色 優しく賑やかな音が朝を告げていた。 明るくなった室内を見渡してぼんやりと目を擦りながら、自身の置かれた状況を把握する。 いつもと違う、しかし何処か懐かしい天井を見上げた海羽は、小さく伸びをしては肩の力を抜いた。 遠く響くリズムは心地好く、微睡む空気に良く馴染む。 小さなテーブルに山と積まれた紙と本の群れを横目にベットを降りると、丁度そこにノックが響いた。 「ご…ごめんなさい、ちょっと待ってください」 扉に向けてそう告げて、海羽は急いで顔を洗って簡単に身支度する。 二、三分後に顔を出した彼女を待っていたのは、そわそわ顔の宿の女将だ。 「…あ…」 「あ?」 海羽の顔を見るなり呟いて、彼女は背後をチラリと盗み見る。釣られてそちらを振り向く海羽に、後ろに立っていた人物が眼鏡をずらすと同時。女将がすっとんきょうな小声を上げた。 「逢い引きかい?」 こっそりよりも驚きと興味の勝ったその問いに、暫しの固まりを持って瞬きをした海羽がぼやけた声で返答する。 「えと、今日はハンバーグか何かですか?」 「ハンバーグ?どっから出た話だい」 「え?あの、挽き肉のお話じゃ…」 不意打ちのボケに吹き出して、女将は息も絶え絶えに間抜けた顔の海羽に小声で解説し始めた。 「違う違う、合挽きじゃなくて。ふふ…親密な男女がこっそり密会することを、逢い引きって言うのさ」 聞き終えてやはり固まりを間に、息を吸い上げた海羽が困ったように首を振る。 「ち…違います…えと…あのー…」 言葉に詰まって助けを求めた先で、人差し指がくるりと回った。 「仕事ですよ。彼女には他に相手がいますから」 「え!そうなのかい?」 笑いを堪えたような解説に、大袈裟に首を回した女将の叫びでフロントにいた数人が振り返る。眼鏡をきちんとかけ直し、目深に帽子を下げた蒼が頷くと、海羽がわたわたと慌て始めた。みるみるうちに真っ赤に染まる彼女の頬を見て、女将は朗らかな笑みを浮かべる。 「おやまあ。分かりやすいこと」 「お…女将さん…」 「いえいえ、いやあ…そうか…そうなのかい。何だか安心したわ」 ほわほわと何度も頷いては海羽の頭を撫で付けて、女将はニコニコと仕事に戻っていった。 二人はその背中を対照的な表情で見送ると、顔を見合わせて肩を竦める。 「思ったより早かったな?」 扉を押しながら言う海羽に、蒼は申し訳なさそうに首を傾けた。 「暫く外で待ちましょうか?」 「ううん。ちょっと散らかってて悪いなと思っただけだから…」 「そうですか?では遠慮なく」 早々に折れた蒼が扉を支え、海羽は室内に引っ込む。入室した先にある光景は、二年前と変わらぬ形でそこに存在していた。 たったの二年…いや、もう二年も前の事なのかと、心の中で不思議な葛藤を繰り返しながら窓際に進めば、そこに積まれた書類の山が急激に現在を映し出す。 「えと…ごめんな…?」 「いえ、もしかしてずっと…ですか?」 「ううん。昨日はあんまり…村の人達に挨拶したり…久しぶりに診療したりしてて…」 書類と本を整理しながら言い分ける海羽に、蒼は安堵の笑顔を向けた。彼は続けて背中の鞄をベットに乗せて窓を開ける。 穏やかな風に混じって届くコーラスは、夏の眩しい空に昇っては滲むように消えていった。 「逢い引き…かぁ…」 風が過ぎたあと、ポツリと漏れた海羽の声。半端に振り向いた蒼を見て、彼女は慌てて書類や本を取り落とす。 「あ、ごめん…えと…」 「同じことを考えていましたね?」 海羽の動揺に構わず微笑んだ蒼は、散らばった書類を拾うため数歩足を進めた。 屈んだ彼の顔を覗き見るようにして、海羽は床の白を回収しながら控え目に口にする。 「正直…蒼は…その…」 「僕も一緒です。あなたの気持ちが僕に向いていない事を知っていますから。お互いそう言う風に見たことが無いんですよね」 「うん。だからな?あんな風に言われて…ちょっと新鮮な感じがしたんだ」 可笑しそうに言う海羽に、蒼も微笑を小さく頷かせた。 「そうですね。