夏休み


   半分が夜に染まった空に浮かぶのは、独特な響きを持つ蝉の声。対してオレンジに塗り潰された地平線を横目に一息付いた彼の口からは、蝉とは正反対の低いため息が漏れる。
 細めた瞳を書類に向け、その内容全てを視野に収めた沢也の脳内に、紙面に書き込まれている情報全てがするりと収納された。
「ったく…ギリギリんなって厄介な案件増やしてくれやがって…」
 呟きがてら眼鏡を押し上げ、次に机と向き直った彼に、横から穏やかな声が注がれる。
「お疲れ様です。報告書、纏められそうですか?」
「取り敢えずはな」
 分厚い書類の束を送り先ごとに仕分ける蒼に頷いて、沢也は万年筆の先で調書の端を叩いた。
「さっき取り調べにも立ち会ってきた。犯人は近衛隊員を巻き込むつもりでやったと供述している。要約すると、わざわざ諸澄に絡んで追いかけられる事で、より多くの隊員を集めようとしたって事らしい」
「成る程。動機と合わせても筋は通っていますね」
「諸澄は急に殴りかかってきたと証言しているが、大方隠れてで煙草でも吸ってたんだろう。洋食屋の店員の話だと短く言い争う声が聞こえたらしいし。後できっちり問い詰めてペナルティ出しとく」
「怪我の方は大丈夫なんですか?」
「ああ。まあ、死にやしねえだろ」
 蒼は沢也の台詞から諸澄の病状を案じつつも、取り敢えず頷いて見せる。続けて響いたメールの着信音に顔を上げた沢也は、メモ作業を中断して直ぐ様文面を開いた。
「リーダーからだ。ここ数ヵ月分の記録を辿って貰ったんだが、やっぱりあの荷物自体郵便課の方で配達したもんじゃなさそうだな」
「つまり…爆弾を製作した人物が、直接彼の家に届けた…と」
 蒼が宙空に向けて放った言葉に、沢也は頷く代わりに頬杖を付いて返答する。
「仕事から帰ったら玄関前に置いてあったと証言しているからな。まあ、そんな所だろう」
「説明書は出てきたんですか?」
「その説明書とやらに、実行に移す前に説明書と梱包を破棄するよう指示が書かれていたそうだが…まあ、こんな犯行をする奴が、その手のもんに証拠を残すようなヘマはしねえだろうから、深追いするだけ時間の無駄だろう。解体した爆弾からも指紋一つ出なかったって、技術課がぼやいてやがったし」
「確かに、証言通りであればの話ですが…今回は運良く製作側の意図通りに事が進んだようですけど…」
「そう。例えば最悪、爆弾を送り付けられた時点で事件が発覚することだってあるわけだ。にも関わらずこんな手段を選んできたってことは…」
 会話の途中から続いていた紙の上をペンが滑る音が途切れた。沢也が短く作ったその間を追い出すように、蒼がふんわりと結論を口にする。
「この先同じような事件が増える、と言う事ですね」
「ま、そうなるな」
 ため息混じりに肯定した沢也は、ペンの頭でこめかみを掻いてから止めていた手を始動させた。
 蒼は沢也が黙った事で、暫くの間思考に意識を集中させる。そうする間に、オレンジ色だった空がすっかり夜色に塗り替えられた。
「犯人がどうやって今回のターゲットを選んだのかが分かれば…少しは絞り込めそうな気がしますね」
 部屋の電気を灯しながら、蒼がポツリと溢した言葉を拾い上げ。沢也は記述の片手間机の上に複数のカードを滑らせる。
「目星いもんは押収品の中から拾っといた。本人が登録することによって、データベースが作られていそうなもの。病院や歯医者の診察券、図書館の貸出カード、宿屋の宿泊カード。それから…」
 全ての作業を終えた蒼が糊を求めて歩を進めた所に、次々と並べられていく小さな長方形。そのうちの最後の一枚。
「これは…」
 蒼が思わず手に取ったそれの存在意義は、ピンクの可愛らしいフォントが明確にしている。
「どっかの馬鹿のファンクラブの会員証」
