、いい人だから」
 からかうでもなく呟く雫に、面食らった有理子がしどろもどろに手を振った。
「わたしは…」
「すみません、ポットのお湯が切れてしまいまして…」
 そこに入ってきたのはポットを持った蒼だ。一同が振り向く中で、今度は雫が慌てふためくことになる。
「お…王様…?!」
 わたわたと影に隠れた彼女を見て、なんとなく安心した有理子が溜め息混じりに笑みを浮かべた。
「本日三人目のビックリだわね」
「はい。僕、城内は普通にうろうろしてますので…次からは驚かないで下さいね?」
 蒼の弁解に何度も頷いて了承した雫は、有理子に背を押されて一歩前に出る。
「じゃあ、ついでだから紅茶淹れて貰ったら?蒼くん」
「そうですね。お願いしてもいいですか?」
 二人に笑顔で頼まれて、雫は萎縮しながらも綺麗にお辞儀をした。
「かしこまりました」
 その後彼女は、有理子に客人の好みを教わりながら、慣れた手付きで紅茶を淹れる。パーラーも担当していたと言うだけあって、有理子が淹れるよりも綺麗な色の紅茶は、味も確かだったとのことだ。


 それから数日後の近衛隊駐屯地。


「なんだこりゃ…!?」
 5日ぶりに出勤してきた小太郎が、入室するなりあんぐりと口を開ける。
「小太郎隊長、今更?」
「今更もくそも、何時からだし!」
「一昨日くらいじゃね?新入りが大工だったとかなんとかで、せっせと作ってたんすよ。勤務時間外なのに」
 部屋のデザインに合わせてシックに作られた棚の数々は、ごちゃごちゃしていた駐屯地の物達を綺麗サッパリ整頓し尽くしていた。
 適当な説明ながらに報告書を製作する諸澄が伏す机ですら、妙にこざっぱりして見える。
「大工って…門松かよ…」
「おー?門松の知り合いか?」
 ナハハー、と景気よく、しかも不意打ちの背中叩きにつんのめった小太郎は、爆声の主を振り向き抗議しかけたが。
「轟さん、その人隊長さんですよー。僕らと同じ第2の」
「おっと、それはまた失礼した!自分、新入りの轟と申す!以後よろしゅうに!」
 銭の補足を聞くなりきっちり90度のお辞儀をした轟の勢いに押され、閉口した小太郎は数秒後に思い直して口を開いた。
「門松を知ってるのか?」
「彼の元同僚さんだそうですー」
「大工仲間だ!家でも何でも作れるもんなら作るでよ、気軽に言ってくれて構わんですぜ!」
 家っておま…とつっこもうにも既に目の前から消えた轟を横目に、なんとか立ち直った小太郎はいつもの相方に呼び掛ける。
「おい、銭…」
「轟さんが作って下さった棚に興奮した義希隊長が、圓くんと丸一日かけて掃除した結果がこれですー」
 これでもかと綺麗に纏めた説明が小太郎を黙らせると、室内には書類を捲る音だけが残った。
 四人が各々席に付いて仕事に戻ったのも束の間、思い出したように銭が話を切り出す。
「あ、轟さん。昨日の残業代、ちゃんと付けてくださいよ?嘘申告は大臣さんの逆鱗に触れますからー」
「そりゃあいかん。あれくらい残業代貰うほどでもないと思うたが…うーん、ボランティアということにはならんか?」
「ならんならん。貰えるものは貰っとけっつー話だろ?別にいいじゃんこんだけ仕事してんだしよ」
 轟の唸りを一蹴したのは諸澄だ。手をひらひらと払う仕草までを認めた銭が、表情も変えず棒読みに呟く。
「先輩風吹かすねー。諸澄くん」
「悪いかよ!悪くないだろ!黙ってろ」
「いつまで持つことやらー」
 何とも言えぬ間延びした声が終わるか終わらないかと言うところ、身を乗り出した諸澄の反論を阻止するかのようにあわただしく扉が開かれた。
「すみません、遅れました…」
 転がり込む勢いで入ってきたのは、A4の封筒を抱えた圓である。彼はそのまま速足に席に着くと、置かれたままだった紙の束を引き寄せた。
「直ぐに作りますから…報告書…」
「大丈夫かよ?顔真っ赤じゃん」
「あ、はい…だ、大丈夫です」
 正面に座る諸澄が低い角度から覗き見て訊ねるのに、目を泳がせて誤魔化す圓に数人が違和感を覚える。
 しかしそのタイミングで他の早番面子がぞろぞろと戻って来てしまった為、結局その正体は掴めず仕舞いだった。

