file4”E区画住宅街”


 そろそろと皿の端に避けられた緑の野菜たち。切り分けられる間も無く口の中へと放り込まれたベーコンエッグ。
 あつあつふわふわの丸いパンにたっぷりとバターを染み込ませ、もっふもっふと頬張れば幸せもひとしおだ。
 飲み込んでは感嘆を漏らし、にこにこと朝日を振り向くのは起きて間もないながらも、きちんと身支度を済ませた義希である。
 長テーブルの中央を陣取る彼が、苦手な朝にもご機嫌な理由はただ一つ。
 あと数日で8月がやってくるから。
 沙梨菜の時にはサプライズがあったんだから。きっとオレの誕生日にも何かしらあるはずだと。
 そわそわウフフと心の声を表情へと変換する義希を他所に、静かな朝食はまったりと進んで行く。
 テーブルには他に、フォークで目玉焼きを突き刺したまま新聞を読み漁る沢也と、うとうとしながらも必死に紅茶を啜りながら、スケジュールを確認する蒼の姿がある。
 有理子は先程朝食を済ませ、足早に民衆課へと向かって行った。まったりながらも慌ただしい朝の空気は、義希がコーンスープを飲み干す間にも流れて行く。
 それを証拠にあっと言う間に5社分の新聞を読み終えた沢也がパソコンを引き寄せ、むにむにと自分の頬を引っ張る蒼に話を振った。
「少し寝て来いよ」
「いえ、これを終わらせるまでは寝られません」
 背後に積まれに積まれた認可待ちの書類を横目に、蒼は大きく伸びをする。どうやら二人は仮眠すら取らずに仕事をしていたらしく、爽やかな朝日をも憎たらしげに細めた瞳で見据える始末だ。
「無理すんなよ。こっからまだ一週間続くんだぞ?」
「だからこそ疲れがたまらぬうちに頑張ってしまおうと言う腹です」
「そりゃ一理あるが…」
「あなたの方こそ無理はしないでくださいよ?僕より仕事が詰まっているんですから」
「ちょ…ちょーっと待て?」
 ぼやぼやな会話に割って入った義希を、眼鏡越しに見据えた沢也が棒読みに応答する。
「何だ」
「一週間って…?」
「徹夜するであろう期間」
「え。てことは昼間は勿論…」
「休みなしだな」
「あーえーと、そのー…何かお忘れでは…?」
 ぎこちなく変化した笑顔から顔を逸らし、パソコンに向き直る沢也の表情に目立った動きはない。
「何の話だ」
「まーたまたぁ…記憶力抜群の沢也さーん、そんなまさかオレの口から言わせるような事はない…よな?」
「で、とにかくまずは…」
「わー!流すな!流すなってば!ほら!大事なイベントあるじゃん、8月頭と言えば!」
 面倒臭そうにするでもなくスルーせんとする沢也と蒼の間に身を乗り出した義希は、振り向いた二人の疲れきった眼差しを数秒見詰めた。そして。
「…オレの誕生日は…?」
 半ば涙目で自らを指差し問い掛ける。
「そんな暇ねえ」
「なんですとぉおぉおおお?!」
 無情にも程がある即答が雄叫びと涙の洪水を呼んだ。お陰で朝にしかない穏やかで静かな空気はぶち壊しである。
「蒼ー!なんでなんでなんでー?なんでオレだけー!?」
「義希くんすみません、詳細は今度の水曜日に…」
「それってもう過ぎてるじゃん誕生日ぃいぃいい」
「埋め合わせはきちんとしますから泣かないでください。それよりも時間は大丈夫ですか?」
「ぎゃー!大丈夫じゃない!いってきます!もぐぐー」
 お約束は今日も健在。
 体よく追い出された義希は、城を出るまでに涙を仕舞ってなんとか仕事モードに切り替えた。
 慌ただしさは外にまで響いていたようで、門を潜るなり門番の二人に温い眼差しを注がれたが、彼は気にせず先を急ぐ。何故ならあと十数分で出勤時間だから。
 今日は朝番の中でも一番遅い時間帯での出勤なため、これで遅刻したとあっては周りからぐちぐち言われるのは必至であり、更には隊長としての威厳とやらも危うくなってしまう。
