昇格テスト:後編 灯台もと暗しとは良く言ったものだ。 堂々と王座の間のシャンデリアの上で昼寝などしていても、意外と見付からないもので。 「海羽さん、ここは騒がしいでしょう?部屋に戻りませんか」 「あの、何度も説明している通り…えと。セキュリティの問題で、3日間はここで仕事をするんです…」 「では仕事など放置して街に…」 「それも出来ません」 「困りましたね。このように融通がきかぬ催し物をされては。何もできやしない」 腕を組んでは執拗にイントネーションを付けて、秀はくるりと蒼を振り返る。 「一体何を考えておいでですか?そちらも、陛下も。ほんの少し彼女を気遣ってあげるくらいのことが、どうして出来ないのですか」 「…お茶、淹れてきます」 「ああ、海羽さん。それでしたら是非ダージリンティーを。良いお茶請けがあるのですよ」 海羽の進言に声色を変えて振り向いた彼は、そのまま海羽にくっついて厨房に向かって行った。 二人は…いや、主に秀は歩きながらも延々と口を動かしているようで、扉が二人との空間を遮ると、途端に静けさが訪れる。 残された面子が不機嫌であることは空気だけで十二分に分かった。そして、秀と言う男の本質も。 あれが彼のやり方なのだろうから非難はしないし、余り人の事を言えたものでもないが。この空気をそのままにしておいて良く平気で居られるものだ…と、変な関心をしつつ、倫祐は沢也の溜め息に合わせて息を吐く。 もしかしたら沢也や蒼は自分の存在に気付いているのかもしれないのだが、観察対象が居ない間も気配を絶ってしまうのは最早癖としか言い様がない。 自身を覆い隠すように円を描くシャンデリアのガラス細工、僅かに揺れる光の繊細さの向こう側。数分を経て、舞い戻った海羽の手によって白い大扉が開かれた。 「さあ、海羽さん。仕事の事は忘れて楽しみましょう」 秀が手にしたトレーの上を認識し、倫祐は「あ」と思う。 しかし彼の予想に反して、席に着いた海羽は笑う所か浮かない顔で紅茶を啜った。 「超高級ないちごをふんだんに使ったミルフィーユです。どうぞ、お好きなだけお召し上がり下さい」 促されて尚、海羽は頷きもしなければ手を出すこともなく。トレーの中で待ちくたびれたようなケーキ達を横目に、秀はもどかしそうな素振りを見せた。 「もうすぐお昼ですから…またティータイムにでも…」 「そうですか?そう気になさらずとも、幾らでもあるのですから」 「秀さんはどうぞ?」 「いえ、これはあなた様のために買って来たものですから」 「仕事、終わらせちゃいますね」 「真面目ですね…海羽さんは」 一向に折れない海羽の様子に、溜め息を吐き出した秀は半ば強引に彼女の横に付く。 俯き気味に書類に何かを書き込んでいた海羽は、秀の影と腕を邪魔に思ったのか、僅かに顔を上げた。 「…あの」 「はい?」 「近いです」 「そうですか?そんなことはありませんよ」 本当に悪びれずに言う辺り、わざとなのか天然なのかまでを見抜く事は出来ないが、どちらにしろ張り付くように身を寄せられては煩わしいことに変わりはないだろう。 倫祐が勝手ながらそんなことを考えていると、見兼ねたのか単に急な用事が出来たのか、沢也が横から書類を持った手を伸ばした。 「海羽。悪いが民衆課にこれ。届けてやってくれないか?」 「うん。行ってくる」 「お供します」 即答に即答して、二人はまたもや縦に並んで部屋を後にする。 倫祐はそれを追いかける訳でもなく小さく溜め息を付くと、5分後にそこから飛び降りては仕事中の三人を驚かせたのだった。 三階にある王座の間から二階に降りて、各部署が置かれた中央のフロアにやって来る。一番廊下側にある司法課の隣、書類が多いせいで一番広い部屋をあてがわれた民衆課の前に着くと、秀の携帯がけたたましい音を立てた。 何時も強気の彼が下手に出た事で、長くなりそうだと覚った海羽は、一人先に用事を済ませることにする。 ノックの後扉を開くと、一番手前に座っていた八雲が相手をしてくれた。