 そんな夕暮れ時。

 城の庭では明日の不用品整理に合わせて、城門から見えない位置にスペースを設置、今日見付けた要らないものの全てを何とか運び終えた所である。
 新参者である雫は自ら願い出て、丸一日メイド長の橘さんを手伝い力仕事に精をだした。こういった作業も嫌いではないし、他のか弱そうなメイドさん達にやらせるのも気が引ける上、何よりやるべきであると何となくの義務感に駆られて挙手をした次第である。
 彼女はこの涼しい空気の中、長袖のジャージを腕捲りして額の汗を拭い、集まった品々をぐるりと見渡した。
 城内では大抵の物が大切に扱われるせいもあるのだろう、殆どは元の程を成していない。
 背凭れの折れた椅子だとか、割れた食器皿だとか、何かの部品だとか。
 この中から直せるものとそうでないものを分別…と、言うよりは直したいものを好きに持っていってもらって、残ったものを最終考察し、更に残ったものだけを処分するのだ、とのこと。
 明日、どれくらいのものが救われていくのだろうかと、曖昧ながらに一つ一つを記憶する雫の目がある一点に止まる。
 一見してガラクタだらけのその中で唯一、特に欠陥の見られない植木鉢が、積まれた品々の隅にポツンと置かれていた。
 気になって近付いてみると、何かの花が植えてあるようで、しかし時期ではないのか、花は付いていない。
 それでも鉢や土、葉の様子からして、丁寧に手入れのされた…言うなれば、大切にされていたような名残があるように見えた。
「シクラメンだ」
 雫は思わず手にとって初めてその名を思い出し、独り言を口にする。
「間違っちゃったのかしら?」
 ハート型に似た葉の群れは、日陰の黒を吸収してしまったのか、酷く沈んだ色をいていた。
「あの…」
 不意に呼び掛けられて驚いた雫は、鉢ごと身を跳ねさせる。振り向くと、初出勤日に会ったきりだった海羽の姿がそこにあった。
 彼女は続きを語り兼ねているのか、前置きを探すような言葉だけを並べ連ねている。見兼ねた雫は数秒も待たずに助け船を出した。
「これ、あなたのですか?」
「…はい」
「捨てちゃうの?」
「え?」
 気まずそうに目を伏せた海羽は、続く雫の問いかけに裏返った声を出す。
「ここ、廃材置き場ですよ?」
「あの…はい。ここにあったんですか?」
「あなたが置いたんじゃないの?」
 海羽が首を横に振ったことで噛み合わなかった見解が噛み合うと、雫はほっとしたように肩の力を抜いた。
「ごめんなさい。それなら、犯人は…」
 分かってるから。海羽は小さくそう呟いて、白い鉢にそろそろと手を伸ばす。
「大切なんですね」
「え?」
 雫は海羽に鉢を差し出し、その上に言葉を落とした。
「見たら分かりますよ」
「…はい」
 溶けるような笑顔に曖昧な笑顔を返した海羽は、鉢をしっかりと抱えて小さく礼を口にする。
「ありがとう」
「私は何も」
「あの…それから…」
「店のことですか?」
 沈んだ声色から瞬時に判断し、雫はひらひらと小さく手を振った。
「だったら、何も言わないで」
 彼女の苦悩と困惑を見事に混ぜたような苦笑は、何らかの事情を悟っているであろうことを海羽に伝えるのに十分な感情を含んでいる。
「何となく気付いてる。けど、きちんと気付いてしまったら、いけないような気もしているので」
 雫がそう補足したことで、海羽も半分納得して頷いて見せた。
 お互いに微笑を向い合せて数秒後、海羽はそっと頭を下げる。そのまま踵を返そうとする彼女を雫の声が呼び止めた。
「それ、シクラメンですよね?」
「はい」
「大切な人から貰ったんですか?」
 振り向いた海羽は、見開いた瞳を揺らがせたまま固まってしまう。雫が3度程瞬きをする間に、すっかり顔を赤くした彼女は、俯く過程で返答を始めた。
「…僕宛てに、くれたわけじゃないのかもしれないけど…あの…」
 しどろもどろに、しかし最後には消えてしまった言葉は首肯に直される。雫はふっと微笑むと、深く頷いて笑顔になった。
「咲くといいですね」
 夕陽に照らされて眩しさを帯びたそれを前に、海羽は思わず目を細めたが、それでもそれが心からの言葉で…笑顔であることは理解できる。
「ありがとう」
 泣き出しそうな海羽の声は、彼女自身が駆けていくことで余韻をかき消した。
 数秒後、代わりに響いてきたのは遠くから海羽を呼ぶ声と、踵が床を鳴らす音。
 ここまで聞こえるものかと呆れると共に、ここはそれほど静かなのだと再認識する。
 全ての音が去って、一人残された雫はガラクタの山を振り向くと、仕事へと意識を切り替えた。





cp42 [人員募集]topcp44 [秋晴れ]