依存


 入道雲がぶわりと広がる青の下。
「触るな、っつーか何当然のように乗ってやがる。降りろ」
 良く通る声が朝の清々しい空気を横切った。
 城の前に揃って集まるのは、いつものメンツから数人抜け落ちたメンバーだ。彼等は一様に中央の車輪なしスクーターを見据えて苦笑を浮かべている。
 その理由は明白で。
「えー?だって、蒼ちゃんは良いって言ったよ?」
「仕事だっつってんだろうが」
「大丈夫、邪魔はしないからー」
「お前が一緒だとこれで行けねえだろうが。小回り効くからわざわざこれにしたっつーのに」
「えー?二人乗り出来ないの?できるよね?ね?」
 そう言って沙梨菜が撫でた空飛ぶバイクの制作者であり持ち主でもある沢也は、長いため息で間を繋いで機体のレザー部分をひっ掴む。
「重量的には問題ない。ただ、俺が運転する手前、乗るならこの中」
 示されたのはバイクに置ける唯一の収納スペース、座席の中だ。
 あまりの無茶振りに一同が固まるその中で、沙梨菜はいそいそと狭い空間に収まらんとしている。
「待て待て沙梨菜、それは色々と問題あるから!」
「入れたとしても出られるのか?って話だよな」
 義希と小太郎に揃って止められて、ぷうっと口を尖らせた沙梨菜を横目に、蒼が沢也に困った微笑を向けた。
「沢也くん…そうごねないで下さいよ」
「まあ、後ろに乗せて落下事故起こす手も無くはないが…」
「真顔で怖いこと言わないの…」
「大丈夫だよ。ちゃーんとがっしり掴まって行くから」
 有理子のため息に負けじと声を張り上げた沙梨菜に向けて、沢也の鋭い睨みが注がれる。
「それが嫌だって話なんだよな…?」
 海羽が控えめにそう言うと、沢也は頷く変わりにため息を漏らした。
「触るのが嫌ならこれは?昔どっかの何かで見たけど、二人を縛っておけば…」
 義希がルビーからロープを取り出し振り向くと、先と同様の石化睨みが待ち受けていたわけで。仕方なくそろそろと提案を引っ込める義希の仕草を見届けて、沢也は一息に捲し立てる。
「別に一緒に出発する必要ねえだろ?どうせ現地で別行動なんだ。リーダーでも門松でも、適当な奴に便乗して好きなとこ行けよ」
「やだぁ!沢也ちゃんの後ろがいいー!どうせなら一緒に行きたいのー!」
「黙れ、ガキか」
「着いたら大人しく待ってるから、行き帰りと宿だけ同じ!それでいいでしょ?」
「何で俺がお前の提示した条件を飲まなきゃなんねえのか、30文字以内で説明しろ」
「上司命令と言うことで」
 割り込んだのは穏やか且つ威圧的な蒼の声。沢也は頭を抱える勢いで舌を打つ。
「お前は引っ込んでろ!」
「しかしこのままではいつまで経っても出発出来ませんよ?」
「だから、そう思うなら俺じゃなくてこいつを何とかしろよ」
「可愛い我が儘じゃないですか。そんな剣幕で怒るような事じゃないですよ」
「そりゃお前にとっての基準だろうが」
「沢也ちゃーん、ほら早く早く、沙梨菜が運転しちゃうぞ?」
 更なる割り込みは甲高い声で。それを聞き終えた沢也は、苛々が何処かに吹き飛んでスッキリしたかのような笑顔で彼女を見据えた。
「この際だ。珍獣排除、するくらい構わねえよな?」
 取り出されたのはいつもの物騒な物体であり、それを目にした仲間が慌てて止めにかかるのも最早いつもの事。
「落ち着け沢也!」
「つか急がないと一雨来そうだぜ?」
「ほら、先方待たせたりしたら纏まるものも纏まらなくなるんだから…」
「そうですよ。間に合わなくなってしまいますから、諦めて早いところ出発してください」
 順序良く早口に諭されて、ため息やら舌打ちやらで息を調えた沢也の口から覇気の無い言葉が漏れる。
「前にも同じような台詞を吐いた気がするが…」
 何処か穏やかなその声は、周囲にいた全員が気を抜いた瞬間に猛毒を帯びた。
「お前ら、帰ったら纏めて殺す」
 凍てつく眼差しで言い切って、彼は渋々沙梨菜を連れて出発することになる。

