飛ばない鳥


 じわりじわりと、夏特有の鬱陶しい暑さが続く。
 この時期の唯一の救いと言えば、抜けるような青空の爽やかさくらいだろうか。陽射しも強く、海水が何時にも増して光を反射する様子が窓の外に見てとれる。
 そんな中、傍らに置かれた扇風機と、片側だけ開かれた窓、その向かいの大扉から入ってくる風で涼を取りながら、王座の間で仕事に励む三人の姿があった。
 広い室内の中でも比較的風の通る中央付近に長テーブルを置き、熱を拡散するために疎らに座る彼等の格好は一様に涼しげであり、暑苦し気である。
 半袖のYシャツに緩めたネクタイ、片手に分厚い書類の束を団扇代わりにはためかせながら、逆の手で別の書類を捲るのは浮かない顔の沢也だ。その斜め向かいに座る有理子は、暫く来客予定が無いのを良いことに、一度部屋でラフな服に着替えた程には汗をかいている。尤もそこが自室ではない上に扉を開放してしまっているため、いつも彼女が着ている服よりは布成分が多めなせいもあるのだろうが。
 その暑さの中で唯一長袖を着る蒼が汗をかく所か、一番涼しげな顔で書類整理をしているのを不思議そうに見詰める彼女の携帯が、暫く続いていた静かな空気に水をさした。
 有理子は連続する音を遮断すると、自室に引き返しながら携帯を耳に当てる。その背中を見送る沢也の口から、とうとう深い溜め息が吐き出された。

 不正マジックアイテム流出事件の実行犯逮捕から一週間後。

 相変わらず藤堂と言う男の尻尾は掴めていない。
 蒼の想像した通り、地図から得た情報を突き詰めても、結局また別の貴族の名前が出てくるだけで目ぼしい収穫はなく。第8倉庫やアジトの所有者についても同様で、地図とは別の名前に行き着くだけで決定的な手掛かりは得られなかった。
 しかし雛乃の家の車は現場から消えており、街中での走行の目撃情報も出ているため、そちらの方面は継続して捜査中である。ただしこの件と関係があるかどうかは別問題な為、証拠に繋がると言う保証は何処にもないのだが。
 なお、逮捕した三人を王座の間で聴取した所、藤堂からの強い口止めを忠実に守っている、と言う事が結によって読み取られたため、調査方針を「藤堂」に絞ることは決定している。しかし結の能力はあくまで指針に過ぎず、それだけで藤堂を捕まえることができるわけではない。
 取り敢えず、不正マジックアイテムの制作者を逮捕する事は出来たので、世間に新たなアイテムが流れる事態は防げた筈だ。
 後は押収し損ねたアイテムに注意すると共に、今後の動向を窺いながら証拠を集めていけばいい。
「解決はまだ先だが、一段落…と言った所か」
 リーダーからの調査書類を確認し終えた沢也の呟きに、傍らから封筒の束を取り出した蒼が頷き問い掛ける。
「彼等はどうするんですか?」
「二人は既にリリスヘ送った」
 彼等とはまさに、今回捕まえた三人の事だ。聴取を終えた罪人は沢也及び司法課の判断で別の施設に送られる決まりとなっている。沢也が口にしたリリスもその一つだ。
 蒼が瞬きで疑問を示し話の先を促すと、沢也の表情が更に曇る。
「製作者がな…」
 珍しく言葉を濁した彼に肩を竦めた蒼は、封に書類を詰め込みながら詮索をかけた。
「何かあるんですか?」
「まあな。もう暫くは付き合ってやろうと思う」
 沢也は疲れたようでもなく、しかし真顔で曖昧に返答する。と、今度は蒼の微笑が僅かに変化した。それを証拠に彼は呟く。
「大方、見当は付きました」
「こればっかりは仕方ねえよ」
「すみません」
「お前のせいじゃねえだろ」
「そうでしょうか?」
「そうだ」
 ゆっくりと、しかし間を置かずに続いた会話を区切ったのは沢也の溜め息だ。彼は次に薄く笑みを浮かべると、手の甲で頬杖を付いて蒼を見据える。
「やっぱり大丈夫じゃねえな」
「そんなことはないですよ」

「弱気になってんのが良い証拠だ」
 誤魔化そうとする彼に一枚の紙を差し出して、沢也は部屋から戻った有理子を振り向いた。
 彼女が先とは違ういつもの仕事着を身につけていたことで、二人は電話の内容に大体の見当を付ける。
「あの…蒼くん」
 沢也と蒼を見比べて控え目に口を開いた有理子は、やはりと言うかなんと言うか言葉を詰まらせた。蒼が頷いたことで、彼女はやっと先を続ける。
「そんな時にひじょーに言いにくいんですけど…」
 長い前置きの後、低くも高くもない棒読みが告げた。
「アポ無しの来客です」
 それを聞くなり、蒼には誰が来たか分かってしまったらしい。
「予測はしていましたが、思っていたより早かったですね」
 そう言って立ち上がると、彼は苦笑にも嘲笑にも困惑にも見える微笑で沢也を振り向いた。
「そんなに切羽詰まっているのでしょうか?」
「そりゃあ、こっちにとっちゃ好都合だがな」
「そう期待しない方が良いと思いますが…」
「分かってる。まぁ、あっても二割ってとこだろ」
 沢也が気の無い首肯をした所で、面食らっていた有理子が気を取り直して問い掛ける。
「…何の話?」
「悪巧みのお話ですよ」
 蒼は言いながらテーブルの上の封筒を片付けると、大扉へと足を向けながら有理子に命じた。
「昼食は先に取ってください」
 でも…と、納得いかなそうな彼女に頷いて、彼は静かに扉を開く。
「彼女と少し、散歩をしてきます」