 沢也はそっけなく言い捨てると、蒼の手から拐ったそれ共々、押収品の全てを封筒の中に仕舞い込んだ。
 報告書、及び押収品の写真はその後、近衛隊の駐屯地に送られる。暫く貼り出された後ファイリングされるそれを見て、事件の内容を把握した隊員達はそれぞれのやる気を持って犯人逮捕に向けて動き出すのだ。



 話は変わってその翌日。

「揃ったな」
 王座の間に珍しく防音バリアが張られ、ついでにこの暑さの中扉を締め切ってまで行われようとしているのは。
「何が始まるんだ?」
「わー、なになに?定期集会ってやつ?」
「報告会だろ?たまにはこーゆーのもいいわな。くれあの気分転換にもなるし」
「勝手に話を始めては進行を乱すやつは徹底して追い出すからそのつもりで」
 長テーブルに片側四人ずつ腰掛けた仲間達に釘をさし、唯一誕生日席に当たる位置に佇む沢也は不敵な笑みを浮かべて見せた。
 因みに本日水曜日、そして時刻は午前9時。邪魔が入ることなく会議が開ける唯一の時間帯である。
 念には念を入れて、秀がきちんと定例会に出席しているかどうかも、現地にいる夏芽に確認済みだ。加えて隊長全てを招集してしまった近衛隊に関しても、念のためボスに監視を任せてある。
「この先月一くらいで全員召集をかける予定でいる。議題はその都度変わるだろうが…取り敢えず今回は」
 沢也が淡々とした説明を区切ると、短い間が訪れた。彼はそれぞれがそれぞれの調子で待機する様を見渡してから口を開く。
「こっちの事情で、且つ事後報告悪いんだが。今から話すことは決定事項だ。異論は認めん」
 ため息混じりに前置いて、沢也は右隣の蒼に視線を流した。つられて他七人の視線も動く。
 全員の意識が向いたことを認識したのか、微笑を保ったまま紅茶を飲んでいた蒼の人差し指が不意に上を向いた。
「僕を含め。みなさんには明日から交代で夏休みを取ってもらうことになりました」
 平然とそう言って、また紅茶に意識を戻す。そんな彼を見据えて固まる七人のうち、まず小太郎の口からすっとんきょうな声が溢れた。
「はぁ?そんな暇あんのかよ!?」
「但し出産間近なくれあさんと、育児休暇前の小太郎くんは除外します」
「なん…」
「すみません、そこはまたいつか埋め合わせすると言うことで納得してください」
 補足の後の抗議をもサラリと宥められ、仕方なく椅子に座り直した小太郎が話の先を促す。
「で?こんのクッソ忙しい時期に一体何のために…」
「目的は色々だが…そうだな。蒼と海羽は外出時の対応試験的に。俺は仕事がてら、有理子は暫く休みらしい休みがなかったし、完全に休暇ってことになるか」
 空調の効いた涼しい室内で白衣を着込む沢也は、そのポケットに両手を詰め込み僅かに首を傾ける。
「スケジュールは既に組んである。こっちはまず蒼から順番に。近衛隊の方は適当にローテーション組んで休みを合わせりゃいいだろう」
「諸事情で余り長引かせるわけにはいきませんので、こちらとそちらで一人ずつが理想です」
「つまり、近衛隊…若しくは海羽辺りに蒼と一緒に5日ほど休暇を取って貰いたいんだが…」
 蒼の言葉を受けた沢也がズバリを口にすると、義希の手がさっと挙げられた。
「オレは有理子とがいい!」
「それは元よりそのつもりです」
「沙梨菜は沢也ちゃんとっ!」
「却下」
 蒼と沢也にそれぞれ返されて、喜ぶ義希と口を尖らせる沙梨菜を他所に、一番扉側に座る海羽が呟く。
「僕は沢也とは別の方がいいよな?くれあのこともあるし」
「お前は出来るだけ早いに越したことはない」
「てか海羽の場合、今からのが良くね?」
「義希くん、良いところに気付きましたね?」
 蒼がにっこり頷くと、それに合わせて小太郎やくれあが振り向いた。
「休暇が始まったことを知られると、あちらも何かしらの手を打ってくると思うので…」