此処に来るまで誰も何も言いませんでしたから」 「多分…相手が蒼じゃなくても同じなんだろうとは思うけどな」 「そうですね。本当に不思議なものです」 普段は意識しないお互いの関係性を見出だしながら、二人はふわりと立ち上がる。手にした紙の束をテーブルの上に重ね、蒼は窓を振り向いた。 「少しだけ散策してきても良いですか?」 「うん。僕は暫く仕事を…」 「あまり長くは居られないと思うので、戻ったら手伝いますね」 「え…でも、折角お休みなのに…」 「大丈夫ですよ。その代わり、夜になったら少し付き合っては頂けませんか?」 「夜?」 「幾つか行きたいところがあるんです。でもいくら夜とは言え、流石にこの姿のままうろうろする訳にはいかないかと思いまして」 頷いてそう答え、肩を竦める蒼に海羽も納得して笑顔を漏らす。 「そうだな。休みの日くらい、変装なしで歩きたいよな?」 鞄を背負い直す蒼の出で立ちを改めて見据え、問い掛けた海羽は頷いて了承した。 「それでは、いってきます」 「いってらっしゃい」 見送られて外に出ると、朝特有の慌ただしさが俄に残っているのが分かる。蒼はきちんと扉を閉めて、帽子の中に全ての髪の毛が収まっている事を確認した。 普段はこんな簡素な変装ではなく、もっとしっかりと仮装するのだが、この場所で、しかも短時間であればそこまで気を張らずとも大丈夫だろうとの判断である。後は無意識のうちにポケットルビーを使ってしまわぬよう気を付けるだけでいい。 蒼は自身に念を押すように、斜め掛けの鞄のベルトを握り締める。ついでに眼鏡を押し上げて鼻の上の違和感を緩和した。 コーラスの村は昔と変わらず炭鉱で生計を立てており、裕福とは言えないが決して貧しくもない。 国中の一部の燃料はマジックアイテムで補う事が出来るようになった今も、石炭は大きな工場や街では欠かせない資源となっているからだ。 かと言って、長年の経験から欲に任せて掘り過ぎる事もなく、上手いことやりくりすることが出来る村なので、国としても安心して任せられる。 …と、無意識に仕事視点で考えながらも、蒼は頭の中に浸透していく穏やかな空気を満喫していた。 町並みを眺めては歩を緩め、軒先で談笑する老人達を眩しそうに盗み見ながら。舗装されていない町外れの森の中を暫く散歩してみたり、炭鉱の入口に置いてあるトロッコを観察したり。傍らに生えている木を見上げては、落ちてくる影の色を確かめたり。 王都とは違い、少し見渡した程度では人の姿も見当たらぬ町中を。昔訪れた時と比べながらゆっくり歩く。それだけで錯覚が押し寄せてきた事に気付いた蒼は、その場で立ち止まり空を仰いだ。 不思議な感覚は胸のうちに。懐かしさをそのまま空へ打ち上げて、彼はくるりと踵を返す。何故なら何時しか止んだ炭鉱の音が、静かに昼休憩を告げていたから。 数分後。 そう時間が経っていないにも関わらず、舞い戻った蒼に瞬きを浴びせた海羽は、彼に促されるまま書類の整理をお願いした。 テーブルや椅子を退かして作った中央のスペースに、時折敷かれる魔法陣の光は大人しく。屈んだり這いつくばったりして模様を確認する海羽の瞳に、僅かに影が落ちる程度だ。 蒼はベットを椅子代わりに、宛先別、用件別に分けた書類に指示通りの処理を施し、また分別してゆく。 昼食を食べた後も、海羽は時に顔を上げては、口の中で独り言を言いながら、各方面の魔術師から送られてきた提案書に意見を書き込んで行った。 新たに開発、提案された魔法陣の効果は様々で、それぞれから製作者の特徴が見てとれる。それは魔法に関する知識に限らず、幅広い教養と技術、更には独創性とアイデアの集大成と言った所か。海羽はその全てを推察し、実験し、実用可能であるかを考慮して、開発元に返事を出さなければならないのだ。もちろん先方は魔術師だけに限らず、新しいマジックアイテムの企画書なども混ざっているのだから、それこそかなりの仕事量になる。 元より安易に認可する訳にはいかない代物だけに、猶予はたっぷりあると言っても良いのだが。