 今回の遠征は「環境問題」に置ける「開拓派」貴族達への対処の一環だ。仕事内容は主に依頼と交渉なので、沢也は一つの宿を拠点として幾つもの土地を訪ね歩くつもりでいる。
 だからこそのスクーター。しかし後ろには重く五月蝿い荷物。
 出発前にせめて耳栓でもしてくるんだった、と半ば後悔しながら、沢也は最初の目的地であるセンターサークルを目指した。
 平らな底面が遥か下方で波打つ海の青に楕円形の影を落とす。エンジン音は波の音のように大人しく、まとわりつく夏の空気の方が騒がしく思えるくらいだ。
「あのねー、沢也ちゃん」
 静けさに響くのは、無駄に明るさを含んだ沙梨菜の声。
「蒼ちゃんがね、経費削減でお部屋は二人で一つにしてくださいって言ってたよー♪」
 ウキウキな報告はいつも通り無視されて、変わりに僅かに機体が傾いた。
「あのー、沢也ちゃん?」
「懇願も質問も雑談も受け付けない」
「はい、大人しくしてます…」
 感情の全く籠らぬその声に、沙梨菜は涙目ながらも身を縮める。彼女がぎゅっと掴んだ彼のYシャツは、暑さとは別の所から来る汗が俄に滲み始めていた。


 そうして二人がセンターサークルの宿に部屋を借りたのが、出発から六時間後のこと。
 そろそろティータイムだから、今日は部屋でのんびり…と、沙梨菜がそわそわ顔を振り向かせた直後。
「出掛けるときはフロントに鍵預けていけよ」
「え?ちょ…沢也ちゃん…?どちらに…」
「仕事だと何度も言った筈だが?」
「な…今から?」
「出掛けの会話を良く思い出せ」
「えと…あ、待って、沢也ちゃ…」
 バタリと閉まった扉を見て、沙梨菜は自分の浮かれ具合を自覚する。何故なら彼に言われた事を思い出そうにも思い出せなかったからだ。
「何時帰って来るのぉ…?」
 届かなかった質問を取り敢えず口にして、彼女はボスリとベットに腰掛ける。
 暫く思案してみたが、知らない部屋の、知らない壁に囲まれて一人ぼんやり過ごすのも馬鹿らしかったので、沙梨菜はとにかく街に繰り出すことにした。
 幸い此処はセンターサークルだ。見るべきものがなくとも、暇を潰すための場所は沢山あるだろう。
 そうして彼女が軽い気持ちで宿を出ると、辺りが酷くざわついたような気がした。
 気のせいだと思い歩みを進めても違和感は拭えず。しかし彼女はその理由に行き当たり、目の前に広がる広場を見据えた。
 昔と同じ、高いビルの中腹に設置された大きな大きなディスプレイに、歌う少女の姿が映し出される。
 それは当たり前に自分ではなく、この土地で活動するアイドルだ。

 そうだ。ここはもう、あたしの知っている場所とは違うんだ。

 周りから向けられる目が急に恐ろしい物に思えたのは、自分にとってあまり良くないヒソヒソ話が耳に入ったから。
「当て付けかしら?」と、誰かが言った。
「偵察じゃない?」と、また別の誰かが。
 ここではそう言う目で見られるのだと認識した時には、もう遅かった。
 あたしはあなたの歌、好きなのに…だなんて。言った所で何になると言うのだろうか。
 冷たい冷たい眼差しが、あの大きなディスプレイで見た優しさの全てを憎しみに変えたような色をして。


 あたしの目の前で、あたしを睨み付けていた。


 歌を歌うようになって、世界は広がったと思っていた。
 みんなの優しさに包まれて、幸せで居心地の良い場所を手に入れたのだと。
 だけど、あたしはただ、自分に都合のよい物だけをかき集めて作った、ぬるま湯に浸かっていただけだったのだ。

 昔のあたしは、あたしを見てくれない世界に絶望していた。だから、みんながあたしに関心を持ってくれるようになったことが嬉しくて仕方がなかった。

 だけど、違うのだ。
 世界と言うのはもっと広い。

 自分の存在を発信するようになれば、人はあたしを見てくれる。
 だけどあたしを見る全ての目が好意的なものだとは限らない。
 今までのあたしは、それに気付かずにいただけ。きっと、みんながそう配慮してくれていたのだろう。だから、能天気に過ごして居られた。幸せで居られた。

