紫の人



 鰯雲が並ぶとある秋の日。

「今日1日、ヘルプとして参戦する紫(むらさき)だ」
「宜しくお願いします」
 にこっと言う効果音の後、ぺこりと頭を下げたのは名前の通り紫色の髪を持つ長身の青年だ。相変わらず恐ろしいと評判の大臣を前に緊張の面持ちで立ち尽くしていた隊員達から、俄に拍手が上がる。
「助っ人だけに腕は確かだ。適当にこきつかってやれ」
 隣の義希に後は任せたと視線で訴え、沢也は早々に踵を返した。その背中が扉の向こうへ消えると同時、沢山の溜め息が連鎖する。
「オレは第一近衛隊長の義希。よろしくな?紫ー」
「宜しくお願いします」
 能天気な近衛隊長の挨拶に、紫は先と同じような礼をした。少し上から注がれる柔和な微笑を見上げながら、義希はうーんと顎に左手を添える。
「んー、どっかで会ったこと…」
「時々街で見掛けるね。前にもほら、通りで帯斗くんが荷物をひっくり返しそうになった時…」
 出発の支度をしていた定一の茶々により、数週間前の事を思い出した義希の両手が合わさった。
「ああ、あの時の!」
「その節はお世話になったっす」
「いえ、大した事では…」
 ついでに帯斗が頭を下げると、紫はふわりと小首を傾げる。
「そんじゃあ折角だから、紫はこの二人に色々教わって?」
 彼が長い横髪を揺らしながら元に直るのに合わせて義希が言うと、定一と帯斗は揃って眼を見開いた。
「三人行動かい?」
「とりあえず行ってみて、問題なければ一人こっちに回してくれたらいいからー」
「そういうことなら、了解」
「そいじゃあ行くっすよー」
 義希の同意を見届けた紫は、定一に背を押されつつ帯斗の呼びかけに続く。
 薄暗い路地を抜けて晴れやかな通りに出ると、茶髪2人に挟まれた、背の高い紫が妙に目立って見えた。
 帯斗は無意識のうちに定一の隣まで移動して、彼越しに紫に問いかける。
「紫さんはこの町の人っすか?」
「いいえ。本拠地は本島にあります」
 帯斗の挙動を気にも留めずに回答した紫を見上げ、定一も単純な疑問を注いだ。
「助っ人って言うけど…どんなツテがあるんだい?」
「はい、郵便課のみなさんと懇意にさせて頂いてるんです」
「ああ、そう言うことなら」
「納得だねえ」
 各地に拠点がある彼らの交友関係は計り知れない所があるわけで、それを良く知る2人は早々に納得を示す。
 交互に首を上下させる彼等を面白そうに見据える紫は、微笑を崩さずサラリと話を切り替えた。
「爆弾魔が町を騒がせていると聞きましたが…」
「そうなんすよ。色々探ってはいるんですがね?」
「いやいや、これと言った指示は出ていないんだよ。なんたって手掛かりが出ていないから、パトロールを強化するくらいしかできなくてね」
「では本日はどちらに?」
「いえ、大した業務ではないんすが…」
「いやいや、大がかりな業務だよ?なんたってこの町中…下手したら本島までしらみつぶしだからねえ」
 隊の本質を誤魔化すような帯斗の語りを、定一が尽く潰していく。諦めてありのままを見せることを心に決めたのか、俯かせていた苦笑で溜息を吐いた帯斗は、手元の紙と周囲とを見比べて人差し指を持ち上げた。
「あ、ここっすね」
 彼が示したのは、比較的背の高いビルに挟まれた細長い1戸建て。2階と1階の壁の大半を占める窓際には、所狭しと草花が並べられている。
 深緑色の屋根の下、定一が同じ色合いの扉の脇に付いたベルを鳴らすと、中から漫画から飛び出たような風貌の中年女性が顔を覗かせた。縦ロールにも似た不思議な髪型をしたその人は、隊員たちの制服を見るなりその腕をひっつかみ。
「うちのキャンディちゃんを見付けて下さい!お願いです!」
 そう言って迫力満点に縋り付いてきた。
