平和


   蒼と海羽の休暇二日目のお昼過ぎ。

「おい、くそ眼鏡。ちょっと顔貸せや」
 バインとデスクに片手を付いて、書類が崩れるのもお構いなしに沢也の顔を睨み付けた小太郎の一言が、広い王座の間に響く。
「んな睨むなし!お前が忙しいことは重々承知の助だってんだ!」
 返却された無言の圧力に怯んだ彼は、大袈裟に両手を広げては沢也との距離を詰めた。
「でもこれだけは、あいつが来る前に解決しとかねえと…」
「このおれ様が恥を忍んで頼みに来たんだ!断るとは言わせねえぞ!」
「断る」 「うるせえ…」
「まぁまぁ、沢也さん。ちょっとで良いから聞いてあげたらどうですか?」
 二人の…と言うよりは、小太郎の一方的な叫びと怒りを中和したその声に、沢也が振り向きため息を注ぐ。
「お前なぁ…」
 小太郎もつられて首を回すと、何時もよりも声が高く柔らかい空気の蒼が、胸の前で両手を拳に変えた所だった。
「大丈夫です。何かあったら結さんと一緒に全力で叫びますから」
「そういう問題じゃねえだろ」
「そういうことにしとけよ!ほら!早く!おれ様は忙しいんだ!」
「お前が言うな」
 そうして椿に促されて勝手に話を纏めた小太郎を、不服そうな沢也が追いかける。小太郎は王座の間から書庫へと続く廊下に出ると、周囲の部屋に誰も居ないことを確認し始めた。沢也はギリギリ椿にも聞こえない位置で立ち止まり、壁を背に話の先を促す。
「で、なんだよ」
「ごほん。いいか?心して聞け?おれ様の…」
「照れ隠しはいい。素早く5分で簡潔に」
「…ったく、我儘な上司で困るぜ」
「そりゃこっちの台詞だ」
 やれやれと片手を広げた小太郎への苦言も虚しく流され、沢也は小さく舌を打った。対して小太郎は咳払いを前置きに自分勝手に話を進める。
「おれ様はな、さぼってるつもりも手を抜いているつもりもねえ。しかしなぁ、いかんせん見せ場が無さ過ぎるんだ」
 息継ぎに合わせて横目に様子を窺い、彼は更に続けた。
「だからって事件が増えりゃいいってもんでもねえし、じゃあどうしろって話でよ。そりゃ、義希みてえに勝手に馴染んじまうような奴も居るけどよ…どうにもおれ様にはそんなスキルはないらしい」
「で?具体的にどうしたいんだ?お前は」
「どうって!決まってんじゃねえか!もっとぐいぐい部下が付いてくるようなアレが欲しいんだよ!アレが!」
「統率力」
「そう!そうそうそんな感じだ!分かってんじゃねえかよ、このクソメガネ!」
「お前には無理だ、諦めろ」
「んな…!ば、こら待て!」
 無情にも程があるバッサリ加減にもめげず、食い下がる小太郎に腕を引かれながらも、沢也はさっさと仕事に戻ろうとする。
「おいこら、そのインテリ眼鏡は飾りか?もう少しこう、頭使ってアドバイスの一つでも出せし!」
「統率力なんて、別に必要ねえだろ」
「そー言うわけには…」
「お前に無くとも、蒼にあるし」
「だから…なんだってんだよ!」
「お前の仕事は、お前が忠誠を誓った人間の、統率力を高めること」
 その言葉で、小太郎の体がピタリと硬直した。沢也は彼の手を払いながらため息混じりに確認する。
「…分かったか?」
「…分かった…いや、わかんねえ」
 払われた手で再度沢也の腕を掴み、無理矢理振り向かせて。小太郎は苛立ちをそのまま彼にぶつけた。
「ならおれ様はどうすりゃいいんだ?もっと具体的に言えよ!」
「だから、お前が言うな」
 沢也は呆れたように長い長い息を吐き、ネクタイを直しながら目線を落とす。
「別に、今のままでいいだろ。俺もあいつも、そこまでの期待はしてねえよ」
「な…!」
「悔しければ精々、部下に負けないくらいの戦闘技術を保っておくんだな」
「言われなくてもやってるっつーの!それ以外だよそれ以外!」
「お前な、キャパシティーって知ってるか?」
「あ゛?」
「確かに近衛隊のことも大事だが、それ以前にお前にはやるべきことがあるだろう?」
 諭されて、小太郎はバツが悪そうに俯いた。その横顔に沢也は静かに釘をさす。
「人として最低限、父親くらいまともにやってやれよ」
「や…やってるじゃねえか…」
「どもってるぞ。お前が近衛隊の隊長としてきちんと成熟してえなら、まずはそっちをなんとかしろって話だ」
「家庭と仕事は関係ねえだろーが!」
「なら、お前は家庭を捨てるんだな?」
「…捨てねえよ!どっちも取るんだ!」
「そりゃ無理な話だ」
「無理じゃねえ!おれ様になら…」
「お前みたいなプライドの塊が、俺に相談しに来てる時点で、既に破綻してるってことだろうが」
 自然と早口になった言い合いは、沢也の低い声を最後に終了した。ため息で全てを終わらせて、押し黙った小太郎を置いて扉を開く沢也の背中を。
「…くそったれが」
 小さな小さな悪態が追いかけた。