 全ての人はそれぞれ別々の感性を持つ。当たり前だ。それが人間なのだから。
 だからこそ、みんながみんなあたしを認めてくれるとは限らない。これも、当たり前だ。
 それなら、あたしはどうしたらいいのだろう?
 嫌われるのを恐れて引きこもれば、また昔と同じように誰もあたしを見てくれなくなる。だけど、全ての人に好かれるなんて、そんなの絶対不可能だ。

 嫌なことから目をそらせばいいの?
 嫌なこととも向き合って戦えばいいの?
 全てから逃げ出したら良い?
 好かれようと努力したらいいの?

 困ったな。
 答えが見付からない…

 こんな曖昧な問題、あたしが自分で答えを見付けるしかないのに。
 昔から何も変わっていないことを、そんな現実と唐突に向き合ってしまったと言うことだろうか?

 沢也ちゃんは…
 沢也ちゃんは、なんて言うだろう?
 彼があたしの傍に居てくれるのはどうしてだろう?
 嫌いなあたしを…傍に起きながら、遠ざけようとするのは。
 本当は、心の何処かで分かっていた筈だ。
 彼は文字通り、自分の苦手なものを切り捨てようとしているだけなのかもしれない。
 あたしの事を仲間だとか、それ以上の存在だと思ってるかもしれないなんて、やっぱりあたしの妄想でしかないんだろうか?

 あたしは…一体何がしたいのだろう。

 纏まらない思考の中に落ちてゆく。
 時間の感覚が薄れて、次第に負の感情だけが溢れてくるようになった。
 まだ、一人で旅をしていたあの頃と同じだ。


「…何やってんだ?お前」
 日没から随分経った頃。
 扉を開けた沢也が言い放った一言が、真っ暗な部屋に落ちる。
 頭から布団をかぶって、達磨の如くベットの上に鎮座する沙梨菜の虚ろな眼差しが、消え入りそうな答えを返した。
「あたし…」
 沢也は、耳に届いたその一言で確信する。だから事情を話そうとする沙梨菜を掌を広げて制した。
「俺にどうしろと?」
「教えて、欲しいの」
「何を」
「あたしの…存在意義…」
 震えの混じるそれを聞いて、沢也は深くため息を吐く。そして脱いだ上着を椅子に放ると、踞る沙梨菜に近付き乱暴に腕を引いた。
「本当、面倒くせえ女…」
 不意に体を寄せられて、思わず身を強張らせたのも束の間のこと。
 状況を把握するまでに数秒かかったが、把握したと同時に沙梨菜は安堵に合わせて吸い上げた息を吐く。途切れ途切れに続いたそれが落ち着くと、夢心地に包まれて現実感が薄れていった。
 それが離れてしまうのが嫌で、彼女は腕を持ち上げる。ゆっくりと背に向けて動いていたそれを視界の端に見付けたのか、それとも端から気付いていたのか。沢也の低く静かな声が制した。
「触ったら殺す」
 耳元でそう言われ、沙梨菜は静かに体の力を抜く。そこには一切の抵抗が感じられない。
 沢也はそれを確認すると、指先の力加減を調整した。
 彼は、人間の体が少しばかり力を籠めたくらいでは壊れないことを知っている。だから恐らく普通の人より、抱き締める力が強い。
 沙梨菜にとってはそれが意外に思えたが、だからと言ってやめてほしい訳ではないので何も言わずに済ました。苦しさよりも、嬉しさが勝るに連れて心音が高くなって行く。彼女は急速に訪れた沢山の刺激を逃すまいと、感覚を研ぎ澄ますために目を閉じた。
 冷たさに似た温もりや、作ったようでいて優しい香り。一向に乱れる気配のない呼吸と、機械的なまでに安定した心音。
 沙梨菜の神経全てを掻き乱しておきながら、落ち着き払って全てを見通す彼の存在を、認識し、記憶して、何時しか彼女は静かに眠りに落ちる。
 不規則な寝息は、先とうってかわって安らかに、力強く響いていた。

