こんにちは



 俺達は産まれない。


 誕生すると言うよりは、発生すると言った方が近いかもしれない。
 きっかけは様々だが、その場に芽生えた事象が集合し、形となる。

 不意に風が起こるように。
 地中から水が溢れ出すように。
 石が風化していくように。
 硬化した土がやがて宝石となるように。

 曖昧に、曖昧に。
 方法など決まっていないのだから、確率もなにもありはしないのだ。



「人間の子供と言うのは可愛いものですよね」
 空を仰ぐ烏羽の背後から声をかけたのは、全体的にピンク色をした妖精、桃(もも)だ。彼女は彼の隣に腰掛け、同意の相槌を待つ。
「それは俺達妖精に子供時代がないことから来る憧れとも取れるが」
「そうでしょうか?それを抜きにしても、愛らしいと思いますけれども」
「そうか。それなら否定はすまい」
「貴方は今一度感性を磨かれるべきですわ。烏羽」
「君は今一度頭の上を確認するべきだと思うが…」
 立ち上がった烏羽の指摘に、上目で頭上を見上げた桃は慌てたように手をはためかせた。
「お洒落とやらも難儀だな」
 髪を巻くためのカーラー変わりのオナモミを投げ捨てて、桃は不機嫌そうに烏羽の皮肉を追いかける。
「見ないのですか?」
「もう充分見学した」
 階下の様子が映し出される水面を、揃って左手に向けた二人はそのまま静かに会話を続けた。
「どうしてそう淡白なのですか。まだ二分も眺めていらっしゃらないではありませんか」
「俺と並んで眺める意味もあるまい」
「そんなことは…」
 哀しげに沈んだ声を半端に振り向き、烏羽は小さく息を吐く。
「分かった」
 呟いた彼が戻ってくるのを見届けた桃は、安堵と共に泉と向き合った。
「これも人間を理解する為の大切な一歩ですわ」
「いや、君を不機嫌にしないための妥協だ」
「どうしてそうも直球なのですか。貴方は今一度…」
「隠そうと隠すまいと怒るだろう?君は」
 桃に背を向けて座る烏羽は、退屈そうに空を仰ぐ。桃はその黒い背中に半身を預けて瞳を歪めた。
 静まる空間に響くのは愉しげな階下の音。耳の端でそれを聞きながら、烏羽は桃の不安に呟いた。
「そう淋しがるな。次期に昔のように…」
「なりますでしょうか?」
「ああ」
 素早い肯定は短く、それでも桃の中に残る。彼女は安堵と不安の狭間で烏羽の背中に顔を埋めた。
「信じますわ。その言葉」
 軽く、重い一言が烏羽の胸の底に沈んでいく。
 二人はそのまま会話もなく、階下から響いてくる声の連鎖を観賞していた。