 背後に居た紫と帯斗が圧倒される中、物理的に圧力を受けた定一がへっぴり腰に問いかける。
「はいはい、全力で捜させて貰うつもりなんで…あのー、特徴をですねえ…」
 彼のその質問は、その後5度程繰り返された。何故なら事あるごとに依頼主が話を逸らしたから。
 20分後。
 長い長い自慢話と世間話、及び愚痴や悪口噂話から解放された3人は、早くも疲れた表情で路肩に集合する。
「えーと…白と茶色のぶち模様、ふさふさの毛並みに泣き出しそうな団栗眼、背中に茶色のハート型…と」
 預かった写真を見ながら、繰り返し聞かされた捜索対象の特徴を読み上げた帯斗の手元を紫がそっと覗いた。
「チワワみたいですね」
「ポメラニアンの方が良かったなぁ」
 同じく頭を寄せて呟く定一を見上げて帯斗が問う。
「それはいっさんのやる気に関係する系っすか?」
「うん。ポメラニアンなら三割増しだったよ」
「それは残念す」
 盛大な欠伸をやれやれと流した帯斗が、大通りに出て数歩進んだ辺りでピタリと足を止めた。
 故意に、と言うよりは脊髄反射のようなそれに、後ろを歩いていた紫も急停止させられる。
 心なしか顔が赤くなった帯斗の顔を見て、捜索対象を発見した訳ではない事を察した紫は、固まる彼に朗らかに問い掛けた。
「どうしました?」
 周囲を警戒していた定一が二人に、更には帯斗が硬直している理由にまで気付いて口端を持ち上げる。
「おやアレは、帯斗くんが懇意にしている煙草屋のおねいさん」
「へえ、どちらですか?」
 にやにやと愉しげな二人の声を背に受けた帯斗が、顔の赤みを増してはハッと我に返った。
「ちょ…いっさん!」
「あのおだんご頭の」
「ああ、あの泣きぼくろの…」
「ぬわああああ!って?!こっから泣きぼくろまで見えちゃうんすか?!どんな眼してるんすか!」
 通りの先、曲がり角を利用して作られた小さな煙草屋を指差して確認する彼等にまとわりつきながら、小声にした絶叫で慌てまくる小さな彼のジャケットから小魚の小袋が撒き散らされる。
 定一がやれやれと宥める間、紫が小袋を広い集めていると、別の種の騒がしさが遠方から訪れた。
 それは興味と恐怖と悲鳴を連れて、今しがた見据えていた煙草屋の軒先で足を止める。
「売り上げを返せ!」
「うるせえ!それ以上近寄ると、こいつを斬るぞ!」
 騒ぎの中心人物は、追い掛けてきた男を牽制して煙草屋の売り子にナイフを突き付けた。
 腕の中の小さな袋を抱え直し、逃げ場の無い煙草屋のカウンターの内側にナイフの切っ先を近付けて行く。
 構造上カウンターの中は狭く、何処に逃げるにしても扉を一枚隔てているため、売り子の女性も動く事が出来ないようだ。
 定一と紫が見合わせた顔を縦に振り、再び現場を振り向くと。
「その人から、離れろぉおおぉ!」
 既に帯斗が突撃を開始した後だった。
 自分より足の早い帯斗を止めることが出来なかった定一が、息を飲んで頭を回転させる間に紫が動きを見せる。
 帯斗に気付いた犯人がこちらに向き直り、人質を引き寄せようと腕を伸ばした。
「伏せて下さい!」
 駆け抜けた紫の声に反応したのは、カウンターの中の彼女だ。腕から逃げるように屈んだ事で、男の意識が一瞬だけそちらに逸れる。
 その間に景気よく跳躍した帯斗が、勢いもそのままに回し蹴りの体勢を取った。
 幾ら足が速いとは言え、小柄な彼にはリーチが無い。帯斗の右脚は、一瞬の隙が回復する間際に男の頬を掠めただけに過ぎず。
 次に隙だらけになるのは、空振りを着地の体勢に直す彼自身だ。
 勢い良く地面に着地した帯斗は、スピードに引き摺られて犯人を通り過ぎる。屈んだ状態で停止した彼の頭上に、追い付いた犯人の手からナイフが振り下ろされた。