 この時間帯は多少なりと道が混雑するため、急いでも多分ギリギリだ。
 義希はそんな適当な計算をしながら、人を轢かぬよう駆け足を早めるが。
「あー…まーたあいつらかぁ…」
 その足は、街に入ってすぐのところで止めざるを得なくなる。
 冤罪事件の後、パトロールをサボったと言う隊員を呼び出し厳重注意はしたものの。そう簡単に改心して真面目に勤務するわけもなく。
 そもそもそう言ったやる気の無さを持っているのはその隊員だけに限った事ではなく、殆どの隊員が仕事に対してまともに向き合っていない現状。
 日替わりで隊長とペアを組ませるだとか、意識改革のためのスローガンだとか、中途半端でその場限りの対策では根本的な解決にはならない…と言うのが沢也の見解である。
 なので取り敢えず「見掛けたら注意する」事だけを命令されていた義希は、雑貨屋近くで和気藹々と雑談を繰り広げる隊員達に歩み寄っていった。


 街は確かに平和である。
 しかしながら見えない部分に潜んでいる闇は、唐突に顔を出しては平和を壊そうとするものだ。
 不正マジックアイテムの制作者が逮捕された事で、隊員達の気の緩みはMAXらしい。歩く度にすれ違う彼等は誰もが緩やかな笑みを浮かべている。
「ったくどいつもこいつも…!」
 対して苛立ちMAXと言った勢いで街の西側を練り歩くのは、朝一で出勤してはとうの昔にパトロールに繰り出した小太郎だ。
 彼は道行く隊員達のだらけた態度だけでなく、出勤したら連絡しろと命令してあった人物が、いつまでたっても音沙汰なしなせいでこめかみに青筋を浮かべているのである。
 工業地帯のある北側に近い、街の中央を占領する商業地帯の外れにある八百屋の前を通り、振り向き気味に上方の様子を確認するも、そこからは目的の建物がよく見えず。諦めて路地に入り、入り口付近を横目に確認した彼は、異常がない事を認識すると同時に溜め息を漏らした。
 そうして五分ほどかけて路地をぐるりと廻った小太郎が、大通りの中でも防風壁に程近い位置まで来たとき。見計らったかのように携帯が振動する。
 彼はジャケットからそれを探しあてて耳に当てると、遅れて手探りに通話ボタンを押した。
「おう、今報告入れようと思ってたとこだ」
 繋がるなりそう言い分けて、小太郎は空元気に報告を始める。
 まずは現在地を、続けて不正マジックアイテム横流しの本拠地の様子を話し終えると、電話の相手である蒼が短く問い掛けた。
「第8倉庫の様子はどうですか?」
 持ち主は恐らく間接的に、実行犯からレンタルの依頼でも受けていたのだろう。先日、建物が不要になったと言うことで、第8倉庫が売りに出された。立地条件は悪いものの、季節柄直ぐに買い手が付いて、今日から倉庫として本来の役目を果たす事になっている。しかしながら事件の事を公にしていない後ろめたさから、蒼は事情を説明済みの小太郎と義希に見回りを頼んでいたというわけだ。
 そんな訳で小太郎は、朝も早よからアジトに来る前に見て来た様子をそのまま話して聞かせる。
「心配ねえよ。朝から搬入に忙しそうだが、それ以外は別に。平和って感じだったぜ?」
「そうですか。良かったです。念のためもう暫く様子を見ておいて下さい」
「りょーかい。…ああ、ついでに聞いとくがよ、そっちに義希いねえか?まだ寝てたらぶっ殺すぞ」
 舌打ち混じりに問う小太郎の耳に、蒼のクスクス笑いと何処からか鳴り響く携帯の着信音が届いた。
「先程慌てて出勤しましたが…まだ着いていませんか?」
 穏やかな蒼の返答を聞いて、怒りもそこそこに収まった小太郎は、溜め息を吐き出しては話をまとめにかかる。何故なら電話の向こうが騒がしくなり始めたから。
「先程って…あーまー…いいや。自分で見に行く」
「あ、待ってください小太郎くん」