 肩を竦めての言い分けに、短い唸りが方々から上がる。確かにあの秀が休暇を貰うという海羽を放っておくとは到底思えない。
「じゃあ、僕で決定だな」
「いいのか?」
「うん。でも、本当に行って大丈夫なのか?」
「それは問題ないが」
 余りにも素直に了承され、展開を予測していたとは言え沢也は複雑そうに顔を歪める。そんな彼の事情などお構いなしに間に割り込んだ有理子が、海羽の顔を覗き込んでは心配そうに問い掛けた。
「行き先は?希望とかあるの?」
「えと…特には…」
「それなら、明日僕と合流しましょうか」
 横からの提案に振り向いた二人は、蒼の微笑につられて笑みを浮かべる。海羽がそのまま頷くと、蒼は宙空に視線を流して思案した。
「では…そうですね…」
「見付かりにくいのは、コーラス辺りかな?」
「そこならセンターサークルまで飛行機で送れるし、妥当だな」
「じゃあそう言うことにして…善は急げね」
 海羽と沢也の言葉をくれあがさらっと纏め上げ、有理子を含めた三人はいそいそと部屋に引き上げていく。
 女の荷造りは時間がかかるからと、彼女達を見送った沢也は残ったメンバーに会議の続行を告げた。
 同時に蒼が席を立ち奥に引っ込むと、小太郎が大仰に姿勢を直す。沢也はそれを横目にため息を吐きながら、蒼が戻ってくるのを黙って待った。
 数十秒後、蒼は奥の部屋から蒼…に扮した椿を連れて帰還する。二人が似ていることを知ってはいても、余りにもそっくりなので思わず面食らったメンバーを無視して沢也が簡単に解説した。
「この通り、蒼が居ない間は椿に代わりを勤めて貰う」
「至らない点があるかと思いますが、よろしくお願いしますね」
 そうして彼女がにこりと肩を竦めた事で、二人の違いが確かな物となる。加えて椿は背伸びを解いて、沢也の隣辺りまで歩み寄った。
 近付けばやはり細部は違うし、蒼と面識が浅くとも長いこと話していれば気付く人も居るだろう。
「期間は5日。念のため会議や謁見は最小限に止めてある。隊の方でも蒼に繋がなきゃなんねえような話は、出来るだけ事前に潰すように」
「任しとけ」
「りょーかい」
 小太郎と義希が元気よく、蒼の隣の席に座る倫祐もいつも通り了承を示す。それを受けた沢也は、隣に並んだ同じ背丈の椿から距離を取るように椅子に座り、気だるそうに話を続ける。
「で、次点が俺だ」
「彼が留守の間は、小次郎くんが来てくれる事になっています」
「うげ…まじかよ…」
「以前から視察に来たいと仰ってましたからね」
 ガタリと椅子をならしてまで大袈裟に引いた小太郎に蒼が頷くと同時、予想に反して早々に海羽と有理子、そしてくれあが舞い戻った。
 入室するなり、有理子は沢也に一枚の書類を差し出してサインを求める。ポケットルビー貸出し許可書…普段から城の冷蔵庫代わりのもの以外、ルビーを使わない海羽の鞄代わりと言ったところか。
 沢也は直ぐに認可のサインを施すと、それをそのままデスクの上に放った。
 海羽はそれを認めると、沢也のデスクに歩み寄って二段目の引き出しに魔法陣を呼び起こす。するりと解けた封印は、海羽が一つのルビーを取り出すと共に元の形を取り戻した。
 彼女は引き出しがしっかり閉まったことを念入りに確認してから、パタパタと魔導課に走っていく。
「休暇…だよな?」
「休む気ない感じ?」
「仕事が進めば気は休まるだろ」
「あの子、こう言うところは言っても聞かないから…」
「なかなかに頑固なのよね」
 などと、それぞれが勝手なことを並べる間に戻ってきた海羽は、キョロキョロと忘れ物の有無を確認して仲間達と向き直った。
「じゃあ、ちょっと行ってくるな?」
 そう言って、手ぶらに近い彼女が取り出したのはいつもの水晶玉。小さかったそれはあっと言う間に光を集めて海羽の顔より大きくなる。
