ハンター


 
 空の色は今日も明るく。しかし数日前に比べれば、些か陽射しが柔らかくなったようにも感じられるお昼前。
 いつもの仕事場に佇む茂達の元、城壁伝いにランニングをしていた正宗が舞い戻っては深い息を吐く。
「もう休憩か?」
「いやいや、そろそろかなぁと思ってさ」
 よっこいしょ、と。隠してあった槍を持ち上げながら呟く彼に、茂達も納得して空に向き直った。
 試験にて運動不足を実感した二人は、面接の際沢也に掛け合って、暇を見てトレーニングをする許可を貰ったのである。
 先日面接をした定一は現状維持を望んだが、残りの合格者である二人は沢也の提案を飲んで「本隊」に移籍、昇格する事を決めていた。
 実際の異動はもう少し先の事になるが、隊員の間では周知の事実となっている。
 そんな二人よりも早く面接が行われ、本日中に移動が決定している三人が、そろそろ挨拶を終える頃だと。背筋を伸ばして門の脇に立った正宗は、相方に皮肉混じりの話を振った。
「あんな形でペナルティ受けた奴等を、近衛隊を追い出した後も尚面倒見てやるなんて…少々甘やかし過ぎな気もするけどね」
「仕方があるまい。あれ等はあれ等で、引っ込みが付かなくなってしまっただけなのかもしれんしな」
「まあ、ね」
 試験中の不正を報告した張本人である茂達のフォローを不服そうに受け止めて、正宗はこっそり口を尖らせる。
 元は近衛隊員として真面目に働いていただけあって、彼等三人がそこまで悪い連中でないことは確かだ。正宗もそれは十分承知して居たし、移動に関しての話し合いが拗れなかったこともよく知っている。
 二人は揃って溜め息を空に上げた。するとまるでそれを待っていたかのように、城の入り口が大きく開かれる。
 静かに外に出てきたのは噂の三人だ。彼等は一様に普段着のまま、無表情で城門を潜っていく。
「移動先はリリスだそうだな」
 茂達がいつものように無感情に問い掛けた。
「そうだ。あっちにもここと同じ様に警備員が居てな」
「知ってるよ」
 正宗が頷くと、別の一人が嘲笑を浮かべる。
「向こうでは上手くやるさ」
「反省はしているようだな」
「お前に何が分かるんだよ…」
 茂達の指摘に対して三人が呆れたような顔をした所に、正宗が人差し指を割り込ませた。
「滲み出てるじゃん?茂達に喧嘩売らない辺り、特に」
 図星を付かれたのか、反論もなくそっぽを向いた彼等に溜め息を注ぐ茂達と、苦笑を注ぐ正宗と。
「達者でな」
「またな」
 それぞれの挨拶に適当に頷いて、三人はゆっくりと城を離れて行った。
「あんだけ時間を割いても駄目で…だけどそれでも解雇しないのはやっぱり…」
「元ハンター等の失業者が再就職を困難としている事が、理由として上げられるだろう」
 感情的な正宗の声を、無感情な茂達の結論が追いかける。
 彼の言うとおり、国の設立と共にハンターの仕組みそのものを解体した事により、ハンターとして生きていた人々の半数以上が職を探し当てられずに居た。そのうち何%かは今も失業したまま、国の援助を受けて生活していることになる。
 しかし援助とは言っても、生きていく上で最低限の物資が与えられるだけだ。支援には職の斡旋も含まれているにも関わらず、少ない援助で生活を続ける元ハンター達の対処については、貴族院でも散々急かされている事案である。
 だからと言って、今回のように。働く気のない人間を高値で雇い続けるほどの資金は今の国にはない。
「今回。参謀は彼等の希望に沿った処置を取ったに過ぎないが、本当ならやる気を取り戻した上での残留を望んでいた筈だ」
「城は人手不足、しかし街では就職難…か。上手く回らないものだな」
「回らないのではなく、回らないよう細工を施している輩が居るだけかもしれないがな」
 不服そうな溜め息は、茂達の言葉によって納得に変えられた。
 険しい顔付きで空を眺める二人の視界を、飛竜のシルエットがゆっくりと横切ってゆく。
 空の淡い水色も、陽の光の色も。未だ青く繁る草葉の色も。全てを右から左へ流し、門番達が難しい問題を思案し続ける丁度その頃。


 全ての色を閉ざした薄暗い空間に足を踏み入れたのは、三人との最後の面談を終えた沢也だ。
 階段からエントランスに降り、入り口から向かって右側へ。比較的細い通路を真っ直ぐに進むと、直ぐに開けた場所に出る。