 気をきかせたつもりが呼び止められて、小太郎は耳に携帯をあて直す。
「…なんだ?」
 そうして用件を聞き終えた彼は、通話を切ると同時に勢いよく駆け出した。


 時は遡って十分前。


「また一人かい?君は」
 とある洋食屋の軒先、瞬きも忘れて見下ろす定一に。
「すみません…僕では抑制出来なくて…」
 申し訳なさそうに俯く圓が力なく答える。
 朝のパトロールはいつも通り、決められたペアで出発した筈だ。勿論彼とは前科のある隊員ではなく、別の隊員をあてがった筈なのだが。
「いっさんのサボりぐせがまんえいしたんじゃないすか?」
 定着してしまった一回り以上歳の離れた相方に、悪態を付く帯斗の言葉に圓の身が縮む。
「それは僕のせいにして責任逃れする姿勢と取って構わないかな?」
「冗談ですって!あー怖い怖い…面倒ごと押し付けられそうになった時のいっさんは何よりも怖いです…!」
 背後に黒い渦を漂わせて微笑む定一に言い分けて、帯斗はぶんぶん首と両手を振った。
 定一はそれでなんとか黒さを収めると、欠伸に任せて圓の背を叩く。
「まぁ取り敢えずは僕らと来なよ。また事件に巻き込まれでもしたら…」
 その言葉が終わらぬうちに、隣の路地から悲鳴が上がった。
「ちょ…!」
「え…」
「あーらら…」
 甲高いそれに驚いた三人が足を向けると、ゴミを抱える女性の背景に近衛隊のジャケットと腕章が見える。
「諸澄くん…!」
 圓が呼び掛けるも、諸澄はうめき声を上げるだけで返事をしない。地に伏した彼の頬は腫れ上がり、口元には血が滲んでいた。
「喧嘩です!あの人が…彼を殴って…!」
 洋食屋の店員であろう女性が諸澄の奥を指し示す。同時に人影が路地の向こう側へと抜けていった。
「こら!お前…待て!」
 慌てて帯斗が追い掛ける。その間に他の班も現場に集まりつつあるようだ。
「よりによってこんなに早くから喧嘩することないだろうに」
「隊員は後回し!こっち優先!」
「で…でも…!」
「サボって難癖つけられたんだろ?自業自得!少しは痛い思いして反省しろって話すよ!」
 愚痴を溢した定一は、帯斗の指示通り諸澄に駆け寄った圓を引っ張って走り出す。
「あの…早く手当てしないと…」
「ただ殴っただけにしては酷い怪我だったからねぇ」
「はい、ですから…」
「諸澄は大丈夫。他の班が回収するさね。それよりも、これ以上被害を広げない方が大事」
 諭されて、押し黙った圓は曲がり角を折れると共に俯いた。その横顔に、困ったような定一の苦笑が問い掛ける。
「まだ気にしてるのかぃ?」
「…いえ…」
 圓は大きく首を振って否定すると、真っ直ぐに前を見据えて短く思案した。
「…また、強化剤でしょうか?」
「そうだろうねぇ」
「いっさん!」
 定一が答えると共に、前から帯斗の声が飛んでくる。数メートル前を走る彼の更に前、アパートの外階段を上る男の姿が二人の目に入った。
 定一は圓の背を押して前に出すと、自分は建物の窓の位置を確認に向かう。帯斗は速度を緩めて圓と並び、揃って男の追跡を続けた。
 この辺りは幸い、商店で働く人々が集う住宅街で、この時間帯になれば在宅人数も人通りも少ない。二人が階段を上る間にも、下の定一がてきぱきと予防線を引き始めていた。
 帯斗は圓の前に立ち、男の背中を追い掛ける。その背中は二階の最奥の部屋にするりと吸い込まれていった。
「させるかっ!」
 扉が閉まる手前、L字型のドアノブに帯斗の手が届く。遅れて到達した圓がドアを支えたことで、二人は顔を見合わせた。お互いの首が素早く頷くのを待って、武器を手に侵入する。廊下は暗く、部屋へと続く入り口も闇に包まれた状態だ。
 と。
 ゴトリと鈍い音が落ちた。それは廊下一体をあっと言う間に鈍い色の煙で満たしていく。