「ドジってあれに見付かるなよ?」
「海に落ちたりしないでよね?」
「うん、大丈夫…。沢也、くれあのこと、頼むな?」
 小太郎とくれあに頷いて、沢也が頷いたのを認識した海羽は、浮かせた水晶に座ると同時にみんなの顔を見渡した。
 そうして最後にふわりと微笑み、近場の窓から空に向けて飛び立って行く。
 義希と沙梨菜が窓枠から顔を出しては並んで手を振り見送ると、遠く小さな掌が控え目にはためいた。


 その後適当に情報交換を終えて解散した後。
 蒼と沢也はいつも通り訪れた秀に「海羽が出張で暫く留守にする」と手短に説明する。
 反応などはいつも通り過ぎて特筆することも無いのだが、強いて言えば彼が海羽を捜索する間は城の方も平和になることは確かだろう、と言った所か。
 とにかく秀の部下やら雇われた人間やらが国中を右往左往したりだとか、秀の親やその周辺から抗議が飛んでくるのは想定内なので良しとして。
 問題は、彼女の留守中に置ける妖精達の処遇。
 普段は海羽と妖精達が作った魔法によって守られている箱庭を、海羽が何らかの事情で不在に陥った時にどうやって守りきるか。
 今回の休暇は、その対策案の実験も一つの目的だ。
 色々と策はあるにはあるのだが、先方が動きを見せるまではゆっくりと通常業務を片付けようと言う腹である。
 とにもかくにも計画の始動に一安心した蒼は、久々に早めに就寝し。次の日の朝早く、まだ日が昇りきる前に城を発った。

 沢也が蒼の送迎から戻るまでの留守番を任されていた倫祐は、沢也が散らかした書類と書庫を整理する事で暇を潰したらしい。有理子が起きてくるや否や固まったくらいには、王座の間は綺麗さを取り戻していた。
 そもそも昔に比べればそこまで酷い有り様でも無かったことを記憶の片隅に思い出しつつ、有理子は沢也のデスク脇にある窓に腰掛け煙草を吹かす倫祐に問い掛ける。
「朝ごはん、食べてくの?」
 その声に、彼はゆっくりと振り向き頷いた。有理子は同じように頷くと、厨房に向かい三人分の朝食を運んでくる。
 珍しく此処で食べるのかと思えば、食事を作ったのは海羽ではなく。複雑な気分になりながら斜め向かいの倫祐を観察する有理子の隣で、いつも通り眠そうながらに幸せそうな義希が賑やかに捲し立てた。
「沢也は何時帰ってくるん?ってか帰ってくるまでいなきゃいけないん?ってか何時からいるんだ?その分早く上がるん?」
「そうだな。何もなければそうしてやれ」
「おっけ、分かったー…って!沢也!お帰りっ!」
 最後の質問への回答に普通に了解しては、ノリツッコミの要領で挨拶をする義希に苦笑して、沢也はテーブルの上からコーヒーポットを拐う。
「早かったわね?ご飯食べるで…」
「いや、少し寝る」
「そう。じゃあ沙梨菜が起きてきたら一緒に食べられるようにしとくから」
「じゃあ倫祐、仕事行こうぜ?」
 二人のやり取りを横目に義希が急かすと、倫祐は首を振って沢也を見上げた。
「起きるまで居てくれるのね?」
 代わりに有理子が訊ねれば、彼は頷いて書庫を示す。恐らく片付けが半端な状態なのだろう。
「そか。じゃ、先いってるから。時間あえば昼一緒に食おうな?」
 義希は早々に納得すると、食器を持って颯爽と廊下に出ていった。
 倫祐はその後、蒼に扮した椿と入れ違いで書庫へと籠り、沢也が起きるまで小一時間程片付けを続けたようだ。
 有理子が沢也と入れ違いに自室に戻り、後に書庫を訪れた際には既に倫祐の姿はなく。代わりにしっかりと本棚に収まった書類達が、綺麗な空気の中、僅かに残った煙草の匂いを吸い込んでいた。

 そうして有理子が小さく息を漏らしては、必要な資料を探し始めた頃。