 それから数十秒後。

 思っていた以上に小さい。
 沢也は沙梨菜を適当にベットに寝かせながらその感覚を思い出す。
 今までに何度かこうした形になったことはあったが、感情任せに流れた物と、自らの意思でするものとでは全く感覚が違う。恐らく、人間らしいのは前者だと言う者が大半だろうが、彼の中での答えは少し違った。
 愛だとか恋だとか、安堵だとか切なさだとか、尤もらしい人間らしさは確かに感情によるものだろう。沙梨菜の中にあるのが正にそれで、だからこそこうして結果に現れる。
 沢也にとってはその逆で、外側からそれを認識し、分析する為の手段となった。
 彼女のことも、自分のことも。
 頭で考えるだけなら簡単だが、実際に触れるのとでは大きな差がある。それは今までの経験から身に染みて分かっていた事だ。
「俺は思った以上に…」
 こいつに依存しているのかもしれない。
 現に、こうして傍に置いているのは、自分が人間である事を手軽に認識するための手段なのだろう。
 触れることで、相手が生きていることを体に覚えさせる。
 体温、呼吸、鼓動、匂い。
 生物からしか体感できない感覚。同時に自分ではない存在として、相手を再認識する…そんな行為。
 冷静でいると、感情を脇に置いておくだけで、それが可能となる。彼にとっては、それこそが人間らしいと感じる理由だった。
 何故ならそんな事をしようと思うのも…また、することが出来るのも。
 恐らく人間だけなのだろうから。
 しかしそこまで考えて、沢也は思考を巻き戻す。何故なら、どちらが先かが分からなくなったから。

 人は。
 感情を満たすためにそうするのか。
 それとも元から他者を他者だと認識するためにそうするものだったのか。
 どちらが理性で、どちらが本能だろう。
 その答えは、彼の中には無い。
 何故なら、自分が人間だから。
 沢也はため息混じりに笑みを漏らすと、片手に持ったままだった書類を一枚捲った。
 そうして襲い来る頭痛や吐き気を紛らわせるように、仕事へと思考を没頭させる。


 何時の間に日が昇ったのか。


 彼が次に顔を上げた時には、起床した沙梨菜のぼんやりとした眼差しが背中に張り付いていた。
「沢也ちゃん…その…昨日のアレは…さ」
 彼女は、朧気な記憶の中から言葉を選んで振り向かぬ沢也に問い掛ける。
「沙梨菜のこと、必要としてくれてるって意味だよ…ね?間違ってないよね?」
 懇願にも似た詰め寄りに、沢也は訝しげな顔を振り向かせた。
「これだから女は…」
 椅子の背凭れに片腕を預け、うんざりと言った具合に呟く彼に、困惑した沙梨菜の問いが続けられる。
「じ…じゃあどういう意味?」
「お前な、出掛けに散々自己主張しまくった挙げ句に、勝手に深みにはまって存在意義だなんだって…アホじゃねえの?」
「あ…あほ、かもしれないけど…でも!沢也ちゃんだって、あれは、その…慰めてくれたんじゃないの?」
 今にもベットからずり落ちそうな程身を乗り出して、赤く染めた頬を膨らませる彼女を指差して。
「お前は物質的にそこに存在するだろ?」
「う…うん…」
「俺も、物質として此処に存在している。それが存在意義だ」
 続けて自らに人差し指を向け直してそう言うと、沢也は短いため息の後に仕事に戻った。
 沙梨菜はその仕草を前に暫し硬直していたが、数秒後にハッとして彼の意識を引き戻す。
「…えーと…じゃあ、あのね?沙梨菜はどうして存在してるの?」
「飯食って糞して寝るからだろ」
「そりゃ…そうだけど、そうじゃなくって…」
「それが嫌ならやめたら良い。死んで土に還れ」
「ううう…それは嫌だよう」
「つまり、お前は生きたいわけだ」
「うん…でも、どうして生きているのかなって…それが…その理由が知りたいの」
 情けなく眉を下げては口を尖らせる沙梨菜を、沢也は再び振り向いて舌を打った。
「本当…面倒な生き物だなテメエは。生きるのに理由だなんだって付けたがるのは自由だが、他人にそれを求めんな。キリがねえぞ」
「…そう…かも…しれない、けど…」
 萎んでいく勢いを見届けて、再度ため息で間を埋めた沢也は、俯いたオレンジ頭に適当な言葉を投げる。
「生きたいと思うことそのものが、存在意義ってもんじゃねえのか?」
「…生きたいと、思うこと…」
「現にお前は、俺に嫌われようが罵られようが、生きてるじゃねえか。人間なんて、元より図々しく出来てんだよ。でなきゃ、俺達がこうして共存しているのも可笑しな話だし、そもそも人として存在している事自体が図々しいとも言っていい」
 面倒になったのか、中途半端に長文を切った沢也の背中に、沙梨菜は唸りながら尚も訊ねた。
「じゃあ、図々しく聞いてもいい?沢也ちゃん」
「嫌だ」
「ぶー…」
 即答に膨れて見せるも、何時の間にやらノートパソコンを開いた沢也の気を引くには至らず。沙梨菜は不満そうにため息を付く。
「沙梨菜、もしかしてはぐらかされた?」
「そうかもな」
「むー…じゃあ、考えとく」
「勝手にしろ」
 顔を覗きこんで様子を窺い、そこに変化が現れないことを確認した彼女は、仕方なく身支度に思考を切り替えた。