 帯斗は咄嗟に飛び退いて、口と鼻を塞ぎながら外に転げ出た。げほげほと呼吸を乱しながら煙から逃げる彼を、下を他の班に託した定一が支える。
「帯斗くん、圓くんは?」
 普段はのんびり口調の定一が、珍しく早口に聞いた。帯斗はそこで初めて目を開け振り向き、圓の姿が見えない事を認識する。
「…まさか…」
 未だ、室内から溢れ出す煙は収まっていない。ただでさえ走った後だ。呼吸が辛い状態で、これだけの時間息を止めていられる筈もない。
 ましてや圓は運動が苦手なのに…。帯斗がそこまで考えを巡らせ、顔を青くしたのも束の間。
 煙の中から黒い影が姿を現す。
 それはガスマスクを身に付けた男。その腕には。
「こいつぶっ殺されたくなけりゃあ、今すぐ車持ってこい!」
 気絶した圓と、立派な出刃包丁。
「…分かった!上に掛け合ってみる。だから落ち着け!」
「早くしろ!お前らはそこから下がれ!交渉は窓から聞く!五分以内に答えを出せ!」
 犯人は帯斗の呼び掛けに怒号で答える。たじろいだ二人が考える間も無く、男は圓の首筋に刃物を当てた。
「早くしろ!殺っちまうぞ!」
 脅された二人はそろそろと後退する。男は二人の姿が階下に消えるのを確認し、室内に入って施錠した。
「…どうします?」
 階段の中腹に座り込み、帯斗は定一に問い掛ける。すると彼も同じように隣に座り、懐から携帯を取り出した。
「困った時は参謀に頼るが勝ちってね」
 呟き、電話帳を検索する定一の横から帯斗が慌てた声を出す。
「ぅえ!?で、でも…この間の今日すよ?」
「人命優先は基本中の基本だよ」
「いやー、でもその前に隊長に…」
「この手の事件に彼等は不向きだと思うなぁ」
 帯斗の制止を全て切り捨てて、定一は有無を言わさず電話をかけた。
 通話は直ぐに繋がったようで、定一はさらさらと状況を説明してゆく。それは僅か一分で終了し、彼は通話が切れると同時に腰を上げた。
「強力な助っ人を寄越してくれるそうだ」
「強力?」
「何が飛び出すか…楽しみにしとこうじゃあないか」
 欠伸混じりに言いながら、何処か楽しげに階段を降り行く定一は、その後沢也の出した指示を直ぐに片付け犯人に返答を出す。
 因みに沢也の指示はこうだ。
 探知機を使用して不正な電波が飛んでいないことを確認すること。
 部屋の周囲に監視カメラの類い、及びその配線が無いか確認すること。
 その他出来る限りの状況確認。
 そして、「10分時間をくれ」と犯人に交渉すること。

 そうして定一が難なく犯人との交渉を終えた所に、見慣れた金髪が駆けてくる。
「お待たせ!小太郎が見っけたって言ってたから…もうすぐ…」
「ああ、来たみたいだねぇ」
 走りよりながら報告する義希に同意して、斜めに視線を流した定一に合わせて帯斗の首も回った。
 義希もつられて振り向けば、そこには確かに路地から抜け出た小太郎の姿が。
「寝てたの叩き起こして来た」
 そう言う彼が引っ張って来たのは、いつも以上にぼやけた顔の倫祐だった。
「助っ人…?」
 あからさまに顔を歪めた帯斗が、ふわふわと笑いながら欠伸する定一を振り向き抗議する。
「滅茶苦茶身内じゃないすか」
「身内でも助っ人は助っ人だろうに」
「最初から知ってましたね?いっさん」
 帯斗の推察に、彼はすぐに頷いて答えた。沢也が電話を切る間近に、そんな面倒ごとに時間とられたくねえから速攻で片を付けてやる。と言った事を思い出しながら。
「んじゃいっさん、悪いけど状況説明よろ」
 そんな二人の空気も何処吹く風。恐らく詳しい事情は後回しに集合したであろう隊長達に、定一は簡潔な説明を始めた。
「えー…詳しい事情は抜きにして。犯人はガスで気絶した圓隊員を人質に、自宅に立て籠り車を要求している」
「恐らくは強化剤を使用したものと思われます。中には圓さん含めて二人だけだと思うす」