 その後沢也が自室に戻っている間に、小太郎は渋々家に帰ったようで。王座の間からは椿と結の談笑だけが聞こえてくる。
「お帰りなさい。みつかりましたか?」
「ああ、何とか堀り当てた」
 廊下に繋がる扉のうち一つを開けて入室した沢也を見るなり、椿の細い声が問い掛けた。沢也が本を掲げて存在を提示すると、デスクの脇で結の苦笑が漏れる。
「堀り当てたって…全く、どんな部屋なのさ」
「お前が想像しているような部屋だ」
 サラリとそう言われ、結は虚空に想像図を描いた。沢也が椿へ資料である本を渡して席に付く間に、結の口から感想が落ちる。
「間違っても女の子は呼べないね…」
「あら、でも呼んでいますよね?」
「呼んでねえ。勝手に来るだけ」
 ニコニコと顔を覗き込む椿に吐き捨てて、沢也は小さく舌を打った。
「ったく…姉弟揃って俺で遊んでんじゃねえよ…」
「ふふふ…と、言う事は普段からこんな感じなんですね?」
「まあ…秀が居ないときはな」
 ため息混じりの沢也の呟きに、結がしみじみ頷きながら腕を組む。
「本当…あの人が居ないと平和だねぇ…」
「面倒だから、出現したら椿は直ぐに引っ込めよ?」
「承知しております」
 仕事の片手間に投げられた忠告を素直に受け取って、椿は本へと意識を移した。
 有理子が蒼の補佐役なら、椿は沢也の補佐役だ。
 彼女は普段から沢也が捌ききれなかった書類を請け負って内容を把握しては、直接蒼へと回すのを仕事としている。
 最近ではお互い得意、不得意分野が分かってきた事もあって、最初から仕事を分担することすらあるくらいだ。
 下町の事件処理に巻き込まれやすい沢也と違って完全にデスクワークのみだが、彼女が居なければこの国は回らなくなると言っても良いだろう。
 元より穏やかな人物の席に、良く似ていながらにして更に穏やかさを持つ彼女が座っている。それだけで、王座の間の空気はいい意味で緊張感を失い、日頃まとわり付いている刺々しさが薄れていた。
 そんな空気に小さな音が落ちる。それは部屋の中で一番大きな扉が僅かに開かれた証拠だ。
「沢也ー、おーひーるー!ご飯作ってー?」
 隙間から顔を覗かせて大声を出したのは、真っ白い小さな物体。子供のようなそれに、名指しされた彼は棒読みで答える。
「壊滅的に不味くても良ければ」
「そうだった。じゃあ誰かに頼んでよー。もう腹ペコで気持ち悪くなりそう」
 両前足でドアノブにぶら下がってはゆらゆら揺れるハルカに、沢也はため息で了解を示した。
 いくら椿が蒼に似ているとは言え、ずっと彼と同じように振る舞うにはなかなか神経を使う。今回はまだ短期間なのでそう問題ないのだが、いざ長期的に蒼が留守にする場合を想定して、現在王座の間には防音バリアを張り巡らせているのだ。
 しかしながらこの広い部屋に長時間バリアを巡らせられるのは海羽くらいなものなので、ハルカと沢也が交代で魔法を使っているのである。
 勿論妖精達に頼む手もあるのだが、それはまさに最終手段と言った所か。
 沢也は海羽に用意して貰った魔法陣が刻まれた文鎮を裏返し、今の今まで休憩と称してその辺で日向ぼっこをしていたハルカと交代する。そうして小さく伸びをすると、向かいの厨房へ足を向けた。