 丁度その頃。



「産まれたって!?」
 日勤から夜勤までを通しで勤め上げた徹夜明けの義希が、早朝の王座の間の大扉を開く。いつものように正面で書類と向き合っていた二人が顔を上げて問いに答えた。
 蒼の人差し指と沢也の親指に示された応接室は、有理子の部屋の反対側にある。速足でそちらに向かった義希は、急かすようにノックをして返答を待った。
 中から返ってきた「ちょっと待って」の合図を聞いて、彼は近場…と言ってもかなり遠いのだが、とにかく一番距離の近い沢也に話しかける。
「もう見た?触った?抱っこした?」
「いや。まだ」
「夜中に産まれたばかりですからね」
 遅番が終わるよりも早くからかかって、小太郎の付き添いの元海羽が取り上げたのだと、小太郎本人から連絡があったのが日付が変わってすぐのこと。朝日が昇ってから随分経つと言うのに、椅子にお尻がくっついてしまったように動かぬ二人に義希の驚愕の眼差しが注がれた。
「なんでそんな悠長にしてられるん?子供だぞ?生命の誕生だぞ!?」
「その台詞、数時間前に耳にタコが出来るほど聞いた」
「小太郎くんがずっと騒いでいましたからね」
 くれあに陣痛が来てから産まれるまで、そして産まれた後の処置をするために追い出された後も、くれあが眠るまで続いていた騒ぎから解放されて数時間。やっと仕事に打ち込めると思ったのに、と言わんばかりに溜め息を吐く。そんな沢也に向けて、義希の大袈裟過ぎるアクション交じりの熱弁が繰り広げられた。
「なら何で行かないん?すぐそこなんに!扉を開けたら新世界なんに!…はっ!すぐそこだから後回しにしちゃって結局見に行かない派!?」
「寧ろ俺は、お前がどうしてそこまではしゃげるのかの方が気になるくらいだ」
「だぁーかぁーらぁぁあ」
「小太郎はまだしも、お前の子供じゃねえだろ」
「小太郎の子供はオレの子供!」
「義希くんに小太郎くんが乗り移っているんですね」
 何処と無く嬉しそうに割り込んだ蒼の見解は、扉を開いた有理子によって否定される。
「単に徹夜明けにテンションが高くなるタイプなだけよ。ほら、仕事の邪魔しないの」
「わぁああぁああい!」
 招き入れられてはしゃぐ義希の背を押して、有理子は二人に肩を竦めて見せた。
 沢也の溜め息に見送られて閉まった扉の内側では、小太郎とくれあが笑顔で出迎えてくれる。
「ありがとう、義希くん。夜勤代わってくれたんでしょう?」
「ほれ!見ろ義希ー☆女の子だぜ!娘だぜ!」
 労うくれあと、抱えていた赤ん坊をそのまま義希に見えるように構え直す小太郎と。彼は二人に首肯を繰り返しながら、有理子に手先から腕までを念入りに消毒されていた。
「うをぉおお…ちっこい…可愛いなぁ…」
「あったりめーだろ?おれ様の子だぜ?可愛くねえわけねーじゃんか」
 やっとのことで綺麗になった義希が顔を覗いては感嘆を漏らすのに、誇らしげな小太郎がいつものどや顔で答える。
「ごめんね、くれあ。騒がしくない?」
「大丈夫よ。夜はみんなが見ててくれたから、ちゃんと眠れたし」
 先程海羽と交替でフォローに入った有理子に、くれあは穏やかな表情を見せた。安堵と疲れの混じるその表情を見た有理子が息を付くと同時、義希の頼りない慌て声が聞こえてくる。
「ちょ…頼むから落とさないでよ?ってか抱っこはこう!それじゃあ首が…ああもう!」
 有理子の助けを受けてなんとか腕の中に赤子を抱えた義希は、嬉しそうに瞳を細めた。
「名前は?」
「一実」
「いつみ?いつみちゃん?」
「そ。結局互いに妥協して、付けたかった名前から一文字ずつ取ったってわけ」
 小太郎の解説の間、眠る一実に意味もなく一通りの変顔を披露した義希に、呆れ顔の有理子が盛大な溜め息を吐く。
「ほれ、こっち貸せや」
 不安げな彼女の様子を珍しく察したのか、それとも早くも寂しくなったのか、一実を奪還する小太郎の仕草に義希の感動が巻き起こった。
「おぉおぉお!小太郎すっげえじゃん!」
「ふふん、おれ様にかかればこんなもんだし!」
「数時間練習してやっとのくせに」
「ばっ…!数時間で出来たんだからすげえだろうがよ!」
「ハイハイ、そう言うことにしときましょう」
 呆れ果てた有理子の茶々に激昂しながらも小声な辺り、あの小太郎から配慮が伺えるなんて!と、居合わせた面々はその都度驚きを隠せずに微妙な顔をするのである。

 そうして面会を果たした義希を連れて、気をきかせた有理子が外に出ると途端に部屋が静かになった。
 外からは僅かに有理子と義希の言い合いが聞こえてくる。
 二人の会話に苦笑した小太郎が息を漏らすと、くれあが小さく声を掛けた。
「ごめんなさい。小太郎」
「あ?」
 不思議そうに振り向くと、落ち込んだような彼女が申し訳なさそうに言う。
「だって…あなた、今日誕生日じゃないの」
 瞳を瞬かせ、大口を開けて聞き終えた小太郎に、くれあは更に続けた。
「なんにもしてあげられなくて。お祝いの準備も出来なかったから…」
「ばぁか!もう充分貰ったっつーの」
 まったくもう、と。くれあの横に座った彼は、驚く彼女の肩に寄り添い腕の中を覗き込む。
「なあ?」
 小太郎が同意を求めると、二人の子供は頷くようにして僅かに身を捩らせた。