 思わず眼を閉じた帯斗の脳内にギィン、と、耳に残る金属音が反響する。
 恐る恐る開眼した彼の眼には、自分と同じ近衛隊のジャケットが映り込んだ。
 背負っていた二本の剣を構えた紫が、弾き飛ばしたナイフの行く末を見守る。その軌道が人気の無い場所に向かうのを覚ったのか、ホッと息を吐いた彼に犯人の右手が伸びた。
 帯斗や野次馬が「あっ」と思ったのも束の間。男の腕をサラリと避けた紫は、その腹部に剣の柄を押し込んだ。
 腹を押さえて踞る犯人を背後から定一が取り押さえた事で、周囲から俄に拍手が巻き起こる。
 紫が現金の入った小袋を帯斗に預け、関係者らしき男に事情を聞きに向かうのを待って、定一がぽつりと独り言を漏らした。
「腕は確か…か。成る程ね」
「…また…」
 帯斗の呟きの後、定一は男の腕に手錠をかけ終えて顔を上げる。
「帯斗くん?」
「いえ、なんでもないっす!」
 悔しげな表情を一瞬にして笑顔に変えた彼は、犯人の腕を掴んで明るく言った。
「これなら、俺はこいつを届けたあと、隊長の方に行っても大丈夫そっすね」
「…そうだね。たまには僕以外の人とパトロールするのも良いと思うよ」
「じゃあ紫さん、いっさんを宜しくたのむっすよ」
 被害者諸とも連れ立って、城に向かっていく帯斗の背中を残された二人が見送る。
 野次馬や周囲への被害状況を始め、巻き込まれた煙草屋の売り子に怪我が無いことまでを確認し終え。踵を返した定一が密かに吐き出した溜め息を、続く紫が拾った。
「良かったんですか?彼」
「ん?…ああ、まあね」
 頭を掻いては首肯して、下から紫を見上げた定一は、肩を竦めて曖昧に返事をする。
「癖ってのは、なかなか直らない物だから」
 察してか、元から興味など無かったのか、紫はそれ以上の事を聞こうとしなかった。
 定一は彼の不思議な雰囲気を片目で観察しながら、もう片方で仔犬の姿を探す。紫は銭とは違う種の微笑を浮かべたまま彼の行き先を付いて回った。

 二人が大通りから路地裏に移動して暫くした頃、定一が欠伸ついでに足を止めては疑問を漏らす。
「おや。こんなところに喫茶店なんてあったかねえ?」
 現在地は王都の商店街中心部から若干城寄り、しかし入り組みすぎて存在感の無さすぎる路地の最奥だ。
 定一が夢心地から覚めようと眼を擦るのも無理はないだろう。
 彼がそうして白い扉やベージュの日除け、簡素な立て看板などを観察していると、後ろの紫も僅かに歩を進めた。
 店舗の幅は丁度二人が並んで手を広げた位しか無く、しかし奥行きはそれなりに有るようにも見える。
「これはまた、素晴らしい巡り合わせだと思いませんか?」
 紫の言葉を不思議に思い、視線を流した定一の目に飛び込んで来たのは、薄暗い中でも確かに見える小さな貼り紙だ。
 無駄に写りの良い写真の下には「仔犬預かってます」の文字が控え目に踊っている。
「奇跡的だねえ」
 嬉しさと脱力、それから何とも言えない気持ちを良い感じに混ぜ合わせた定一の欠伸は、これまた良い具合に伸びて間を繋いだ。
「ついでに休憩と洒落こもうじゃないか。初めてのダブル事件解決記念も兼ねてね」
「いいですね。この店はコーヒーが格別なんですよ」
 馴染みのように言う紫を、定一の見開いた瞳が振り返る。
「郵便課の友人の受け売りです」
 人差し指をくるりと回して疑惑にそう言い分けて、紫は喫茶店の扉を押した。

 その後、二人が美味しいコーヒーをそれぞれに楽しみ始めた頃。

「お。帯斗」
「ういっす」
 駐屯地の手前で鉢合わせた二人は、並んで通りを歩きながら会話を続行する。
「紫はどうだった?」
「問題ないっすよ。だって…」
 一刻前を思い出し、俯いた先で笑顔を直しながら、帯斗は明るい声で告げた。
「凄く、強かったっすから」