 本日整理整頓の日とでも決めたのだろうか。今度は駐屯地に籠城し、別の意味で散らかり放題の室内を片っ端から片付ける倫祐の姿があった。
 その様子を部屋の隅から眺めているのは、山と積まれた事務仕事を消化する圓だ。彼は普段余り見掛けることのない本隊長の仕事ぶりを盗み見るようにして、チラチラと視線を泳がせる。
 いつもは遅番の倫祐がこうして早番にうろうろしているのも、新しい制度のせいだと隊員の間では専らの噂なのだが…圓としては正直どうにもしっくりこない。
 倫祐ならば早々に事件を解決して、あっと言う間に働かなくても構わぬくらいのポイントを稼げる筈なのだから。皆の予想通りなら、折角事件の多い時間帯に移ってきてまで、こうして事務所の掃除なんかする必要はないだろう…と、彼は考えている。
 圓の考察は勿論当たっていて、元より第二近衛隊の隊長である小太郎は深夜勤務が基本なのだが、くれあとの兼ね合いもあって暫くは倫祐と勤務時間を交代していただけなのである。
 そんなわけで先日早番に戻ってきた倫祐は、ボスとの仕事も一区切り付いたようで、戻ったその日から通常業務に励んでいるというわけだ。
 ボスが言うには防風林の植え替え作業が粗方済んで、島の東側…つまりは城の側の一部の崖が簡単な松林になったとか。丁度工業地帯との境目に当たる場所で、見通しの問題もあって林とまでは言えないもののなかなかの出来だと、民衆課の問題に首を突っ込んでまで指揮を取ったボスは満足そうに語ったのだった。
 そもそもボスは司法課の長だと言うのに、興味さえあれば何処にでも首を突っ込んでしまうのだから恐れ入る。それほど仕事熱心な…そして皆から恐れられながらも敬われている彼女が、殆ど認めたと言っても良い人物を前に。圓は思わず畏縮して身を縮めた。彼は俯いた先で書類と向き合い、仕事に集中しようとしてふと思い出す。
 ボスや、恐らく二人の隊長も認める本隊長が、先日の爆弾事件の時…義希と同じように少しでも自分を信じてくれたのではないかと。
 思い上がりかもしれない。単に、義希の判断を信じただけかもしれない。しかし不思議なことに、圓は例えどんなものでも構わないから、彼の口から答えを聞いてみたくなった。
「あの…」
 勢いに任せて声を出す。顔を上げた先で、振り向いた倫祐のぼやけた眼差しが僅かに傾いた。その手に握られているゴミの山が収まった袋を目にして、圓は遠慮を前に出す。
「……いえ、なんでも…」
 佇む倫祐の周囲をぐるりと取り囲む量のゴミは、圓が言葉を濁すと同時にポケットルビーに収納された。部屋の半分がこざっぱりした状態を確認し、彼は小さな洗面台で手を洗う。
 圓が無意識にその仕草を眺めていると、水を止めた倫祐が手を拭きながら圓の座る奥のデスク近くまで歩いてきた。
 焦った圓がしどろもどろに口を開こうとすると、彼は先ほどゴミを閉まったものとは別のルビーから何かを取り出して、デスクの上にそっと乗せる。そうして圓が瞬きをする間に、音もなく部屋を後にした。
 残された圓は暫くの間固まっていたが、ハッとして視線を落とす。
 そこには一口大の薄皮まんじゅうが詰まった箱が、蓋半分ずらされた状態で置かれていた。
「倫祐ー!昼行こうぜ?…って、いないし!」
 突然の入室に驚いた圓が肩を跳ねさせるのを他所に、義希は一人で誰にともなくツッコミを入れる。そのまま何かに惹かれるようにズカズカとデスクに近付いた彼は、当たり前のように見付けたまんじゅうを口に運んだ。
 止める間もなかった圓は、呆然と義希の胃のなかに収まるまんじゅうの行く末を見守る。
「なにこれ差し入れ?うまーい」
「あの…さっきあの人…いえ、本隊長が…」
「ああ、なふほろ…んならうまひわけひゃ」
 短い会話の合間にも口内をまんじゅうで満たす義希を前に、言葉の内容よりも先に圓の口から別の疑問が飛び出した。