 数日後


 倫祐及び郵便課の複数人が本島のとある地域の警備要員として派遣されたのが、早5日前。
 3日ぶりの駐屯地で項垂れるように机に伏すのは、先日めでたいことがあったばかりの小太郎その人である。
 彼は育児休暇の為に週に2度ほどしか出勤しておらず、仕事疲れからは解放されている筈なのだが…。
 隊員達の眼がそんな色を含んでいるのにも構わず、机上からピクリとも動かぬ小太郎の頭上に定一の苦笑が降り注いだ。
「大丈夫かい?小太郎くん」
 斜め向かいに腰を据え、部屋をぐるりと見渡した彼は、辛うじて傾いた小太郎の頭に欠伸を浴びせる。
「ああ…ちょっくら家ん中が荒れてるだけでよ…べ、別に大変なんかじゃ…」
 満身創痍と言った具合に、力ない強がりをこっそり笑いながら、定一はゆったりと頬杖を付いた。
「君は家事なんか出来そうにもないもんねえ」
「うっせー!てめえだってやる気無くて出来なさそうじゃねえかよ」
「そうだねえ。でも掃除洗濯炊事くらいはできるよ」
 のほほんと言う擬音がぴったりな表情で宣う定一を、隣の帯斗が丸くした目で見据える。
「殆どじゃないすか」
「そう思ってるうちは、まだまだ甘いねえ」
 振り向いては帯斗の若さをまじまじと堪能する定一の溜め息。小太郎は彼の言葉の意味を理解できてしまった自分に気付き、勝手にバツを悪くして席を立った。
「行ってくる」
「ああ、小太郎くん。洋服はシワを伸ばしてから干さないとそうやって皺くちゃに…」
「うっせー!わーった!黙ってろ!」
 バタム!力任せに閉められた入り口が、抗議するかのように表札を揺らす。溜め息で見送った数名の隊員が雑談や仕事に戻るのを待って、帯斗は小魚片手に身を乗り出した。
「赤ん坊ってそんなし手がかかるんすか?いっさん」
「そうさねえ」
「どしたんすか?なんかしみじみしちゃって」
「うちにもそんな時期があったなぁ、と思って」
「ああ、いっさん家の娘さん、可愛いっすよね」
「うん。間違っても君のような無鉄砲にはあげないからそのつもりでね?」
「だ…!そんな歳の離れたお嫁さんをもらうつもりは…てか無鉄砲ってなんすか!」
「自覚がないとは言わせないよ?」
「…それは…まあ…」
 そこでやっと首を回した定一に、膨れた帯斗が言葉を濁す。喧騒に吐息を紛れ込ませた定一は、彼の表情を見て困ったように眉を下げた。
「指摘されて怒るうちは、まだまだ子供ってことだね」
「気を付けるようにしてるんすよ!これでも!」
「でも、分かってるよね?」
 荒げかけた声を圧し殺して呟く帯斗の鼻先、突き付けた指をそのまま前に押し出しながら。
「だから、ずっと不合格だったんだよ」
 スイッチの如くぐにっと帯斗の鼻を押して、定一はふわりと立ち上がる。
「ああ。僕今日面接だった。ちょっくらいってくるからね」
 欠伸で間を繋ぐ彼を見上げた帯斗は、微かに赤くなった鼻を誤魔化すように煮干しを持ち上げた。
「くれぐれも無理はしないように」
 その頭をぽんと叩いて、定一はのんびりと駐屯地を出る。
 扉を閉めて見上げると、隙間から清々しい空が覗いていた。
 まだ暑さは残っているものの、そろそろ秋がやって来るのだと。妙な実感を覚えた彼は、やはりゆっくりと歩を進める。
 昇格テスト終了から既に一週間が過ぎ、小太郎の家の事もあってバタバタしてはいるものの、事後処理は着々と進んで居るようだ。
 本隊長が出張、第二近衛隊長が育児休暇、第一近衛隊長が遅番に回され、昼間は隊長が不在。若干の不安はあるが、逆に緊張にも繋がったのか、隊の空気はそう悪くなっていない。
 門番二人は面接を終え、こうして定一にも順番が回ってきた訳で。
 これ幸いとばかりに質問事項を頭の中に書き連ねながら、彼はふらりと王座の間に顔を出した。