彼は外で電話をする秀の姿を認めて肩を竦め、全てのデスクの真ん中に置かれた籠の中からキャンディーを選んで海羽に手渡す。 いつもは「そんな安物、彼女の口に合うとでもお思いですか!」と一蹴されてしまうので、海羽は有り難く厚意を受け取って部屋を後にした。 予想通り、電話はまだ終わっておらず、更にはこちらに気を配る余裕も無いらしい。それを確認した海羽は、こっそりと王座の間に戻ることにした。 音を立てないようにそろそろと、青い絨毯の敷かれた階段を昇る。その間すれ違う近衛隊員達は、一様に辺りを気にしてピリピリと空気を弾けさせていた。 三階の廊下に出ると、未だ夏の余韻が残る外の景色が眩しく映る。海羽は遠くから近くに焦点を合わせては、透明の向こう側を覗き見た。 右も左も、上も下も。何処を見渡しても、目的の人物を見つけ出す事が出来ずに。 やっぱり、そう簡単に見付かるものじゃないよな…。みんなこれだけ必死に探しているのに。僕みたいにあわよくばなんて気持ちじゃ、会える訳ない。 そう思い直した彼女は、諦めて少しでも仕事を片付ける事を決める。 そうして王座の間の手前、最後の曲がり角を曲がった海羽を待ち受けていたのは、思いがけない襲撃だった。 何が起きたのか。 それを説明するために、時を数分巻き戻し。 場所は変わらず三階廊下の曲がり角。 「やってやろう」 間近にある部屋の中まで届かぬよう、声を最小限に止めて呟いたのは例の問題児のうち一人だ。 「誘き寄せるんですね?」 「そうだ。その辺の職員捕まえて、引き換えに出すんだよ」 「それじゃあ悪役も良いとこだ」 「しかし他に方法があるかね?」 「俺らは昇格したい訳じゃない。あいつに一泡吹かせてやりたいだけだ」 「いやあ、オレは仕事無くなったら困るかなーってか…二人は平気なの?」 「馬鹿だな。給料なんて減ってもその辺の仕事より稼げんだぞ?」 「いや、だからさ…クビになるかもしれないだろって…」 及び腰で反論する一人に二人がぐいっと顔を寄せ、議論は更にこそこそと続けられる。 「お前はビビりだなぁ。そんなわけあるか?だって国だぞ?国が国民を貶めたりしてみろよ。暴動起こせるぜ?」 「そうそう。多少やり過ぎたって許してくれちゃうのがこの場所ですよ」 「そんなものかなぁ…」 「そんなもの。だからお前は誰かひっ捕まえて来い」 突然の命令に驚いて声も出せなかった弱気の彼を差し置いて、乗り気の二人はさっさと踵を返した。 「俺は此処に潜んでおく」 「ボクはあっち側の部屋」 「まってまって、捕まえて。そしたらどうしたらいいのさ?」 「首筋に刃物でも当てとけばそのうち向こうから来るだろう?」 「ロボットだからね。間違いないでしょう」 「うーん…分かった、やってみよう」 言いながらも厨房や通路の影に入ってしまった彼等に、やはり小声で了承した一人は、取り合えず曲がり角の手前に潜んで人がやって来るのを待つ。 その一分ほど後にふらふらとやって来たのが、浮かない顔の海羽だった。 彼女は曲がった先から飛び出してきた男に腕を掴まれて、あっと言う間に背後から拘束されてしまう。 仲間の助言通りにナイフを首に突きつけた彼を横目に見上げ、海羽は困ったように唸りを上げた。 魔法を使えば簡単に抜け出すことは出来るけど。無傷でとなると、この状況では加減が難しい。だけどモタモタしていたら秀さんに見付かってもっと面倒なことになり兼ねないし、だからつまり、余り考えてる暇は無いんだよな…。 海羽は短い間に考えを纏め上げ、塞がれた口をそのままに、手錠をかけられた手でポケットの中の携帯を探し当てる。しかしそれはあっさりと取り上げられてしまった。 「面倒なことすんなよ。大人しくしてれば怪我はしなくて済むんだからさ」 忠告を聞いて、海羽は思う。 どうして自分は捕まったのだろうかと。 そして同時におかしな期待が彼女を襲うのだ。 このままで居れば、もしかしたら… 「何をされて居るのですか?」 