如何せん数が多すぎる上に貯めすぎた事が、海羽や沢也の頭を悩ませていた。解決策は幾つかあるが、今のところ現実的ではない。 蒼はそう考えながらも再考のスタンプを書類に押し付けて、俯かせていた顔をあげる。海羽は相変わらず床の紋章とにらめっこを続けていたので、そっと部屋を出てお茶を貰いにフロントへと足を向けた。 その後暫く女将と世間話をし、秀の海羽探しがまだここまで及んでいないことを確認したり、お互いの愛用の茶葉を交換したり、近況を報告しあったりと、何だかんだで三十分後に部屋に戻ると、海羽は丁度次のボツ書類を積み始めた所だった。 二人はその後、短いティータイムを終えてからは魔法陣を敷く間もなく書類と格闘する。見るからに駄目な書類から先に送り返せるように処理してしまおうとの作戦だ。 遅めの夕食を女将と一緒に食べたのが、それから六時間後くらいだろうか? 休憩の後、風呂や歯磨きを終わらせて、海羽は部屋の中央で魔法陣を発動させる。見慣れた、しかし懐かしい光が周囲から二人の姿を隠した。 海羽は眼鏡も帽子もテーブルに置いたまま、跳ねかけた髪を弄る蒼に問う。 「何処まで行くんだ?」 「今日は…あの辺り、ですかね?」 蒼は窓から顔を覗かせて、鉱山の中腹辺りを示した。 「じゃあ、飛んでいくか?」 「いえ、流石にそこまでお手数をおかけするわけにはまいりませんので…技術課から良いものを借りてきました」 小首を傾げる海羽に、蒼は窓枠を飛び越えながらにっこりとルビーを掲げて見せる。 海羽が遅れて危なっかしく宿の裏手に着地すると、それを受け止めた蒼の手元から大きめの物体がするりと飛び出した。 「うわ…凄いな…蒼、運転出来るのか?」 「はい。沢也くんのように自在に、とはいきませんが…普通に移動する程度でしたら」 そう言って蒼が迂回するのは、最新型のミニ自動浮遊車。飛行機と後部座席のない車が合体したような…二人がけのソファーに車の外装をくっつけたような…不思議なデザインの機械である。 製作は沢也がある意味尤も信頼を置いている技術課の職員達によるもので、沢也が製作した浮遊スクーターが元となっているらしい。 「大丈夫…そうですね」 運転席に乗りこんで、同じく隣に座った海羽を振り向いた蒼が確認する。海羽は何処か楽しげに頷くと、きらきらした瞳で内装を見渡した。 「こう言うの、余り乗ったことがないから」 「僕もですよ。たまには良いものですね?」 何となくレトロな感じがするのは、どうやら技術課の趣味と言うよりは昔のもののリサイクル品のようで、蒼が握るハンドルも妙に薄闇によく馴染む。 キーを回して、起動して。サイドブレーキに似たレバーを引くと、機体はふわりと浮き上がった。 「あまり高さは出せませんが…」 「うん、折角だし…のんびり行こう?」 海羽はそう言って、斜め掛けのシートベルトを伸ばしながら風景に視線を流す。機動音が安定して落ち着くと、静かな夜の空気が訪れた。 村を抜けて、高度を上げた機体は森の上を滑るように駆けていく。 目的地を真っ直ぐに見据え、夏らしい生温い風を味わう蒼の耳に控え目な呟きが届いた。 「蒼は…どうするつもりなんだ?」 「どう…と、仰いますと?」 「結婚のこと。この前の人は駄目だったんだろう?」 風の音にも負けてしまいそうな小さな声に、蒼は数秒の間を持って問い返す。 「秀さん…ですか?」 海羽は浅く頷いて情報元を断定すると、俯いた先にある両手に向けて続く質問を落とした。 「あの人は蒼が高望みしてるって言ってたけど…そうじゃないんだろ?」 「いえ。その通りだと思います。仕事が出来て、国の為に身を削る事も出来、自分の事は自分で賄え、且つ僕が気に入る相手…この身分でこの条件では、なかなかに厳しいんですよ」 ハンドルの上でくるりと回った人差し指を横目に、また視線を下へと落とした海羽は独り言のように口にする。 「そうか…だから、有理子は…」 「何か言っていましたか?」 蒼の肩竦めに首を振り、海羽は僅かに顔を上げた。 