 ノックへの返答は有理子のものだろう。柔らかい声に肩の力を緩めた定一が扉を押すと、まず部屋の奥に積まれた書類の山が目に入る。
「すみません、少し散らかってますけど…」
「少しって…これはまた、どうしてこんなことに?」
「抗議やら祝辞やら通常業務やら依頼への返答やら…まあ、雑多に」
 沢也の返答に半分納得した定一が、促されるまま部屋の隅に移動すると、そこにはこじんまりとした二組のソファーとローテーブルが一つ置かれていた。
 有理子に押されて定一がソファーに身を落ち着けても、自分のデスクから動く気配のない参謀は、更には書類から顔を上げることなく溜め息を吐く。それを相殺するように、二人の間に顔を割り込ませた有理子が、視線を上げた定一に問い掛ける。
「何が良いですか?」
「え?」
「飲み物」
「ああ、いや、そうくるとはなぁ…」
 当然と言った風な物言いに、たじろいだ定一は短く思案して遠慮がちに答えた。
「じゃあ、オレンジジュースを」
「あら、意外と可愛いオーダーですね」
「身内だからって本音吐いてやるな」
「あはは、失礼しました」
 沢也のつっこみにおどけて舌を出し、部屋を出ていく有理子の背中を定一の瞳が追いかける。
「悪いな」
「いやいや、えーと、どっちに対して?」
 待たせた方か、オレンジジュースの方か。謝罪に対する理由を判断しかねた彼に、いつのまにか歩み寄った沢也は苦笑混じりに言った。
「どっちも」
 それを聞いた定一は、これがこの場所の何時もの空気なのかと、何となく察すると共に何となく気抜けする。確かにあれだけの人数が増えた試験中と普段とでは、気の張り詰め方は違うだろうが、それにしても緩すぎる気がして意外にも思えた。
 それこそおっさんの定一があっけらかんとオレンジジュースを注文した時のような。
 そんな意外性を覚える定一を他所に、沢也は相変わらず向かいで書類とにらめっこを続けている。
 どうするべきかを計りかねた定一が額に手を持ち上げかけると、有理子が戻ってきてオレンジジュースとコーヒーをテーブルに乗せた。
「ほら、身内だからって後回しにしないの」
「分かってる」
 取り上げかけられた書類を上に逃がし、舌打ちで有理子を追い払った沢也は、やっとのことで定一と向き直る。
 双方肩を竦め合い、一息付いた所で沢也から話が切り出された。
「まずは、合格おめでとう」
「どうも。それで、僕はどうなっちゃうわけですかねえ」
「希望は?」
「今のまんま、ってわけには?」
「こちらはそれで構わないが。大丈夫なのか?」
「んー?」
「隊の空気」
「ああ、そのことか。うん、そうだねえ…」
 合間に啜っていたオレンジジュースを口から離し、定一は遠く天井を見上げる。
「確かに悪かったし、今もそう変わらないけどもね」
 ちゃんと伝えてくれていたのか、とか。ちゃんと気にしてくれていたのか、とか。頭の片隅にそんなことを思い浮かべながら、彼は結論を口にした。
「ずっとあのままってことも無いような気がしてきてるから、もう少し見てみたいなあと」
「そうか」
「それに…」
「何だ」
 思わず続いた呟きを拾い上げられた定一は、促されて沢也に合わせた目線を左方向に流す。
「いえね、これは個人的なものだから言わないでおくよ。本人にも自覚はあるようだし」
 咳払いでの誤魔化しをそれ以上追求することもなく、沢也は小さな息を吐いた。定一は安心して話を逸らす。
「それよりも、隊長さんが2人も不在で大丈夫なのかね?」
「大丈夫だろ。お前も居るし」
「それは話が違うなあ…僕は面倒事が嫌いなんだよ」
「分かってる。不便があったら対応するから、直接連絡しろ」
「うーん…それはそれで気が引けるというか…」
「それなら、どうするのが一番いいんだ?」
「いや。きっと今はそれが最善なんだろうから。僕から言えるようなことは何も」
 何となく素っ気ない沢也の応答に、思わず働いた悪戯心を引っ込めた定一は、両手を翻して真面目な声を出した。
「ちょっと文句言ってみただけだよ。ひと月二月位はちゃんと踏ん張るさね」
「悪いな」
 そう言った沢也は微笑を浮かべるでもなく、しかし全く感情が籠っていない様子でもなく。だからこそそれが駆け引きでなく、本心なのだろうと見抜いた定一は、オレンジジュースを一口飲んでは呟いた。
「いや。それよりも、もっと強気で居ていいと思うけどなあ」
「そうだな。だが今はこれでいい」
「そうかい?それじゃあ気を抜かずに頑張らせてもらうよ」
 即答に苦笑して、グラスを大きく傾ける定一の前に複数の紙が滑ってくる。沢也が手を離すのを待って手に取りながら、彼は小さく眉を歪めた。
「なんだい?」
「昇格はなくとも、合格は合格だからな」
 沢也の説明する通り、読み進めれば内容は明らかに「報酬」に当たる「昇給」に関する契約書のようで、最後にはご丁寧に同意のサインを求められている。
「それから、これも」
 そう言って沢也が次に差し出したのも、また書類のようだった。
「これは…」
「そっちは持ち出し厳禁だ。質問や文句はこの場で受け付ける」
 釘をさされてそちらに意識を集中させた定一は、数分かけて読み終えて困ったような声を出す。
「…いやあ、文句のつけようもないよ」
 そっと返却されたそれと、サラリとサインが施された契約書を受け取って、沢也は今度こそ微笑を浮かべて見せた。