 翌日。


「沢也ちゃん」
 あの後日が暮れるまで外回りに出て、帰ってくるなり書類に埋もれていた沢也は、仮眠から起きて暫くした所に飛んできた呼び掛けに眉をしかめる。
「人はね、一人では生きられないと思うの」
 振り向くと、唐突な語りを始める沙梨菜の輝く瞳が、意気揚々と待ち受けていた。
 その様子を見て、彼は飽きれとウザさと苛立ちとを上手いこと配合させた表情を浮かべながらも、仕方なく応答することにする。
「月並みだな」
「月?」
「誰もが言い出しそうな台詞だってことだ」
「そうかもしれないけど、でも、そうでしょう?」
「そうだな。多分、俺とお前とでは解釈が全く違うだろうが」
「えと、どうして?一人じゃやっぱり寂しいし…人と触れあって居たいって思う…ってことだよね?」
「自分一人で身の回りにあるもの全てを賄うのは不可能だから」
「え…」
「これも、それも、あれも。全ては他人が作ったものだ。どれも俺には作れないし、その時間もない」
「…うん…確かに…」
「で?それがなんだって?」
「沢也ちゃんは、他人に理由を求めるなって言ったよね?だから、一人で生きていけって言ってるのかと思って…」
「誰もそうは言ってねえ。ただ、自分の生きる意味をいちいち他人から見いだしていたら、生き難いって言ってんだよ」
「う…そ、か…じゃあ、じゃあね、どうしたらいいかな?やっぱり自分で考えるしかないの?」
「別に。他人に意見を求めるも、その意見をどう感じるも、お前の勝手だろ?ただ、俺に限ったことじゃなく。他人は、お前に明確な答えをくれるとは限らないってことだ」
「うん…」
 それは、分かってるけど…と言いかけて口をつぐんだであろう沙梨菜の表情に、沢也は然も面倒臭そうに問い掛けた。
「お前はどうしたいんだよ」
「どう…?」
「何のために生きたいんだ?」
「…沢也ちゃんのために」
「そこに俺は関係ない。お前自身の事を聞いてるんだ」
「あたし…自身の…?」
「お前は歌っていられれば、それで満足なんじゃねえのか?」
「それだけじゃないよ?評価されたいし…みんなに聞いてほしいし…でも、そうなるとやっぱり、あたしだけの問題じゃないよね?」
「つまり、お前は誰にも聞いてもらえないなら歌えなくなっても構わないと」
「…それは…」
 仕事の片手間に呟かれた言葉が、沙梨菜の胸中に波紋を呼ぶ。それは直ぐに答えに行き着いた。
「ううん…歌いたい…それでも、歌っていたい…」
「そう言うことなんだろ?」
「そう言うこと…なの、かな?」
 しかし不思議とそれ以上は広がらず、また別のもやもやが彼女の脳内を支配してゆく。
「沢也ちゃん。沙梨菜は、その先が知りたいの」
 沙梨菜が諦め半分でそう呟くと、沢也ははじめから分かっていたかのように頷いた。
「他人に関すること」
「そう。だから、そうなると…やっぱり、沢也ちゃんに行き着くの。沙梨菜はきっと、沢也ちゃんさえ傍に居てくれたら…何でも出来ると思うから」
「だから俺に、答えを示せと?」
 背中越しに、鋭い声が返ってくる。ピクリと身を揺らした沙梨菜に、今度は冷たい視線が突き刺さった。
「順序が逆だな」
 例によって半端に振り向いた沢也は、言い捨てて眼鏡を押し上げる。
「お前はまず、足掻くべきだ。歌を通して自分の頭で考えろ」
「どうして…?」
「今までもそうして生きてきた。だからいい加減、拠り所が欲しい」
「…うん…」