「ただ、心配そうにしてたから」 「彼女らしいですね。だからこそ、いい加減な選択は避けたいんですが…」 「ああ…そうだな。もし、蒼が幸せになれなかったら…有理子はきっと、悲しむだろうし…凄く…」 何と言ったらいいのだろう。言葉を見つけられずに途切れさせた彼女に、彼は首肯して微笑を強めた。 「だからせめて。僕が納得出来る相手を探さないといけないんです」 「蒼?」 「はい」 海羽にしては鋭い声に、蒼は思わず彼女に向き直る。海羽は目が合った事で怯みながらも、しどろもどろに言葉を続けた。 「それは…蒼が頑張ってどうにかなることじゃ…」 消えてしまいそうな声を受け入れて、蒼は苦笑に似た笑みを浮かべる。 「分かっているつもりなんですけどね。どうにも焦ってしまいます」 「どうして…ゆっくりじゃ、ダメなのか?」 「強いて言うなら…早く安心して欲しいから、ですかね…」 悩みながらも、蒼はそう呟いた。海羽がその横顔を盗み見ると、彼は笑顔を微妙に変化させて小さな溜息を漏らす。 「なんて…綺麗に纏めてみましたけど。実際、振られてまで傍に居ようと決めたのは、僕の方なんです。その僕が、二人の関係を邪魔するようなことだけはしたくない…つまりは僕の自己満足のためなんですよ」 そう言って、蒼は海羽を振り向いた。微笑はそのままに、しかし何処か困ったような口調で、彼は小首を傾げて見せる。 「それに、彼女だけじゃないんです。他にも心配してくれている人は沢山居ますから。そう考えると、ついつい先を急いでしまいます」 海羽が納得しながらも躊躇いがちに頷くと、蒼は僅かに肩を竦めて上を見た。海羽がそちらを振り向くのに合わせて、機体はゆっくりと上昇していく。 崖の急な傾斜に沿って空を走り、目的である中腹辺りまで来ると、不意に視界が暗くなった。 後ろを振り向けば、先と変わらぬ夜空が広がっている。正面に直った海羽が岩の切れ目に入ったのだと気付いた時には、蒼の手がハンドルから離れていた。 彼の人差し指が天を向く。促されるまま見上げると、そこが普通の洞窟とは異なることが直ぐに分かった。 鉱山の合間で息を潜めるようにして存在するその場所は、淡い緑で満たされている。 岩肌の表面を覆うようにして広がるものの正体は、二人の位置から判別することが出来ない。それ程に入り組んだ造りの天井を仰ぐ蒼の口から、不意に解説がもたらされた。 「岩そのものの色なんだそうですよ?」 「そうなのか?」 「昼間、女将さんから聞きました。この辺りでは有名らしいんですけど、場所が場所だけに観光名所には向かないんだと、嘆いていらっしゃいました」 「そうなんだ…宝石とは少し、違うよな…」 「はい。採取したら最後、他の石と同じ色になってしまうんだそうです。磨いても光らない、ただの石に」 「じゃあ、此処でしか見られないんだ?」 「そうみたいです。咲夜さん曰く、岩そのものの力だとか」 曖昧な解説にも頷いて、海羽は上へと視線を戻す。 エメラルドともペリドットとも違う、陽の光を受けた草木の色に似た淡さの集団は、音もなく二人の存在を見下ろしていた。僅かに覗く本物の空から僅かな月明かりが注がれて、薄闇と静寂に包まれた空間は時の流れを忘れさせる。 最後に言葉を切ってからどれくらい後の事か、不意に蒼が呟いた。 「王様と呼ばれる僕も、蒼と呼ばれる僕も。ここにある岩のように、色こそ違えど僕であることに変わりはない筈なんです。それでも不思議なことに、色によって周りからの見方所か、自身からの見方すら変わってしまいます」 長い独り言を耳にして、海羽は黙って首肯する。蒼は続けて天に向かって語りかけた。 「王として、僕として。そして、蒼と言う一人の人間として。妥協するべきなんでしょうか?それとも、時を待つべきなんでしょうか?多分、今の僕はそれを計り兼ねているのかもしれません」 見解に、海羽は答えを出すことが出来ずに口をつぐむ。それでも蒼は笑顔を緩め、薄明かりに滲む色彩を見詰め続けた。 