 その様子を見た義希は、表情を曇らせて報告の詳細を促す。
 事件に遭遇した所から、犯人を収容した所までを聞き終えた彼は、帯斗の心情を理解して苦笑を浮かべた。
「帯斗さ」
「はい?」
「どうして隊にはいったんだ?」
「どうして…?」
「うん。仕事なら他にも色々あるのに、どうして近衛隊を選んだのかってこと」
「そりゃあ…まあ…その…」
 突然の質問に戸惑う彼は、口を尖らせてバツが悪そうに顔を逸らす。
「憧れて」
 帯斗にしては小さな声が、照れ臭そうに響いた。
 義希は珍しい彼の表情を嬉しそうに見下ろしながら、周囲を気にせず前方向に問いかける。
「誰に?」
「…俺って、すぐ頭に血が上って…キレやすい性格じゃないすか?」
「うん?」
「それで、結構周りに迷惑かけることが多くて…だから」
 だから、反省しているから、そんな顔をしているのだと、話の先に見当を付けながら頷く義希を他所に、帯斗はやはり照れくさそうな笑顔を浮かべた。
「……あんな風に、いつでも笑ってられたらなて、思うんすよ」
 呟きを聞いた義希は直ぐに蒼の顔を思い出す。それは当然、笑顔だった。
 帯斗は俯けていた顔を空に向き直らせると、希望に満ちた瞳で話を続ける。
「そしたら暴走することもなく、もっと余裕で居られるんじゃないかって。あ、そんな簡単なことじゃないって分かってるんすよ?ああしてどんな人にも平等に笑顔を向けられるって、並大抵の事じゃないと思うんす」
「そうだな。そうだと思う」
 義希が同意したことで、帯斗は自身の憧れる人物を悟られた事に気が付いた。赤面を甦らせた彼はしどろもどろに質問する。
「…隊長は、あの…陛下の事、良く知ってるんすよね?」
「ああ、知ってるよ」
「どんな人すか?」
「優しいよ」
 義希は迷いなくそう言って、振り向いた帯斗の瞳を受け入れた。
「優しくて、優しくて、だからこそ厳しい面も持ってて」
 何処と無く誇らしげな義希の声に、帯斗は意図せず笑顔になる。その口元からは優しい声が溢れた。
「優しく…なれれば、あんな風になれますかね?」
「うーん…どうかな…。てかさ、帯斗は、蒼になりたいん?」
 突然の切り返しに硬直した帯斗は、驚きをそのまま声にする。
「え?」
「お前がいくら頑張っても、蒼にはなれないぞ?」
「そんなん、分かってるす」
「じゃあ、今のまんまでいいんじゃないか?」
「今のままじゃダメなんす。だから目標を掲げてるだけじゃないすか」
 憤るままに説明するも、義希がいまいち納得していないように見えて、帯斗はまた口を尖らせた。
「あんな風になりたいって思うのは、いけないことすか?」
「いや、分かってるならいいんだけど」
「分かって…ますよ…」
 そう言い切れないのは、自分でも良く分かってないからだ。いや、そう深く考えたことがないからかもしれない。
 街道を進む二人が同じ考えに至った時。
 前方から知った顔が歩いてくるのを見付け、義希は大袈裟に手を振った。
「沙梨菜ぁ!」
「あ…義希☆」
 呼ばれた彼女は顔を上げ、二人の姿を認識する。合流した三人は道の端に寄って雑談と洒落こむ。
 沙梨菜はそっと背伸びをした帯斗を見上げ、何時ものように笑顔を浮かべた。
「帯斗ちゃん、久しぶりだね♪」
 向き合った二人は、義希や小太郎を通じて何度か顔を合わせている上に、帯斗の方は彼女のファンクラブに入会している程の仲である。それでも帯斗が緊張していないのは、彼が沙梨菜そのものよりも沙梨菜の歌声に惚れ込んでいるだけだからだろう。
「久しぶり…てか、ちゃん付けは勘弁して下さいっす」
「えー?だってえ…」
「だってって…隊長や小太郎さんは呼び捨てじゃないすか」
「うん、義希と小太郎はね?」
「他に誰をちゃん付けにしてるんすか」