問われて振り向いた二人は、廊下を歩いてきたであろう茂達の真顔と向き合う事になる。 眼鏡の奥から這い出るプレッシャーのせいで、言葉の出ない男を他所に、茂達は通信機を取り出した。 「待て!何を…」 「決まっているではありませんか」 代わりに奥の通路から飛び出してきた別の隊員が止めにかかると、茂達は返答と報告を同時に口にする。 「職員に危害を加えるような行為を、近衛隊員として見過ごすわけにはいきません」 それを聞き付けた沢也が直ぐに王座の間から出てきた事で、三人にはペナルティが課せられる事になった。 茂逹の後続がないまま迎えた最終日の夜は、一番の騒がしさを伴いながら刻々と過ぎて行く。 月も良い具合に昇り、薄い雲の向こう側で鈍い光を放っていた。 長すぎる螺旋階段を昇り、息を上げながら扉を開いた帯斗の瞳に広がる夜空の片隅。誘うように翻るのは黒いジャケットだ。 「これが最後のチャンスってやつすか?」 生温い風を前から浴びながら、肩を揺らして倫祐を見据える帯斗の拳がじわりと持ち上がる。 倫祐は遠く背後に連なる屋根を横目に見据え、次に彼と向き合った。 この3日間、幾度となく姿を見かけ、少なくとも日に一度は相対してきた帯斗を、未だに合格に出来ないのには理由がある。 確かに他の隊員よりも意欲があり、向上心も耐久力も、戦闘能力ですらあるだろう。しかし。 「いい加減観念してください!」 ぶわりと風を纏いながら、飛び出した帯斗の拳を流す。 幸いにしてこの屋上は広さがあり、いくら勢いがあろうとも誤って転落するような事はないはすだ。 右ストレート、左からフック、そのまま回転して左足を捩じ込む。 特に目立った動揺も、抑揚すら無く続く回避はまるでダンスのステップのように、屋上の床に複数の円を描いていった。 数分後。 帯斗の動きに合わせて揺れるナックルの銀色と、彼の短い尻尾のような後ろ髪を上から見据えていた倫祐は、不意に大きく後ろに飛ぶことで距離を取る。 着地点はコンクリートの手摺。 技術も、執念もしかと見届けた。後は本人が気付くかどうかだ。 倫祐はある種の賭けを決め込んで踵を返す。 帯斗は屋根に飛び降りた倫祐の背中を追って手摺に飛び付いた。 どんなに撃ち込んでもかすりもしない。 どんなに走っても届くことすらない。 こんなに必死に頑張ってるのに、どうして俺だけ…! 駆けてゆく思考はプツリと途切れ、変わりに熱が込み上げてくる。 遠ざかっていく黒い背中。だけどまだ見えなくなった訳じゃない。 悔し紛れに屋根に飛び乗ると、思いの外傾斜がきつかった。それでも勢いに任せて足を運べば、次第に距離は縮まっていく。 あと少し、あと少し走れば…! 帯斗がそうして伸ばした左足が、闇に染まった屋根を踏むことは無かった。 下に向けて段になった、緩やかな傾斜が彼の体を不自然に傾けていく。 身が中空に投げ出されるのが分かった。分かってしまって初めて、もう落ちるしか術がない事を理解する。 手を伸ばす事も忘れて、意識とは無関係に空を仰ぐと、そこには朧気な夜空が酷く綺麗に広がっていた。 スローモーションに感じていた時間はそこまでで、後は容赦なく重力が襲い掛かる。 風に背中を押される感覚が、いつ痛みに変わるだろうかと心配し始めたその瞬間、おかしなことに右腕が上に向けて引っ張られた。続けて体が風から解放され、変わりに別の温かさに包まれる。 それでも疾走感は失われない。 何故だろう、混乱の中、降りてきた右掌の魔法陣が先と違う色をしているのに気付いた時。 すぐ傍で巻き起こった風が、下方から跳ね返ってくる。それは速度を減少させて、彼等の着地を手伝った。 膝を付いて帯斗を庭に降ろした倫祐は、何も言わぬまま。 俯く彼の前から姿を消した。 街の火がほぼ消えてしまった深夜0時。 パトロールに出向く若い衆を見送って、駐屯地で扇風機に当たるのは年長組の三人だ。 「そろそろ、終わった頃じゃないか?」 