その日、謀らずも夜更かししてしまった二人は、翌日揃って寝坊する。慌ててみても時既に遅く、結局その日は仕事に費やして、早めに就寝することになった。 代わりにその翌日は夕方に出発して、少し遠出する。 到着したのはマオ村に程近い、小さな滝の傍だった。 近くに停められる場所が無かったので、少し離れた場所で車を仕舞い、二人は徒歩で滝まで向かう。 「何もしない時間って、凄く大切なんですね」 森の木々に負けぬようにと大きく伸びをして、蒼が妙に清々しく口にした。 「自分と向き合って、頭の整理をして…考えて…。昔は何気なくそれが出来ていたのでしょう。でも最近は、ないがしろになっていました」 仕事の合間、休憩してはぼんやりと紅茶を啜っていたのはその為かと。海羽は一人頷いて蒼の微笑を盗み見る。 「蒼は、仕事の方は大丈夫なのか?」 「大丈夫、とは言い切れませんが…そうですね。僕はこうして吐き出させて貰っていますから。ある程度は」 振り向いた彼に笑みを返した海羽は、ほっとしたように息を吐いた。オレンジ色だった辺りはすっかり闇に落ちて、長いこと停滞していた熱気も僅かに和らいだように感じられる。蒼は薄い闇の中、すぐ脇を流れる川を横目に溜息のような声を出した。 「それよりも、僕は沢也くんを心配するべきだと思うんですけど…」 「大丈夫。沢也には、沙梨菜が居るから」 海羽が間髪入れずにそう答えると、蒼は驚いたように首を回す。 「そう…思いますか?」 「うん。逆に、沙梨菜には沢也が居るから大丈夫だしな」 彼女の眼にはそう見えているのかと、安心する蒼を他所に海羽は浮かない表情で彼を見上げた。 「だから一番心配なんだ」 呟きに、向けられた眼差しに込められた感情に、蒼は瞬きで答える。その間も消えない微笑が、前方から注がれた光によって浮かび上がった。 振り向いた二人を待っていたのは、激しくも控え目な滝の音と、辺りを染め上げる音もない光の群衆。 最初こそ蛍のそれと間違えたが、近寄る前に違いに気づく。 光は、点滅の度にその色を変えた。緑から、青へ。青から紫へ。紫から白へ。寒色系に纏められたイルミネーションは、マイペースなリズムで何時までも続けられる。 決して眩しくはない、月明かりよりも弱いその光は、小さな滝壺の中から控え目に存在を主張していた。 呆然とその光景を眺めていた海羽が、惹かれるようにして岩の少ないその場所に足を向けようとすると、隣に佇む蒼のポケットからメモが落ちる。海羽は一歩進めた足を引っ込めて、屈んでそれを拾い上げた。 蒼が運転しながら、地図と一緒にメモを見ていた事に気付いていた彼女ではあるが、そこに並んでいる文字までを確認していた訳ではない。 メモを手に固まる海羽に、蒼の微笑が上から注がれる。彼は何も言わぬまま、先に滝壺の傍に向かった。 記されているのは「光る苔の滝」とごくごく簡素な説明文、そして場所を標す緯度と経度。その文字を、海羽はよく知っている。 蒼の計らいを認識し、同時に自身の認識を見抜かれている事までを理解した海羽は、過去に何度も見返した文字から顔を上げた。そして、目の前の景色を目に焼き付ける。 これは、彼が見た景色なんだと。それを認識してしまっただけで、その場所がまた特別なものとなるのだから不思議だと…自分の感覚に違和感を覚えながら。 もう一度、視線を落としてメモを眺めた海羽は、蒼の隣に並んで紙越しに光の色を見た。 そうして呼び起こす。しかし、諦めて直ぐに呟いた。 「もう覚えてないんだ」 「え?」 「倫祐の…声」 書き記されているのは話し言葉ではないのに。いや、だからこそ…だろうか? 「彼…ただでさえ喋りませんからね」 蒼がそう言って頷くと、海羽も頷いてメモを返す。緑の光を透かしていた白は、蒼の手に渡ると同時に青へと変色した。 「忘れないようにしようとすると、忘れちゃうんだな」 海羽はぼやけた水面に向けて囁く。 「忘れようとすると、忘れられないのに…」 その声は、何処か過去をさまよっているように思えた。 