 三人がその背中を見送ってはやれやれと雑談していると、不意にハルカの耳が不自然に動く。先より数分しか経っていないのだから当然沢也は戻っておらず、焦った彼は短く事実を伝えた。
「来たよ」
 何が?と固まった椿と結。彼等が数秒後に答えを見つけた時には独特の足音がすぐ近くにまで迫っていた。
「間に合わない、変身して?」
 結が早口に言う。椿は直ぐに頷いて、デスクの下に屈み込んで魔法を発動させた。
 ガチャン、と半ば乱暴に開かれた扉の向こうには、予想通りの人物が姿勢良く立っている。彼の目には誰も居ない王座の間で、白い仔猫と青い鳥が振り向いたように見えている筈だ。
「何時から動物園になったのですか?ここは」
 秀は眉を歪めると、顔を横に向けて皮肉を放つ。
「友人のペットです。お気遣いなく」
 受けた沢也は何でも無さそうに言い放ち、秀に入室を促した。
 手ぶらで戻った沢也にハルカが不服そうな眼差しを向ける間に、扉が閉まるのを待たず秀が話を始めた。
「今日来たのは他でもない。いい加減彼女の居所を教えて頂きたいと思いまして」
 願い出ると言うよりは命令に近い姿勢で言い切る秀に対し、沢也は歩きながら冷めた応対をする。
「そんなことはせずとも自力で探してみせると豪語したのはそちらの筈ですが」
「それはそちらがしらを切るからでしょう」
「こちらがしらを切り通すと分かっていても来てしまうくらい、居場所に見当もつかないと」
 呆れに似た皮肉を聞いた秀の顔が盛大に歪んだ。それに構わず、沢也はルビーからハルカの食事を取り出しながらため息を吐く。
「心配しなくとも、あと数日すれば戻ります」
「その数日の間に何かあったら?君に責任が取れるのですか!」
「何か、とは?」
「何かは何かです!」
「貴方は海羽がただのひ弱な女ではないことをご存知でしょう」
「それは君のエゴだ。魔法が使えようとも、彼女が女性であることに変わりはない」
 拳の変わりに靴底を床に叩き付け、秀は怒りを露にした。しかしその場に居る誰もが冷たさを和らげることはなく、寧ろ冷気が増したようにすら感じられる。
 秀はそれに気付く素振りも見せずに襟を前に引くと、意気揚々と宣戦布告を始めた。
「とにかく…そちらがそう言うつもりなら、こちらもこちらで強引な手段を採らせてもらいますよ」
「強引な?」
「草の根を分けてでも捜し出し、連れ戻します」
「それはそれは、御苦労なことで」
「この場所も捜索対象であることをお忘れなく!」
 言い捨てて、秀は足早にその場を去った。残された四人は可笑しな空気を追い払うようにして、各々小さな息を付く。
「本当、あいつは分かりやすくて助かる」
「見事に乗っかってくれたね…」
「これでセキュリティの実験も滞りなく出来るね」
 沢也の言葉を皮切りに、続けられた疲れた声の連鎖を聞いて。椿はクスクス笑いながら人間の姿に戻った。
 そうして彼らは沢也がルビーに仕舞い込んでいた食事に揃って手を付ける。穏やかな昼食はその後も至って平和に進められた。