中でも一番リラックスモードのリーダーが呟くと、隣の門松が不機嫌そうに応答する。 「そっすね」 「城、どんな感じだった?」 「どうでしょうね」 「話せなかったのか?」 「いえ、今ちょっと自分を落ち着かせてる所なんで。報告は待って頂きたいっす」 「…何かあったんだな」 門松が大人しい時の対応から、悪い方の答えに辿り着いてしまったリーダーは、溜め息の後に声の調子を落とした。 大抵の事は笑って済ませる門松であるが、どうにも感情の行き場が見付からないと、いつもこうして塞いでしまうのである。悲しいときも、困ったときも。しかし今回は恐らく、もっと複雑な感情だろう。 リーダーは門松の空気だけでそれを察すると、向かいの花形の首の傾きに苦笑を返した。すると門松の口から掠れた声が漏れる。 「…もっと上手くいってるもんだと思ってたっす」 沈んだ口調はリーダーの読み通り複雑に、聞いていた二人の耳に届いた。 瞳を細めて頭の後ろに組んでいた腕を降ろしたリーダーは、正面の花形が愛用のティーカップを置いた音で視線を流す。 「そちらもこちらと変わらぬ結果になってしまったと言う事ですか…」 「…街の噂の事っすか?」 日中門番をしていた門松は近衛隊員の、パトロールをしていたリーダーと花形は町民の、弟分である倫祐の評判を思い出して深い溜め息を吐いた。 「沢也の言う通り、思ってたより酷いなありゃ」 「義希くんの言う通り、思ってたより酷いっすよ。あれは」 事前に事情を聞いていてもかなり堪えたのだから、日常的にそれを聞き続けている彼等はたまったものではないだろう。 「ついでにあの貴族…やっぱり許せないっす」 恐らく、不機嫌の大元であろう理由を口にした門松は、震える拳を膝の上で握り締めた。 リーダーはそんな彼の頭に手を乗せて、朗らかな苦笑を浮かべる。 「お前、大人になったなぁ」 「へ?」 「昔の門松さんなら、乗り込んで行ってチェーンソー振り回していたでしょうね」 「花形さんまでそ言う事言うっすか?まぁ…否定はしないっすけど」 怒り始めると手が付けられなくなる性格は健在だが、昔よりも沸点が上がった事で落ち着いたように見えるのだろうと。二人がそれぞれの中だけで納得していると、門松が悔しげに息を付いた。 「海羽ちゃんがあんな顔するなんて…正直相当っすよ…」 それでも何も出来ない自分に苛立っているのだろうか?歯噛みする彼の横顔にリーダーは訊ねる。 「誰の悪口言ってた?」 「みんなっすよ。みんな。俺も含め」 「あの子は優しいなぁ。お前の事でまで胸を傷めてくれちゃうんだから」 朗らかにそう言って、頬杖を付くリーダーを不服そうな門松の眼差しが追いかけた。リーダーはそんな彼に肩を竦めると、微笑を歪めて溜め息のように口にする。 「倫祐だって…本当は傍に居たいだろうに…」 門松も、花形も。その見解に大きく同意を示した。 「あの様子じゃあ、倫祐くんが傍に寄るだけでねちねち始まって、それを聞いた海羽ちゃんが泣きそうになるのが手に取るように想像できるっすよ」 「成る程…そうならないように、避けなければならないのですか…」 「切ないねえ…」 それぞれのもどかしげな声が落ちた所に、顔をしかめた門松が引き気味にリーダーを見据える。 「良い歳したおっさんが何ほざいてるっすか…」 「バカが。お前だって良い歳したおっさんじゃないか、門松」 「なんですって!いやいやでもぉ?俺っちは新婚ほやほやの脂が乗ったおっさんっすけどねえ?」 「馬鹿言え。新婚早々頭上がらないくせに何が脂だ。ならその脂とやらをもう少し使ってだなぁ…」 「まあまあ、御二人とも」 苛立ちに任せた言い合いを宥めた花形が、ふわりと取り出した毒のある植物を前に、リーダーも門松も思わず閉口した。 幼い頃から良く倫祐の面倒を見ていた彼が、間違ってもそれを使ってしまわぬようにと、責任を持って見守る事を心に決めたリーダーである。同時に、何かあったら直ぐにでも対応出来るよう、仲間内だけでも身軽にしておかなければと、頭の中でスケジュールを組み立て始めた。 