「えとー、沢也ちゃんでしょ?蒼ちゃんでしょ?それからぁ…倫ちゃんもだよ?」
「よりによってなチョイスっす!」
 壊滅的にちゃん付けが似合わない後者のラインナップに侃々諤々な帯斗をそのままに、義希は笑う沙梨菜の顔を覗きこんだ。
「沙梨菜はこれから…」
「うん、ちょっと…ファンクラブの方にね」
 あはは、と誤魔化すように頭を掻いた彼女の様子を見た彼は、帯斗の時同様に表情を曇らせる。
「…どうかしたのか?」
「へ?ファンレターとか、プレゼントが貯まってきたからって。取りに行くだけだけど…どして?」
「いや、そか。何もないならいいんだけど」
「あはは、変な義希ー」
 きょとんと言い分けて、笑い飛ばす。その仕草や表情の一つ一つを凝視する義希から逃げるように、沙梨菜はヒラリと踵を返した。
「じゃあね!帯斗ちゃんも、またねー♪」
 最後までちゃん付けを貫く彼女を見送った二人は、苦笑に似た表情を向き合わせる。
「…でも一応、年下扱いされてるって訳じゃなかったんすね」
「沙梨菜のは殆どあれだよ。いまじねいしょん?」
 不自然な発音と疑問符を聞き付けた帯斗は数秒悩んだ後、ハッとして指を鳴らした。
「もしやインスピレーションすか?」
「そそ。それそれ。深い意味なんてないと思うぞ?」
「そっか…ならいいんすけど。俺、一応年上なんで?ちょっと気になってたんすよね」
 そうだったっけ?と思わず言いかけて、義希は密かに口をつぐむ。朗らかな様子で歩を進める帯斗は、幸いなことに義希の仕草に気付かなかったようだ。
「…して、俺達は一体何処に?」
「ああ。この前の事件現場の見回りに」
 目を逸らすついでに方向転換し、義希はふわふわと辺りを見渡す。
 現在地は橋に程近い商店街。話に熱中し過ぎて多少通り越した目的地に近付かんと、手頃な路地に入った所だ。
 爆発しない爆弾が仕掛けられたアパートは、橋の延長線上にあるメインストリートより一本外れた通りにある。二人はシナモンロールの店の裏手を通り、手芸屋の段ボールを避けながら、少し妖しいアクセサリーショップの前を抜け、古着屋と古本屋の間に出た。
 あとは右折して目印の八百屋を探しながら歩くだけ。目印が見えた辺りで今度は右折すれば良いのだから。
 帯斗が帰りにシナモンロールを買って帰ろうと提案しかけると、悩ましい義希の横顔が視界に入る。
「どうかしました?」
「んー?いやさ、沙梨菜なんだけど…」
「ああ、ちょっと声嗄れて聞こえましたよね?調子悪いんすかねぇ」
「そっか。そうなんかなぁ」
「新曲、そろそろだって噂すけど」
 腑に落ちない義希の不安をそのままに、会話は終了と相成った。帯斗が目当ての路地を忘れて義希に指示を仰いだのだ。
 彼等はそのまま警戒モードで路地を歩いたが、特に変わった所はなく。

 数十分後、シナモンロールを土産に駐屯地に帰還すると、圓や定一が紫に報告書の作り方を教えていた。
 テーブルに差し入れを乗せる片手間覗いて見れば、犬を無事保護した経緯が記されている。
「あ。そーいや門松っちが今月頭ばまでにはぁぁあって叫んでたっけ」
「いきなり何の話だい?」
 思い出した事をそのまま口に出した義希に定一のツッコミが入った。問われた義希はハッとして解説する。
「ああ、うん。知り合いの大工が半分くらい造ったんだよな。その喫茶店の内装」
「へえ。なかなか良い雰囲気だったよ?この「TIME」って店。コーヒーも旨かったし」
「いっさんがコーヒー頼むなんて意外もいいとこっすね…いつもはオレンジジュースじゃないすか」
「だあって、紫くんが…」
「あの、出来上がったこれはどうしたらいいんですか?」
 いつも通りの会話に割って入った紫は、一斉に振り向いた面々の顔に微笑を注いだ。