 翌日の夕刻。


 落ちる影が長くなるにつれて、街の空気は夕食の支度に追われ始めた。商店街に足を向けた人々が紙袋を抱えて家路につく頃には、長い陽も落ちかけることだろう。
 背中に広がる明るみ、そして雑踏から抜け出して路地に足を踏み入れた小太郎は、不機嫌そうに舌を打った。駐屯地に繋がるその道に入ると、途端に憂鬱になってしまうのが最近の彼の常である。
 くれあが包んでくれた焼きたてのカレーパンを一口頬張りながら、小太郎は傾いた看板をぶら下げた扉を開きかけて固まった。
「もし大臣にチクったら、人間の心を持たないロボットとみなすからな」
 出勤早々、扉の内側から聞こえてきた台詞がこれである。しかも続けて上がるのは反論ではなく笑い声。小太郎はその場で耳を澄ませて続きを聞き届ける事にした。
「本隊長さんさえ頑張ってればこの街は安泰ですし?余裕すらあるみたいですから…僕らの事も守って頂かなきゃ」
「いいでしょう?そんだけ強いんだから。文句なんてないですよね?」
「そうそう。それにね、あなたが頑張りすぎるせいで街が平和も良いとこになっちゃって、退屈なんですよ。こちとらあなたが来る前は適度に刺激もあって、ちょっとは働こうって気にもなれたのに」
「こうイイコちゃんばっかしてるとねぇ…疲れちゃうんだよ」
「ですね。だから他の隊員の為にも、僕らはサボらせて貰いますよ」
「そそ。でも給料は貰えないと困るから。隊長の稼ぎ、少し分けてもらいますよって話」
「あなたのお手柄を、僕らの物だと、報告書に記入するだけでいいんですよ」
「そうそう。書いたのはあんたでも、解決したのが俺らってことにしちゃうの。な?そんくらい簡単だろう?」
「それだけで隊の平和が保たれるなら安いものだよね?俺達隊思いの良い隊員でしょう?」
 ケタケタと、代わる代わる話していた三人の隊員が笑う。それでも、室内から反論の声は上がらなかった。
 小太郎は勢いに任せて扉を開き、その音の相乗効果で静まり返った駐屯地に低い声を落とす。
「黙って聞いてりゃあ…」
「小太郎さん…」
 固まっていた隊員のうち一人がそう呟くのを待って、彼は扉を閉めながら激昂した。
「てめえら、いい加減にしやがれ…ふざけやがって…!」
「またお説教ですか?」
「文句があるなら論破してみて下さいよ、小太郎さん」
「別にいいでしょう?その人だってなーんも言わないし」
 それでもまだにやにやと持論を繰り広げる三人を見て、小太郎は震える拳を振り上げる。
「何も言わなきゃ何言っても…ぐぇ…」
 今にも暴れだしそうだった彼の言葉尻は不意に途切れ、本人もドサリと床に伏した。
 驚いた隊員達がそれを認めて顔を上げると、手刀を収めた倫祐と必然的に向き合うことになる。
「…な、なんすか?」
 及び腰になりながらも得意気に笑って見せた彼等に、倫祐は小太郎を肩に担いだ後に小さく呟いた。
「好きにすればいい」
 三人がその言葉の響きを脳内に仕舞い込んでいる間に、彼はその場から姿を消した。

 数分後。

「…!な…ば、おま!離せ!下ろせし!」
 街道の真ん中辺りに当たる裏路地で意識を取り戻した小太郎が、自身の置かれた状況に気付いて慌てふためく。
 倫祐は直ぐに彼を地に下ろすと、これ幸いとばかりにタバコをくわえた。
「ったく……ん?いや、ってか!いきなりなにしやがんだ!おれ様が折角…」
 小太郎が数刻前の出来事について抗議を始めるも、倫祐は既に数歩先を歩いている。煙草に火も付けず、ぼんやりと歩く彼を後ろから追い掛けて、小太郎はぐるぐると頭の中身を回転させた。
「…何処いきやがる」
「報告」
 追い付くなり問うと、倫祐は短く答える。
「…あいつら、どうする気だ?」
 しかし次の問いには返答がなく。
「…着いたら話す、ってか?」
 ため息混じりに聞けば、彼は黙って頷いた。

 更に数分後。

「って訳で、こいつの考えを聞こうと思っておれも来た」
 王座の間から連れ出され、以前と同じ位置に立たされて、小太郎の解説と目的を聞き終えた沢也は、次に倫祐へと目線を流す。
「好きにさせたらいいと思う」
 目が合うなり、彼はそう言った。
 沢也が”倫祐は小太郎を説明役として連れてきたのだ”と邪推していると、その説明役が勝手に話を進め始める。
「…それはつまり、お前の手柄をあいつらに…」
 言葉の途中で首を振られた小太郎は、僅かな間を惜しむようにして倫祐に詰め寄った。
「は?んじゃあ何だ?報告書の偽造には黙ってねえってことか!?んならあいつら、来月はほぼ給料無しに…」
「それくらいしねえと分からないって事だろ」
 沢也の冷めた声が小太郎の勢いを遮る。振り向いた彼は不服そうに眉を歪めた。
「でもよ…」
「そうやって少しでも甘い顔すりゃあ、来月もずるずる同じようなことするだろうな」
 そう言って、沢也は短くため息を付く。それでも躊躇う小太郎は、顔を床に向けては後頭部を掻いた。
「ここに来るまで、大人には充分すぎるくらいの注意はしている。それで分からなきゃ、身を持って分からせる他ねえだろう」
「うぁー…」
「…それも優しさだ」
「……まあ、確かに…今のまんまじゃ、後々困るだろうが…」
 諭しに頷き唸りながらも頭を掻きむしり、イライラを発散させた小太郎が人差し指を倫祐に突きつける。
「…分かった。仕方ねえからお前の考えに付き合ってやるよ」
 果たし状でも受け取ったかのようなその構図に、倫祐と沢也の瞬きが落ちた。
「でもこれでかえって悪くなったって、責任なんて取ってやんねえんだからな!」
 小太郎は微妙な空気にそう吐き捨てると、ぷんすかぷんぷんと一人業務に戻っていく。残った二人は静かに顔を見合わせて、小さく肩を竦め合った。