そんな郵便課のメンバーが引き上げて行ったのが翌日の昼頃。 よって、テスト結果はその数時間前に当たる朝に発表された。 合格者は正宗と定一、茂達のみ。帯斗は「あんな合格の仕方じゃ納得できない」と、自ら辞退を申し出た。 倫祐の報告にも確かに不可抗力であったことが記されていた為、沢也も無言でそれを受け入れたのである。 他の合格者、及び昇給者。それに該当しなかった隊員も含め、後日順に面接を行う予定だ。苦情や不満、今後の希望などはその時に…と纏め、その日の朝礼は解散となる。 全ての結果を適応するのは来月から。 テストが終わって直ぐに手を付けて、朝日が昇るまで休む間もなくやっとのことで隊員のデータを取りまとめた沢也と倫祐は、次に訪れる面談のスケジュールやその他の打ち合わせに向けて、深夜の会議を行っていた。 昼間、書庫を間借りしてぐっすり眠ったおかげか、倫祐は予定より早く書類の整理を落ち着かせる。 これ幸いと、残りの時間を詰問と言う名の報告に当てようと思った沢也であったが、思い直して倫祐に酒瓶を差し出した。 差し出されたそれに、一度だけ瞬きを浴びせた倫祐は、彼の意図を察して無言で手を伸ばす。大きな文字で「久保田」と書かれた大瓶を抱え、窓際を陣取った倫祐は隊員達の報告に関する質問に答えながら酒を煽った。 テストの質疑応答が終わり、沢也が書類のチェックを始めて数十分した頃。倫祐は自身の酔い具合を確かめるかのように口を開く。 「笑わなかった」 小さな声は、仕事に意識を移していた二人を振り向かせた。 「あいつはここんとこ、いつもああだ」 沢也は呟きながら仕事に区切りを付けると、背後の窓枠に収まる倫祐と向き直る。 「どうにかしようと、思ったか?」 問い掛けに対し、倫祐が思案する間。席を立った蒼が沢也のデスク脇までティーセットごと移動してきた。 倫祐は蒼の動きが収まるのを待って簡潔に回答する。 「分からない」 「何が、だ?」 「世界が広がったから」 不思議な返答は沢也と蒼の瞳を瞬かせた。そうなることを予知していたように、そこで始めて二人を振り向いた倫祐は、やはり短く補足する。 「競争率が上がった」 「競争率って…お前…だから諦めるつもりだとでも言いたいのか?」 困ったような沢也の微妙な声色を聞き終えて、倫祐は不思議そうに首を傾げた。 「諦める」とはどう言う意味だ? そんな意味合いの込められた仕草に、沢也は曖昧な質問で答える。 「お前…その為に箱を開けたんじゃないのか?」 海羽の為に。自分の気持ちの為に。 二人の見解は微妙にずれたまま、しかし意味だけはしっかりと重なった。 倫祐は頷いて酒を煽り、夜空に向けて答えを上げる。 「世界が狭かったから」 もしかしたら。笑うことが出来るようになったら、俺でも…彼女を幸せに出来るんじゃないかと。 「でも今は…世界が広がったから」 「お前なんかより、あいつを幸せに出来る人間は沢山居る…か」 沢也は倫祐が口にしなかった言葉を憶測だけで読み解いたのだが、同意の頷きを得たことで核心となった。 確かに、倫祐の見解は間違ってはいないだろう。しかし海羽の気持ちを知る二人からすれば、確実に間違っている。 だからと言って、海羽の気持ちをこの場で提示するなど、野暮ったい事をする気にもなれず。いまいち踏み込み切れぬまま頭を掻く沢也の代わりに、蒼が静かに問い掛けた。 「彼女と秀さんのやり取りを見て、どう思われましたか?」 倫祐はそこでまた酒を飲み、二人の間に視線を落とす。 「分からなくなった」 妙にハッキリと響いた声は、僅かな間を置いてこう続いた。 「何が幸せなのか」 言い終えた彼は再び窓を振り向いて、断続的に語りを繋ぐ。 「世界が平和になったから」 考えながら呟くようなそれは。 「俺の持つような力は必ずしも必要ではなくなった」 いつもは聞けぬ彼の本心そのもので。 「だからと言って物や金があればそれで良いとも思えなくなった」 二人の中に静かに浸透しては。 