 そこは王座の間がある棟とは逆側に当たるフロアで、吹き抜けではなく通常の階段が設置されているなど、造りも雰囲気も全く違う。
 左へ進むと二階へ続く階段に、正面に進めば道場に出るのだが、沢也は右に曲がって突き当たりの扉を開き、現れた階段を降った。
 そこは屋上へと続くそれに似た、しかし広さの無い真っ直ぐな階段で、両隣を石壁に挟まれた閉鎖的な雰囲気を持つ。
 踊り場で一旦折れて下りきった先には、鉄格子の手前に簡素なデスクが置かれている。
 沢也は常駐する司法課の職員に軽く手を上げると、差し出された帳簿に素早くサインを施した。
 職員は腰に携えた鍵の束を手に、彼の言い付け通りの場所に誘導する。
 一番最初の鉄格子の先に、更にもう一つ。それを抜けた先には、言わずもがな牢屋が並んでいる。
 鉄格子と石壁に区切られた個室の一番奥、木造の扉を開くとそこは聴取室になっており、先に到着していたボスが一人の囚人と共に沢也を待っていた。
「今日もだんまりか?」
 看守を帰し、囚人の正面に腰掛けながら、沢也は世間話のように話を始める。
 そんな彼の背後に当たる扉の前にボスが立つと、不思議な威圧感が生まれた。
 囚人は、二人を代わる代わる睨み付けて低く返答する。
「お前なんぞに話すことなどない」
「そんなに俺が嫌いか」
「お前だけなものか…」
 顔面にありったけの皺を寄せて呟くその男は、二ヶ月程前に逮捕した「不正マジックアイテム」の製作者だ。
「お前、元ハンターだろ?履歴書。そこらに落ちてんのを拾わせて貰った」
 沢也は企業から取り寄せた書類をテーブルに乗せ、口をひきつらせた男に長文を浴びせる。
「押収したアイテムの特性からも分かるように、お前は攻撃特化の魔術師だ。こんな時代になってしまったばっかりに、職を探すのに苦労したようだな。平和な現在、魔術に使用制限がついたせいもあって、治癒やバリアが上手く使えなければ魔術なんて殆ど必要とされない。それでいて制限の緩い国とではなく、逆に国とは関わらねえような会社ばかり相手にしていたようだが、結局どこも断られたと」
 やっとのことで言葉を切り、書類から顔を上げた沢也の無表情を受け入れたのは、男の険しすぎる眼差しだった。
「そう睨んでくれるな」
 呟いて溜息を付くも、状況が緩和されることはなく。沢也はそのまま言葉を続けた。
「確かに、俺達のせいで生活が困難になった奴等は沢山居るだろうが…それとこれとは話が別じゃないのか?」
「うるさい!お前に何が分かる!」
「お前が意地ばっかはって墓穴掘ってるっつーことは分かる」
 倒された木の椅子が音を立てる。手錠付きの両手に胸倉を掴まれた沢也は、身構えたボスを手だけで制し、男に微笑を注いだ。
「殴って気がすむなら、殴れば良い」
 若干の身長差もあって、見下ろされる形でそう言われた男は、乱暴に沢也を離すと悔し気に舌を打つ。
 皴の寄ったスーツを直すでもなく座り直した沢也は、俯く彼の顔を見据えて小さく問いかけた。
「とっくに気が付いてんだろ?お前だって」
「…そうだ。うまくいかないことを全てお前らの…国のせいにして、身の丈に合わない事を続けてきたツケさ」
 なんとか聞き取れる程度の声量で肯定し、次に沢也を振り向いた男は拳を机に叩きつける。
「だがな…俺はお前らの思うようにはならない」
 声を大にして言い切ると、彼は不敵な笑みを浮かべてこう続けた。
「精々困るが良い…!この俺を救えなかったように…俺のような奴のせいで傷付く国民を救えぬ、その無力さに…嘆け!泣き叫べ!…っ」
 責め立てられて尚表情を変えぬ沢也に対し、男は苛立たしげに席を立っては威圧を加える。しかし沢也は冷めた様子で溜息を吐いて、諦めたように席を立った。
「待て!」
「何だ」
 早々に踵を返した沢也は、追いかけてきた男の声を淡白に振り返る。
 男は沢也の無表情を前に、怒り任せに奥歯を噛み締めた。
「…馬鹿にしてるのか…お前…!」
「いや」
「なら泣け!泣いて詫びろ!」
「そんな暇ねえから別当たる」
「ふざけるな!」
 最後の叫びは静かに閉められた扉の音にかき消される。
「ふざけるなよ…くそったれ…!」
 この2か月余り、週に一度の聴取は例外なく単調で、しかし中止されたことは1度もなかった。