 その日は特に目立った事件もなく、平和に一日が過ぎ去って。


 遅番の義希と交代で帰宅した小太郎は、途中買ってきた食材をこねくりまわして炭にし終えた所である。
 キッチンの惨状と、カレーになる筈だった憐れな食材たちを前に、呆然と立ち尽くす彼の背中側から控え目な声がかけられた。
「小太郎?」
「…悪い」
 彼にしては珍しい謝罪の言葉に、くれあは優しい笑顔を向ける。
「いいのよ。私が…」
「ダメだ。それじゃあ駄目だ」
 振り向いた小太郎はくれあの肩を掴み、静かな叫びを上げた。
 真剣な眼差しに困惑したくれあは、部屋をぐるりと見渡して表情を曇らせる。
「でも…」
「待ってろ!」
 言い捨てて、戸惑う彼女も荒れた部屋もそのままに、小太郎は家を飛び出した。

 二十分後。

 再度帰宅した小太郎は、テーブルの上に戦利品を乗せて食事の準備を始める。
 食器棚のあちこちを開けながら箸を探し出す彼の様子を、くれあの丸くなった瞳が見守った。
「義希にうまいメシ屋聞いて買ってきた。あいつ、食べ歩き王だからよ。まあ間違いねえだろ。さあ、食え」
 座らされ、箸を握らされ、バツが悪そうに対面に座る小太郎を見据え、くれあはふっと息を吐く。
「明日からは海羽にでも頼むからよ。ずっと買い食いなんてしてたら、家計が持たねえし。栄養もあれだろうしよ…」
「うん」
「…掃除や洗濯はやりながら覚えっから、もう暫く我慢しろや」
「うんうん」
「あと…あれは、食ったら片付ける」
「手伝うわよ」
「駄目だ。お前は寝てろ!」
「でも…」
「心配すんなって」
 口をもごもごさせながら、取り出した携帯を操作した小太郎は、そのディスプレイをくれあに突き付けながらどや顔でふんぞり返った。
「意地張っても無駄だってことぁ、昔お前に教えてもらってんだからな」
 くれあの返答も待たずに携帯を耳に当て、食事を続ける小太郎は通信が繋がった瞬間。
「ガキの頃放置した借り、今返しやがれ!」
 何の前置きもなく言い放った。
 その後何度か相槌を打ち、通話を切る小太郎に、くれあは恐る恐る問い掛ける。
「…なん、だって?」
「直ぐ来るってよ」
 彼女の心配を他所に、彼は何でも無さそうにそう言って食事を再開した。
 くれあは見開いた瞳と口をそのままに、暫くの間彼の仕草を見守る。
 黒いトレーに盛り付けられた色とりどりのおかずを最初に、最後に白いご飯を平らげて、頬を膨らませる小太郎の表情は不満そうに見えなくもない。
 しかしくれあには、彼が自身の変化に照れているだけであることが理解できた。
「ふふっ…」
 不意に吹き出して、勢いのまま俯いた先には正方形の綺麗なお弁当箱が置かれている。握ったままの箸を横にして、そっと手を合わせると、彼女は静かに食事を開始した。
 小太郎はそれを見届けて、安心したように片付け始める。

 それから三時間程過ぎた頃、キッチンの散らかりが落ち着かないうちに、小太郎の携帯が振動した。
 起きてしまった子供を寝かせに向かったくれあを邪魔しないよう、静かに玄関を開くと、彼の母親が息を切らせて立っている。
 気まずそうに迎え入れられた彼女は、家の中を見るなり直ぐに小太郎をしばき倒し、彼に加勢する為腕を捲ったのだった。







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