「もっと必要なものがあるとすれば…どんなものだろう」 不思議な波を起こしていく。 「だから分からない」 倫祐は呆然とする二人を振り向いて、結論を口にした。 「何を頑張るべきなのか」 分からないのは当然なのだ。 しかし、どうしたらその理由を分からせることが出来るのか。 結局、二人には見守るしか術がないのだ。 恋愛が絡むことで複雑化するのは仕方がない事で、当人同士にしか解決出来ない問題であることも仕方がない事で…だからこそ、もどかしくてたまらなくなる。 それを押し込めて、沢也は小さくため息を付いた。 「表情のことはどうするつもりなんだ?」 「今は伝わらない方がいいような気がするから」 「何が…ですか?」 「色々と」 色々と…。意味深な響きに、蒼も沢也も暫くの間硬直しては思考を巡らせる。 「確かに…そのポーカーフェイスは便利だろうが…」 「え…そう言う話ですか?」 「どっちも」 仕事にしても。プライベートにしても。今は自分の感情を抜きにしておいた方が言いと。 そう考える倫祐の眼差しは思った以上に鋭く、反論しかけた二人を黙らせた。 「だからもう少し」 決意に似た色を引っ込めて、掠れたような声で呟く倫祐を二人の瞳が捉える。 「許して欲しい」 「何を、だ?」 「このままで居ることを」 控え目な沢也の問い掛けに返ってきたのは、更に控え目な呟きだ。 沢也は唸り気味に頬杖を付くと、怒りとも呆れとも取れぬ曖昧な声を出す。 「このままでって…お前なぁ…」 「現に迷惑をかけてる」 「迷惑とは少し違うだろ」 「そう変わらない」 全てのフォローを受け付けず床に視線を固定した倫祐は、何処と無く悔しそうにこう言った。 「このままでは、何も返すことが出来ないから」 低く儚い声は、彼が傾けた瓶の中身が揺れる音に余韻を奪われる。 その間に、倫祐の微細な感情を汲み取った沢也の瞳が細くなった。 「それ、俺達だけにって話じゃないな?」 問い掛けに、倫祐は頷きこそしなかったが否定をすることもなく。だからこそ沢也は肯定と受け取って溜め息を吐いた。 「そう気負うなよ」 諭すと、彼は黙って首肯する。頷きながらも引く気のない雰囲気に、沢也は短く補足した。 「お前がそうしたいなら止めはしないが」 「迷惑はかけないようにする」 「別に、その分もまた返してくれればいい」 申し訳なさそうに呟く倫祐に、沢也はさらりとこう続ける。 「だから幾らでも迷惑をかけろ」 「返せる見込みがない」 「それでも構わねえよ」 曖昧な笑みが表情の無い倫祐の瞳を振り向かせた。沢也は彼から目を反らし、笑うように口にする。 「まだ先は長いんだ」 「そうですよ。生きているうちに、あなたが満足できる形で返して頂ければ…それで充分ですから」 沈黙を保っていた蒼までもが同意を示す状況に、瞬きで戸惑いを表す倫祐に構わず話は続行された。 「ってか、もう殆ど負債なんて無さそうだけどな…」 「遠征や諜報に限らず、今回に関しても随分と無理をさせてしまっていますからね…」 思い起こして苦笑を向き合わせた二人の間、小さな声が唐突に断言する。 「仕事だから」 ハッキリとしたそれに驚いたように目を丸くして、振り向いた蒼が微笑を強める傍ら。沢也は低く問い掛けた。 「海羽のことも、仕事だからやったのか?」 質問に倫祐の首が傾く。 「モンスターの討伐」 沢也が付け足すと、彼は二度首を振って否定した。 肩の力を逃がした沢也は脱力に任せて机に肘を付く。 「なら、どうして」 「分からない」 掠れたような声に、歯切れの良い…しかし曖昧な返答が返された。沢也と蒼が彼を見ると、その口元が僅かに動かされる。 「ただ…」 躊躇って、振り向いた先に浮かぶ星から答えを促されたように。 「幸せでいてほしいと思ったから」 口の中でそう呟いた倫祐が、それ以降口を開くことはなかった。 cp36 [昇格テスト:中編]← top→ cp38 [こんにちは] |