 沢也は男の言い分を聞いては居たし、理解を示しても居たが、一度だって謝罪することはなく。男は沢也の質問に、一度も取り合ったことは無い。
 後を任されたボスは、握りしめた拳を見下ろす男に寂しげに声をかけた。
「貴様は無茶ばかり言いよるのう」
「無茶…?」
「大臣が謝罪しなかった意味が…貴様には分からんか」
 ピクリと、男の身が揺れる。ボスはそれを見抜いて一人首肯した。
「貴様ももう50過ぎだ。分かっているだろうに。それでも無茶を通したいのであれば、早いところ此処を出ていくこった」
 刑は決定し、後は移送されるだけという状況で、男がここに留まる意味はただ1つ。
 国に対する嫌がらせと言う名の、抗議である。
 ボスは沢也がそれに付き合う理由も、それでいて男が引けぬ理由も理解しながら、男を諭すように話を締めくくった。
「聴取は今日で終いだ。分かったな?」
 穏やかな声に、男は暫しの沈黙を保つ。しかし扉を潜る間際に、小さな声で確かな了承を示した。



 陽も傾いて、そろそろ朝晩勤務の交代時間だー、と言った頃。
 駐屯地に入った一報で、のんびりムードだった空気が一転して騒がしくなる。

 出勤間際の慌しさの中、沢也から飛んできた言葉によって現場に飛んでいく羽目になった義希は、到着した建物の様子を見渡した。
 現在地は「不正マジックアイテム」事件の犯人達が拠点としていたアパートの一室。速攻で事件が発覚したのは、前事件の検挙の際に設置した監視カメラのおかげである。
 メインとなる商店街からは離れている物の、夕餉前と言った時間帯だけに人通りが多く、爆発してしまえば大きな被害が出るかもしれない。
「おーい、避難終わったけどー」
 それを見越した上での指示をこなして戻った定一の欠伸に、振り向いた義希は戸惑いの躍りを踊る。
「ちょ…早すぎない?」
「馬鹿みたいに身内の野次馬が居るからねぇ」
「それはそれで大問題だよ?」
 定一が義希の疑問を更なる欠伸で流しながら歩み寄る間も、部屋の片隅で踞る人物が規則的な音を奏でていた。
 嵐が過ぎた後も定期的に駐屯地を訪れていた仁平ではあるが、毎度間が悪く今回も不在であったため、彼が到着するまでに出来ることはしておこうと、先程からパソコン型の爆弾と向き合っているのである。
「これは…」
 二人がそちらを振り向くと、キーボードを叩いていた圓の指がピタリと止まった。彼は躊躇いがちに先を続ける。
「爆弾ではないです」
「へ?」
「いえ…ある意味爆弾なんですけど…」
「どーゆーこと?」
 困惑する義希にパソコンの画面を向けて、表情を歪めた圓は親指の爪を噛んだ。
「ウィルスです」
「ういるす?」
「簡単に言うと、携帯やパソコンを内側から壊すプログラムを、一斉メールで送り付ける…これが上手く起動すれば、今世の中に出回っているものの半分ほどは使い物にならなくなるでしょう」
「えーと…じゃあ、つまり…」
 長く続いた圓の説明を脳内で解析した義希は、自身の携帯を持ち上げて動作を確認する。
「これがぶっ壊れちゃうってこと?」
 すっとんきょうな問いに対し、圓は頷いて肯定した。
 真面目な顔の圓を前に、困惑する二人が頭を掻いていると、後ろから帯斗の焦った声が聞こえてくる。
「それは困るっす!ダチと連絡取れなくなるなんて寂しいじゃないすか!」
「リア充乙ー」
「ダチも彼女も居ないズミは黙ってろって」
「ぶっ…!てめ…!俺にだってダチの一人や二人…っつかお前にだっていねえだろうがよ!彼女!」
「はいはい、喧嘩は外で宜しく頼むよー?」
 若者二人のくだらない言い合いをおっさんが宥めていると、立ち尽くす二人に人影が寄ってきてはこそりと呟いた。
「ああああの…か、解除の方にちゃちゃちゃちゃちゃ着手しても…?」
「うわっ!」
「い…いつの間に…!」
 必要以上に肩を跳ねさせた圓と義希の間からパソコンを覗き込んだ仁平は、手をわきわきさせながらその前に座り込む。
「さささささ…先程の話、じ、実に興味深くしてありまして…その…」
 自らの登場の仕方が祟って部屋の空気が固まったにも関わらず、全く気にも止めずに眼鏡の上の機械を押し上げて、仁平はにやりと口端を持ち上げた。
「久々に、腕が鳴ります…!」