 翌日の早朝。


 恐らく朝番との交代を終えたばかりであろう小太郎が、沈んだ顔を携えて王座の間を訪れる。向かえ入れた沢也は、椿がまだ起きてこない時刻であることを確認して、その場に小太郎を座らせた。
「この間の話は覚えているな?」
「当たり前だろーが」
「それなら、今度は何だ」
「不甲斐ねーんだよ!」
 沢也の静かな問いに対し、長いテーブルの角隅を叩き付けて声を荒げた小太郎は、続けて誰にともなく愚痴を吐く。
「あいつ等、完全に舐めてやがる。クソッ…なんでこんなに上手くいかねえんだ」
 それを聞いた沢也は話の内容を読んで、深くも浅くもないため息で答えた。小太郎はそれを睨み付けて口を開きかけるが、それより早く沢也が切り出す。
「別に、お前や義希が悪いわけじゃねえよ」
「じゃあ誰だよ?お前か?…蒼か?」
「…強いて言えば、蒼だな」
「…っ!」
 ハッキリとそう言われ、思わず歯を食い縛った小太郎の屈辱に似た感情を観察しながら。沢也はパソコンに向き直り、つらつらと抑揚の無い語りを始めた。
「この国をこの状態に導いたのはあいつだ。そのせいで街が統率され、モンスターに襲われる恐怖からも解放され、平和になり…確実に環境が変化した」
「…いいことじゃねえか」
「まあ、そうだ。だがな、人間ってのは個人ごとに、環境の変化に対応する能力が異なるものだ。すぐに対応できる奴も居りゃ、周りに流されながら順応しようとする奴も居て、何時までも対応できずに反発する奴や、時間はかかっても反発しながら順応に向かうやつも居る」
 うぬ、と。曖昧な相槌を受けて暫しの間を作った沢也の手元が、その瞬間忙しなく動き出す。彼は小太郎が話を飲み込んで顔を上げるのを待ってこう続けた。
「俺やお前は当事者だから、この状況に順応出来て当たり前。何故なら心構えがあったからだ。だけど、街の奴らは違う。勿論、近衛隊のメンバーもだ」
 小太郎はもう一度俯いて長考すると、導き出した答えを沢也にぶつける。
「つまり…なんだ?あの馬鹿どもは国の体制に不満があって…」
「不満とか不満じゃねえとか、そういう具体的なものを持っている奴ばかりじゃねえだろう。そこは個々に異なるだろうが…まぁ、曖昧に言えば…」
 沢也は、そこで仕事の手を休めた。パソコンのディスプレイに視線を向けたまま、彼はハッキリと呟く。
「不安なんだ」
「はぁ?前に比べてこんっっっなに平和になったのに?」
「平和だからこそだ」
 小太郎の裏返った声に頷いて、再び指先を働かせ始めた沢也の声が、滑るように連続して響いた。
「まぁ、それぞれ違いはあるんだろうが。急激に平和になったことで、一時的に混乱するんだ。「本当にこれでいいのか」「また直ぐに平和は壊れるんじゃないのか」そんな感情が街に充満して、その感情が強い場所から犯罪が起き。また伝染していく」
 カタリ。一際大きく鳴ったキーが台詞の間を埋める。
「今は、まだその過程だ」
 沢也が短く言う間にも、納得した表情を見せた小太郎が歯噛みした。
「なら、どうすりゃ…」
「どうも」
「どうもって、お前…!」
「そりゃあ、対策は立てる。解決しようともしている。だがな、それ以上のことは誰にも出来ない。お前にだって分かるだろう?」
 小太郎の苛立ちを宥めるように僅かに口調を強めた沢也は、押し黙った彼を見てため息を付く。
 本当は小太郎も、気付いているのだ。どうしようもないことに。それでもどうにかする術を探している。
「解決には、どうしたって時間が必要だ。焦るくらいなら、今自分に出来ることをやれ」
 沢也は小太郎の気持ちを汲んでそう言うと、コーヒーメーカーに残ったコーヒーを新しいカップに注いだ。
 小太郎は差し出されたそれを受け取りながら、まるで沢也など居ないかのようにか細い声を出す。
「おれに…出来ること…」
 その呟きはコーヒーの表面に付着して、そのまま小太郎の胃の中に収まった。





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