翌日も、例に漏れず朝を寝過ごした二人は、やはり諦めて残りの仕事を片付けることになる。 とは言え、そうそう簡単に綺麗になるような量では無いのだが、最終的には持ってきた仕事の半分ほどは、処理を終わらせる事が出来た。 後は沢也や小次郎の見解と合わせてもう一度検討し、門松に託すだけでいい。 まだまだやることは山積みだが、取り敢えず安心したのだろう。日付が変わる前に眠りについた海羽を横目に、蒼は窓の外…雲の上の月を見上げた。何時もより高い場所にある、色違いの月を目に焼き付けるように。 そうしてまた、朝がやってきた。 帰路はセルフサービスだと出発前に言われていた為、村の人に見付からぬよう女将だけに別れを告げ、二人は海羽のバリアの中で車に乗り込む。 比較的涼しい朝の空気の中、大きく伸びをした海羽はぼんやりと虚空を見据えていた。寝起きは何時もこんな調子の彼女の隣、ぼんやりしているのかただ笑っているだけなのか、一見して判別の付かない蒼の手元でメモ帳が揺れる。 女将は、以前と同じく明るい調子で「また来ておくれよ!今度はみんなでね」と、笑顔で送り出してくれた。その余韻に浸りながら白み始めた空を進む二人の空気は、いつも以上に柔らかく感じる。お互いにお互いの色を読み取って、言葉もなく日常に戻る彼等を見送る景色は、朝に紛れてぼやけていた。 帰り道は約六時間ほど。 メモに従って寄り道をした先は、離れ小島に程近く、普通に歩けば程遠い人里離れた場所だ。 正直、森を分け入るのにも山や谷を越えるのにも骨が折れたし、高い所が苦手な蒼にとっては肝が冷えるような場所ではある。 しかしそれでも、来て良かったと思える程に。眼下に広がる景色は、美しかった。 「こうしていると、良くわかりますね」 恐らくは、本土の中で一番高い崖の淵から雲の流れを見据えながら、蒼は呟く。 「今回、改めて実感しました。時々こうして確認しなければいけませんね。分かっているつもりでも、いつのまにか見失ってしまいます」 白の下、青の上。遠く、微かに見える王都の向こう、城のシルエットはまるでケーキの上の蝋燭のように。何時もは広く感じる王座の間も、此処からではどの部分にあるのかさえ分からない。 「目の前にあるものを見るだけで精一杯になってしまう…僕はそれくらい、小さな存在なんです」 自覚を改めて口にして、蒼は横目に海羽を捉えた。彼女は彼の話に深く頷きながらも、その場に犇めく青の全てを吸い込む勢いで景色に見入っている。 「…王座の間から、海が見えますよね?」 「うん」 「僕は最初、そこからいつもその景色を見ていれば、忘れずに居られる筈だと思っていました」 呟きに振り向いた海羽は、揺れる瞳を瞬かせた。蒼は自身を笑うように息を吐き、ゆっくりと話を繋げる。 「だけど、違うんです。いつもそこにあっては駄目なんです。それが日常になってしまっては、何の意味もないんです」 青の瞳に青が映り、白の流れを忠実に映し出す、その色彩を横から眺めていた海羽は、不意に振り向いた蒼の微笑を正面から受け入れた。 「不思議ですよね?雄大な景色に変わりはない筈なんですけど」 瞼に隠れたその景色に、海羽は頷いて笑みを浮かべる。 そして、ふわりと両手を持ち上げた。 彼女の周囲が淡く光り、シャボン玉にも似た光が浮かび上がる。 海羽の魔法の色は、言ってみればとても優しい。彼女の魔力をもってすれば、もっと強い光を放つことも出来るのだろうけど、普段の彼女は決してそれをしなかった。 足元に浮かぶ魔法陣から生まれた光の球体は、表面に様々な色を纏いながら青を泳ぐ。次第に雲に、空へと消えていくそれは、まるで虹の卵のようだった。 「ありがとうな?」 不意に、海羽が囁く。目の前の全てに笑みを向けながら、彼女は数秒後に蒼を振り向いた。 蒼にはすぐに分かった。 彼女のありがとうには、色んな色が含まれているということが。 だから彼は、黙って頷いた。そして手を伸ばす。 青の中で踊る色に。 cp25 [夏休み]← top→ cp27 [平和] |