 キラリと輝いた眼鏡の下、歪んだ瞳に宿る狂喜の色に若干引き気味に、隊員達は事の運びを見守ることになる。
 普段のったりした彼からは想像もつかない、何かに乗り移られたような動きがキーボードをタイピングすると、大量の文字がまるで何かに追われるようにパソコンの画面上を滑っていった。
 しかし不思議と静かなもので、通常の機械音の他は目立った響きすらない。
 集まった5人はその不思議な光景を棒立ちのまま眺めていた。「あちらもなかなか」とか「そうきましたか」とか「そうはさせません」だとか、小さな小さな独り言が止んだのが丁度5分後の事。それと同時に、仁平の手もピタリと静止する。
「完了です」
 妙にハッキリとした彼の声と、然も楽しそうな仁平の…普段は見ることの出来ない瞳の色に、5人は確かに驚いて居たのだが。
 残念ながらその余韻に浸ることも出来ぬまま、容疑者発見の報告に呼び出された。

 その後、近衛隊総出の追跡によって、パソコンを設置した犯人は敢えなく御用となり。
 その日のうちに全ての報告書が製作された。

 深夜0時。
 王座の間でいつものように、終わらぬ仕事に没頭し続けるいつもの二人の姿。今日はそれに海羽も加え、長テーブルの上を書類で汚している最中である。
 静かな空気にカサカサと連なる乾いた音。回りかけた眼を上に泳がせた蒼が、休憩がてら話題を昇らせた。
「早く捕まって良かったですね」
「ああ」
「アプローチを変えてきたようですが…」
「ああ」
「理由に心当たりがありそうですね?」
「だな」
 報告書の内容をかいつまんで把握した蒼に対し、沢也は書類片手に適当な相槌を打つ。
「こちらの力量を試しているようにも見えますが…」
「だろうな」
「犯人さんはなんと?」
「特別なことはなにも」
「また、同じ供述でしたか?」
「ああ。熱意のねえ国への不満」
「嘘にしろ本当にしろ、聞くのは辛くないですか?」
「いや、別に」
 当たり前だろ、との返答を予測していた蒼と、傍らでやりとりを聞いていた海羽が眼を丸くするのに、間を不思議に思ったのか、視線を上げた沢也の顔が僅かに歪む。
「そりゃイライラすることもあるにはあるが…俺は基本、仕事が好きだからな」
「例えそうでも、ストレスを溜め込み過ぎではありませんか?いつか体を壊しますよ?」
「珍しく食い下がるな…。そりゃあ、お前みたいに接待ばっかさせられたらたまったもんじゃねえけど。こうして書類と向き合ってるだけなら、幾らでもやってられるってことだ。聴取は聴取で息抜きの人間観察だと思えば、そう苦にもならんし」
「でも本当…沢也って何時休んでるんだ?」
 いつも通りのやり取りに口を挟んだのは、眠そうな海羽の声だった。
 沢也は正面の蒼から斜め向かいの海羽に顔を向け、呆れたように回答する。
「適当。眠くなったら寝てるし、食いたくなったら食ってる。お前らみてえに規則的で健康な生活してる訳じゃねえが、働きすぎで死ぬようなことはしてねえ」
「それにしても…一日三時間とかしか寝てなくて大丈夫なのか…?」
「だから、昼間に眠くて仕方なくなった時なんかは、隙を見て十分くらい寝てる」
「それだけ?」
「もともと俺は、睡眠や食事よりも読書を優先した生活をしていたんだ。長年そんな生き方してるんだから、何の不思議もないだろう」
 信じられないとでも言いたげだった海羽の表情が、沢也の話を聞くうちに唸るようにして雲ってゆく。
「…じゃあ、僕が駄目なだけなのかなぁ…」
 今にも眠ってしまいそうな声色に、長い溜め息を吐いた沢也が困ったように補足した。
「あのな、忍耐力だの気合いだのでどうこうなる問題じゃねえって…あー、だから…つまり…」
「沢也くんが特殊なだけなんですよ」
 蒼が助け船を出すと、二人は揃って彼を振り向き、声を揃えてまた向き直る。
「…そういうこった」
「特殊…かぁ…」
 二人の吐き出した種類の違う溜め息を笑いながら、ぼんやりと頬杖を付いて。蒼は海羽の方に言葉を投げ掛けた。
「僕もこうして眠そうにしてるじゃないですか」
「寝起きだからじゃなくて?」
「いえ、寝足りないのを無理に起きてきたからですよ」
 疑いの眼差しが半分だけ納得の色に変わるのを認めた彼は、自ら特殊だと説明しておきながら、沢也に心配そうな視線を向ける。