「どうして俺なんだ?もう、俺じゃなくても大丈夫なんじゃないのか?」
「…え…?」
「世界は広い。いい加減気付いただろ?お前に優しくしてくれる人間なんて、はいて捨てるほど居る」
「違う…」
 沢也の重い捲し立てを、沙梨菜の小さく強い声が遮った。
「分かってないのは、沢也ちゃんの方だよ!」
「どの辺が?」
「沙梨菜は沢也ちゃんじゃなきゃ嫌なの!」
「どうして俺なんだ?お前、それを説明できるのか?」
 沙梨菜の熱に合わせて冷却を行うように、続く沢也の冷めた返答が静かに響く。暫く考えた後、沙梨菜は俯き、絞り出すように言葉を並べた。
「…沙梨菜は、確かにバカだし…沢也ちゃんのこと、殆ど理解出来てないと思う。沢也ちゃんからしたら、きっとただ執着してるだけなんだと思うかもしれない。だけど…だけどね…」
 顔を上げて、沙梨菜はしっかりと沢也と向き直る。
「沙梨菜は、知ってしまったから。沢也ちゃんのこと。例え少しでも、知ってしまったから」
 訴えかけるように、声に力を込めて。
「もう知らなかった時には戻れないの。何処を探しても、今のところそれより凄い衝撃はないの…だから…その…」
 何とか伝えようと、伝えたいと、言葉を捻りだそうとする彼女に浴びせられたのは、やはり冷めたため息だった。
 彼は揺れた沙梨菜の瞳に表情のない顔を向け、棒読みに口にする。
「俺がお前にしてやれることなんて、ありはしない」
「うん」
「それでも俺に固執すると言い張るなら、正直俺にはどうにも出来ない」
「どうして?」
「お前は人の意思を曲げる大変さを知っているか?」
「…そっか。そうだよね」
 そうなのだ。自分のこの意志がそう簡単に曲がらないことは、自分が一番良く知っている。
 だからきっと、周りのみんなもそれと同じ。
「沢也ちゃんが言ってること、何となく分かったよ」
 ふにゃりと、沙梨菜は笑って言った。
「だからこそ沙梨菜は、やっぱり沢也ちゃんの傍に居たい。歌うよりも、沙梨菜にはそっちの方が大事なのかもしれない」
「俺が歌うなっつったら、歌を辞めるのか?」
「辞めないよ?沢也ちゃんはそれでも、沙梨菜を否定したりしないから」
 何処かスッキリしたその顔を見て、沢也は僅かに口元を引き吊らせる。
「言っておくが、俺はお前に都合の良い存在では無いぞ?」
「うん、分かってるよ。その分、沙梨菜も沢也ちゃんにとって都合の良い存在じゃないってことだよね?」
 満面の笑みで頷く彼女に、彼は呆れを通り越して、気の抜けたため息の延長線上に言葉を乗せた。
「それで?具体的にどうするつもりなんだ?」
「うーん……そうだな…そう考えたら、何だかどうでも良くなってきちゃった」
「は?」
「分かんないけど。確かにみんなに好かれていたいって気持ちはあるけど。それよりもね」
 ふわりと微笑んで、眉根を歪ませた沢也を下から覗きこみ。沙梨菜は照れ臭そうに宣言する。
「沢也ちゃんのこと、もっと知りたくなっちゃった」
「うっぜぇ…」
「あー、そんなめんどくさそうな顔しないでよう」
 絶望に似た声に軽く甘い声を返し、沙梨菜はふと窓を振り向き空を見上げた。
 そうして伝えなかった言葉を、密かに頭の中に思い浮かべる。


 それにね。

 どうしても変えるなら。
 どうしても変えたいなら。

 他の誰より、まずは…





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