 帯斗の補足が終わると、タイミング良く牛の鳴き声が。そんな気の抜ける着信音を採用している人物が義希の他に居るわけもなく、彼だけが携帯を取り出し届いたメールを確認した。
「沢也からだ。お、こりゃ…間取り図だな」
 そう言って彼は全員に見えるようにメールを提示する。
 数秒後、それぞれが図面を脳内に収めると、義希と小太郎の視線が倫祐に流れた。自然と集まった四つの瞬きに瞬きを返し、彼は義希を振り向く。その手は控え目に階段を指し示していた。
「おっけ。小太郎は?」
 指示を読み解いて頷いた義希に瞬きを浴びせ、帯斗と定一は呼ばれた当人に顔を回す。すると待ち受けていたような小太郎の眼差しが、じっとりと二人にはり付いた。
「おれ様は是非とも原因の方を追求してえなぁ」
「それは面倒だから、帯斗くんに聞いておくれよ」
「ぅえ!?う…いいすけど…此処は大丈夫なんすか?」
「へーきへーき。離れるなら離れるではよ連れてけ」
「んじゃ隊長…」
「りょーかい。じゃあいっさん、この辺お願いー」
「あいさー」
 後は流れるままに会話を流し、それぞれが役割に向かう。
「さぁて、お手並み拝見といきますかねぇ…」
 体よく残った定一が欠伸混じりに独り言を呟く側から、辺りが俄に騒がしさを増していた。



 耳に付く音が弾けるように火花を散らす。
 暗闇は疎らにちらつく光に侵食されて。
 次第に音の正体が理解できた彼は、無意識のうちに目を開く。そうしてやはり、無意識に口にした。
「此処は…」
 見慣れぬ景色。朧気な記憶。自身の置かれた状況を把握したのは、皮肉にも男の声を耳にした瞬間だ。
「大人しくしろ!」
 頬に当てられた包丁がやけに冷たく、あっと言う間に身体中を冷やしていく。
 ああ、また失敗してしまったのか…と。
 恐怖よりも先に後悔に苛まれた圓は、項垂れる事も出来ずに唇を噛み締めた。
 男は圓が抵抗しないことを確認すると、包丁を下ろして横を向く。指先が叩くノートパソコンのキーが、控え目な音を奏でていった。
 圓は、画面を流れていく沢山の文字列を認識し、思わず声を漏らす。
「これは…」
「爆弾だ」
「爆弾…!?」
「安心しな。仲間も一緒にぶっ飛ばしてやるからよ」
 最後の一文字を強く発音すると同時に、男はパチリとエンターキーを叩いた。直ぐに画面に表示されたのは、デジタル式の時計だ。
 薄暗い室内に浮かび上がる赤い光。示された残り時間が正確に時を刻む。
 間取りは恐らく2k、二人が居る窓のある部屋の他にもう一部屋…玄関から入ってすぐの所にある筈だ。
 煙の中に見たものが、勝手に脳内再生されて行く。それが意味のあることかどうかも分からずに、圓はそのまま思考を回転させた。
 窓は腰より上。外側に足場や手摺のようなものはなく、ロープや梯子も用意されていない。隣の建物に飛び移れそうな場所はないし、だからと言って飛び降りて大丈夫かどうかは…現状下方を確認しようがないので分からない。
 爆弾の方も残り時間が二十分を切っていると言う事以外に見えるものはなく。片腕に絞められた首を動かそう物なら、逆の手に握られた刃物がこちらに向きそうで、それ以上のことを認識するのは難しそうだ。
 圓がそう思った時、男が窓に近寄ってそれを開く。ガラリと大きな音の後、彼は下に向けて叫びを上げた。
「こら!車はまだ来んのか!残り一分切っ……」
 男が不自然に言葉を切る。外に向けて振り出した筈の包丁が、男の手から消えていた。
 呆気に取られた男が圓をぎりっと締め付けるや否や、前方に黒い影が現れる。
「なっ…どこか…ら…」
 言葉尻は薄れ行く意識の中から発せられる。何が起きたのか、間近にいた圓の目にはしっかりと見えていた。
 窓の上方から降ってきて直ぐに男の首筋に剣の柄を叩き付け、あっと言う間に気絶させた影の正体は本隊長…倫祐だ。彼はそのままするりと室内に滑り込むと、圓に怪我がないことを確認して近場に座らせる。