「正直…この仕事に就いてからというもの、沢也くんの三大欲求が心配で仕方ありません」
 何処か哀愁を漂わせるその表情は、海羽と向き合った瞬間にいつもの微笑に染まった。
「お茶、淹れてきますね」
 誤魔化すように、音もなく立ち上がった蒼は、静かにふわふわと退出する。
 沢也が無表情でそれを見送っていると、同じく扉を眺めていた海羽が呟いた。
「言わないんだな?」
「ん?」
「いつもなら、もう少し言い返すと思ったから」
 的確な指摘に頷く代わりに溜め息を返し、沢也は短く言い訳する。
「疲れてる訳じゃねえぞ?」
「…うん。何となく、分かったよ」
 正面に直った海羽の返答に、沢也は何となくながら確信を覚え、前置きもなく解説を切り出した。
「…その時良かれと思ってやったことが、後に悪い結果を呼んだとしても。その一つの悪だけが全てじゃない」
「うん」
「全てを善に変えるのはなかなかに難しい。これだけの規模だ。たかが一人の人間に、そこまでを求めるのは、無茶だと言っても良いだろう」
 聞きながら俯いた海羽は、躊躇いがちに問い掛ける。
「何が善で、何が悪なんだ?」
「人は、自分に振りかかる火の粉は全て悪に見えるものだ。だから人によっては悪くなくても、人によっては悪になる。人間ってのは、そういう自分勝手な生き物なんだよ」
 迷いもなく答えた沢也を瞳だけで振り向いた海羽は、次に扉の前を見据えた。
 沢也はその仕草を追いながら話を続ける。
「あいつがそれを割り切れずに居るのは、常に罪悪感に苛まれているからだろう。辛いだろうが、悪いことではないと、俺は思っている」
「うん」
「だからって、被害者面して犯罪に走った奴等の相手をしている俺にまで、罪悪感を感じる必要はない」
「うん」
「俺はあいつのしたことも、俺のしたことも、悪であると認めるつもりはない。認めてしまったら、善として働いた事象の全てを…いや。その中で特に、あいつら犯罪者と同じ立場に居ながら、自らの努力で俺達の所業を善として捕らえてくれた奴等を、否定することになってしまうからな」
 抑揚のない語りを聞きながら、海羽はまた沢也を振り向いた。彼は書類を見下ろしながら、やはり無感情に言う。
「だから、今の俺に出来るのは…犯罪を犯した馬鹿共の話を聞いた上で、一緒にこの先を考えてやることだけだ。後のことは、結局本人次第だしな」
 言葉尻に混じった海羽の微笑は、沢也の目線を振り向かせた。海羽は口元を押さえて不服そうな彼に言い訳る。
「なんだか、安心した」
「は?」
「沢也が昔と変わらないから」
 嬉しそうに肩を竦める海羽に、沢也が呆れた眼差しを注いでいると、彼女は前触れもなく呟いた。
「良いパートナーだな」
「何が」
「蒼と沢也」
「今更ですか?」
 帰還した蒼の茶々を振り向いて、海羽は困ったように首を縮める。
「改めて思ったんだ」
 沢也にコーヒーを、海羽に紅茶を振り分けた蒼が席に付くと、海羽が大きな欠伸を漏らした。
「無理しねえで寝ろよ」
「うん、そうだな」
「珍しく素直だな」
「うん」
 夢うつつな微笑のまま紅茶に口をつける彼女の横顔を見据えながら、沢也は曖昧な苦笑を浮かべる。
「そうプレッシャーをかけてくれるな」
「へ?そ、そんなつもりは…」
 紅茶を溢しそうになるほど慌てふためく海羽を横から宥め、蒼は密かに笑いを堪えた。
「沢也くんなりの冗談ですよ。安心してお休み下さい」
 海羽は蒼の笑顔をじっくりと眺めた後、沢也に視線を流す。彼が不安げなそれに首肯して見せた事で、海羽はまたクスクスと笑った。
「二人も無理はするなよ?」
「分かってる」
「了解しました」
 そうして念を押した海羽が退散すると、王座の間は途端に静けさに包まれる。
 沢也が向かいの蒼の様子を窺うと、蒼もまた、沢也の顔を覗き見た。
 二人はお互いが浮かべるいつもの表情を確認すると、溜め息と肩竦めだけで会話を終了する。
 その中には謝罪や感謝、肯定や否定と言った幾つかの感情が籠められていたのだが、それは然して問題ではない。
 何故ならどうあろうとも、今の二人がやるべきことは一つしかないからだ。

 そう。全ては、先に進んで行くために。





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