「これからお昼なのに…そんなに食べて大丈夫なんですか?」
「ふぇーきふぇーき、こんなん食べたうちに入んないって」
 途中、ゴクリと擬音を挟みながら顔の前で手を振って、一息付いた義希は逆の手で白いふわふわを弄ぶ。
「倫祐、買い物苦手な筈なんに…知らんうちに旨いもん見付けてくるんだよなぁ」
「そうなんですか?」
「元々舌が肥えてるんかなぁ?あいつが分けてくれるもんはどれも旨いんだわ」
「へえー…」
 笑顔で話す義希に、圓は意外そうに感嘆を漏らした。手にした白を二つに割ると、中から綺麗なこし餡が顔を覗かせる。
「でもな、たまに分けてくれないことがあるんだ」
「…飛びっきり美味しいものとか、ですか?」
 可笑しそうに問う圓に、義希は首を横に振った。
「一回だけ、無理言って貰ったことがあるんだけど…食ってみたらめっちゃ不味かった」
 続けて分断したまんじゅうを瞬殺すると、朗らかな笑顔を浮かべる。
 何処か困ったようなそれを前に圓が固まっていると、追加のまんじゅうも飲み込んだ義希がずずいと顔を覗き込んだ。
「そーいや、圓も食べ物には煩いよなぁ?」
「はい、実はそれなりに」
「そんならぜひぜひ、おすすめしとく」
 そう言いながらも順調に箱の中身を減らしていく彼の様子を見て、圓は思わず笑顔を見せる。
「隊長…」
「ん?」
 もきゅもきゅと頬を動かし振り向いた義希に、圓は微笑みを保ったまま静かに打ち明けた。
「…僕…この間まで民衆課に移ろうかと、思ってたんです。みんなに迷惑ばかりかけて、何も出来ないならいっそ…と」
 義希は口の中のものを飲み込んで、真面目な顔を頷かせる。
「でも、この前の、爆弾の事件の時に…隊長や、あの人は、僕を頼りにしてくれました」
 言いながら俯いた圓は、掌を見据えて掠れた声で続けた。
「お二人とも出来ないことは出来ないと、きちんと認めて…しっかり立っている」
 二人きりの静かな駐屯地には、街の喧騒が僅かに漂ってくる。
 圓は不意に顔を上げると、瞬く義希に嬉しそうな笑顔を向けた。
「だから、僕も…まずは自分の出来る事で…自分の得意なことで、みんなの役に立てたらなって」
「うん」
「それに…民衆課に移ってしまったら、きっとあんな経験は出来ないでしょうから」
 つられてはにかんだ義希に肩を竦めて、再び手元に視線を戻し。圓はしみじみと口にする。
「事件を解決出来た時の達成感は、書類を片付け終えた時の何倍も…」
「うん、うん。分かるよ」
 詰まった言葉を聞かぬまま、義希は何度も頷いて同意した。そんな彼の仕草を見て安心したように息を吐いた圓は、また笑顔を持ち上げて小さく傾ける。
「だから、隊長…ありがとうございます」
「それはオレじゃなくて…」
「はい。分かってます。でも、隊長にも…ありがとうございます」
 そうして深く下げられた圓の頭。義希はそれをぽんと撫でて短く訊ねた。
「圓、飯は?」
「いえ。僕はまだ、仕事がありますから」
 そう答えて書類を持ち上げた彼に、義希は肩を竦めて応える。
「そか。何か困ったことあったら、いつでも言えよ?」
「はい。ありがとうございます」
 圓の言葉尻を待って頷いて、義希はひらりと手を翻し、パタパタと外に飛び出していった。
 一人残された圓は、ため息に似た安堵を室内に吐き出して、次に白い丸の集団を見据える。
 正方形に区切られた箱の中に整然と並べられたそれは、義希のお陰で半分ほどしか残っていなかったけれど。
「…ほんとだ。おいしい…」
 手に取った一つを口にして思わず呟いた圓は、誰もいないのを確認しては照れ臭そうに微笑んだ。






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