「…!あの…」
 男に手錠をかける倫祐に、圓は爆弾の存在を知らせようとしたが、既に気付いていたのだろう。そちらを向いていた倫祐の目は、しかし男を縛り上げると同時にふいっとそっぽを向いてしまう。
 爆弾を解除するには男に方法を聞くのが手っ取り早いが、強化剤を使った男を気絶させずに説得する手立てはなく。寧ろああでもしなければ止めることすら出来なかった。圓はそう考えて、倒れる男から視線を逸らす。すると目を離して一秒程度しか経っていない筈なのに、室内から倫祐の姿が消えていた。
 慌てて立ち上がる彼の耳に、玄関が開く音が飛び込んでくる。続けて明るい義希の声が、倫祐の行動を伝えるように呟いた。
「え?なんかあったん?」
 驚いたようなその声に、圓は前のめりで補足する。
「隊長、ば…爆弾です…!」
「ばくだん!?」
 いよいよ慌てて、しかしそろそろと近寄る義希が時計の数字を目にすると、短い沈黙が訪れた。
 緊張の糸が張り巡らされる中、固唾を飲む音が連なる。
 義希は硬直を解いて唸り、頭をかきながら問い掛ける。
「まじかー。うー…圓…これ、なんとか止められん?」
「え…僕…ですか?」
「オレも倫祐も機械駄目だからさぁ。無理なら沢也に連絡するけど…」
 義希は記憶の中から、隊長として就任した時に見たプロフィールを呼び起こし、横目に圓の様子を窺った。
 彼は、短い思案の後に深く頷き表情を変える。
「やってみます…いえ、やらせてください」
 真剣な眼差しに頷いて、義希は圓の隣に座った。そうして携帯から階下に指示を出す。
「もし、いっさん?ちょっときんきゅーじたい。いちおー周り避難よろー」
 気の抜けるような説明に振り向いた圓が、室内に留まる二人を不思議そうに見上げた。
「隊長達は…」
「ここにいるよ」
 あまりにも楽観的で朗らかな答えに、圓は思わず目を丸くする。それを見た義希はやはり穏やかな笑顔で、当たり前のように言い分けた。
「大丈夫、なんも心配しないでいいから。落ち着いてやれな?」
 ポンと叩かれた背中。伝わる体温は妙に温かく、適度に緊張をほぐしてくれる。そう実感しながら、圓はまた頷いてパソコンと正面から向き合った。
 静まる部屋に規則的な電子音が響く。外から僅かに聞こえてくる喧騒が、避難が開始されたことを知らせていた。
 圓のかける眼鏡のレンズを、パソコンのディスプレイ上に流れる大量の文字列が滑っていく。その内容も意味も理解できない義希と倫祐は、室内を観察しながらその時を待った。
 圓は元々エンジニアの助手として、センターサークルを拠点に働いていたらしく、爆弾にこそ精通していないものの、起動プログラムに関してはかなり詳しいようだ。それを証拠に、キーボードを弾く指先は迷いなく動いている。
「…これを押せば、完了です」
「お」
 エンターキーを指差す圓の言葉に義希の顔が上がった。
「でも…」
 しかし圓は躊躇って言葉を詰まらせる。義希が無言で先を促すと、彼は控え目に呟いた。
「失敗していたら…」
 指先の震えは全身に伝わって、彼の心情を忠実に示している。義希はそんな圓の指先を掴むと、あっけらかんと問い掛けた。
「これ押せばいいんだな?」
 そう言って、指先に力を籠める。慌てた圓が止める間もなく、エンターキーは溝に沈んだ。
 圓は思わず目を閉じる。
 しかし何もも起こらない。…いや、実際には起きているのだが。
 ポンと、肩を叩かれて、圓は恐る恐る目を開けた。
「お疲れ、圓」
 義希の声の後、彼は目の前の事実を認識する。
 歪むレンズの向こう側。画面の中に浮かぶ赤い光が、それ以上動くことは無かった。







cp22 [飛ばない鳥]topcp24 [近衛隊改正案]