「あ、それはこちらに。後でまとめて城に持っていきます。それと、そちらの案件は鑑定所経由なので、コピーを鑑定所にも届けないと…」
「それなら僕が行くよ。丁度私用で用事もあるしね」
「ついでっすか」
 欠伸のついでの進言をからかった帯斗の笑い声。紫は遠慮がちに右手を持ち上げる。
「あの、この既存の報告書、もう少し読んでいても構いませんか?どんな事件が起きているのか興味があるんです」
「はい。では鑑定所は僕が一緒に…」
「君も用事?」
「ええ、実は現在財布が空っぽでして…」
 紫の頼みを直ぐに聞き入れた圓が照れくさそうに財布を提示した。定一と帯斗はそれを覗き込んでは微笑ましげに顔を和ませる。
「じゃ、さっさと行ってこようか」
「行ってらっしゃいっす」
「シナモンロールは残しておいてやるよー」
「助かります」
 シナモンロールを取り分けながら二人を見送って、義希はストンと席に付いた。
 帯斗と二人、パトロールの報告書を書きながらの休憩はあっと言う間に終了する。それもその筈、特別報告することなどないのだから。
 口の端に付いたシナモンを舌で掬った義希は、大きな伸びと共に立ち上がって帯斗に呼び掛ける。
「そいじゃ、オレ等ももう一回りするかぁ」
「そっすね。あ、紫さんは…」
「もう暫くここに居ます。定一さんと圓さんが戻ったら、詳しい話を聞かせて貰おうかと…」
「らじゃらじゃ!まぁ、その間は多分誰も帰って来ないと思うから。ゆっくり休憩しといてな?」
 そうして義希が扉を開くと、薄暗い路地の代わりに黒っぽい服が見えた。
 驚いた二人が視線を持ち上げれば、その正体が明らかになる。
「あれ、倫祐じゃん。忘れもの?」
 出張中の筈の彼に義希が朗らかに問い掛ける間、帯斗が微妙な動きでその脇をすり抜けた。
 倫祐は首肯で答えて入り口脇に置いてあった廃材を回収する。
 彼の左手に付属された指輪に吸い込まれていくロープの残骸や板、鉄屑などを眺めながら、義希は追加で質問する。
「あっちで使うん?」
 作業を終えた倫祐はまたも頷くだけで答え終えた。
「そかそか。向こうはどう?元気してるか?」
「隊長ー、早くしてくださいよー」
「ああ、今行くー!」
 帯斗の呼び掛けに応じた後、倫祐がもう一つ頷いたのを確認して、義希はぶんぶんと手を振り乱す。
「そんじゃあな、倫祐ー!また一ヶ月後くらいにー」
 倫祐はそれにも頷いて、駆けて行く二人が見えなくなった所で扉を閉めた。
 彼は、駐屯地に一人残された紫を振り向いて小首を傾げる。紫は資料から顔を上げて彼に微笑んだ。
「…はじめまして。紫と申します」
 穏やかな挨拶に、倫祐は応えない。代わりに不服そうな眼差しで紫を見据え続ける。
 数秒後。
 紫は観念したように肩を竦めると、笑顔を微量、変化させた。
「なーんて、誤魔化しても無駄ですか?」
 にこやかなそれに、倫祐はやっと首を動かし、付け足すようにポツリと問う。
「偵察?」
「ええ。まあ」
 呟いて直ぐ煙草をくわえた彼に灰皿を差し出した紫は、手渡すと同時にくるりと回転した。
「なかなか見事な変装でしょう?」
 嬉しそうな問い掛けに頷いて、倫祐は細く煙を吐く。
 紫は彼の背後に貼られた禁煙の文字を横目に密かに苦笑した。
 釣られて振り向いた倫祐が思い出したように煙草を消して、扉に手をかける間際。
「義希くん、どうやら気付いてないみたいなので。折角ですから内緒にしておいて下さいね?」
 紫はそう言って、回した人差し指を口元に添える。
 倫祐は飽きもせずに首肯すると、珍しく手を振ってからその場を後にした。





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