 突然の来客…彼女とはずばり雛乃の事だ。

 雛乃の処遇は、先の事件と共に沢也と打合せ済みである。
 証言に多少の偽りはあったものの、宣言通り雛乃の罪は不問になった。しかしながら敵対関係にあると言う貴族にこの話が伝わっていては、彼女所か彼女の家そのものも立場が危ういため、あちらの申し出があれば「花嫁候補」としてリリスに匿う予定になっている。
 ただしいくら花嫁候補とは言え、使えぬ人材をいつまでも飼っておけるほどの財源は無いので、その辺りは交渉次第と言った所だ。
 先方次第では、見返りとして情報の提供に関するやりとりも見込めるため、できるだけこちら側に引き込みたい所ではあるのだが。先の会話通り、期待値は数パーセントあるかないかだろうと蒼は予測している。
 だからこそ笑顔の中に複雑な色を滲ませながら、彼はゆっくりと階下を目指した。
 どんなことでもやってみせると誓った事を忘れたわけではないけれど、やはり沢也の言うように…単純に「大丈夫」とは言い切れないのが実際の所なのである。
 退出前に有理子が言った通り、雛乃はエントランスホールの脇にある、一時的な応接室として使われる部屋で待っていた。蒼が扉を開くと、テーブルに置かれたカップの中身は殆ど残っておらず、顔を上げた彼女の顔も待ちくたびれたような雰囲気を漂わせる。
 立ち上がり、一礼し、垂直に直った雛乃に退出を促した蒼は、彼女がエントランスに出るなり扉を閉めて歩き出した。
 雛乃は、ゆっくりと屋外に向かう蒼の背中を追いかける。斜め後ろを歩く彼女の表情は、何処と無く不服そうにも嬉しそうにも見えた。
 会話もないまま出口を潜ると、扉の閉まる音がやけに大きく感じる。しかしその余韻に浸る間も無く、いつもの声が蒼を呼んだ。
 甲高い声に引かれた蒼がそちらに足を向ける前に、雛乃が歩調を早めて隣に並ぶ。二人はそのまま揃って巣の下方に当たる木陰に立った。
「治ったんですか?」
 小鳥が蒼の手に飛び乗るなり問い掛けた雛乃は、蒼の首肯を見て笑みを強める。
「良かったわね。優しい人に拾ってもらえて」
「本当にそう思いますか?」
 小鳥に向けられた雛乃の言葉に、驚いたような蒼の質問が返された。雛乃はそれに…そんな言葉が返ってきたことそのものに驚いたように目を丸くすると、蒼を見上げて瞬きをする。
「怪我から立ち直って一週間、それでもまだ飛ばないんですよ」
 蒼はすっかり成長したかつての雛鳥を指先で撫でながら、雛乃を振り向き言葉を繋いだ。
「飛べない、ではなく。飛ばないんです」
 そう言って、彼は小鳥の乗った手を天に掲げる。確かに、鳥は首を捻るばかりで飛び立つ気配はない。
 雛乃が眩しそうに細めた瞳でそれを認めると、蒼は諦めて腕を下ろした。そうして困ったように鳥の頭上に小さな息を落とす。
「僕が餌を運び続けていますからね。飛ばなくとも、生きていけると思っているのでしょう」
 ひとしきり構われて満足したのか、大人しく頭を撫でられる鳥を巣に戻し。蒼は振り向き気味に雛乃に問い掛けた。
「これは果たして優しさと呼べるでしょうか?」
 顔を合わせてからずっと、変わらず浮かべている微笑をそのままに、蒼は僅かに首を傾げる。問われた雛乃は微笑の中に困惑の色を交えて問い返した。
「何が仰りたいのですか?」
 蒼は、そんな彼女を数秒だけ観察すると、諦めたように肩を竦める。
「分かりませんか?」
「意地悪なお方ですね」
 雛乃はクスリと声を立て、蒼を真似て肩を竦めた後、徐にポシェットから封筒を取り出し差し出した。
「契約書です」
 蒼はやはり数秒間、封筒の中身を見透かすように固まると、次に溜め息のような声を出す。
「何度も申し上げておりますが…」
「考えました」
 強い声が言葉を遮った。雛乃はそこで短く深呼吸すると、微笑を取り戻して静かに続ける。
「私なりに考えて出した結論です。どうぞ受け取ってくださいまし」
 おしとやかとも威圧的とも取れるそれに微笑んで、蒼は暫く思案した後封筒に手を伸ばした。
「分かりました。それでは、後日試験の日程を…」
「どうしてもしなければなりませんか?」
 その手は、封筒を掴む前に雛乃に捕まれる。
 勢いのまま迫りくる彼女を見下ろす蒼の瞳が、木陰に僅かに注ぐ光の中から影の方へと押し込まれた。
「何を、ですか?」
「試験です。どうしてもリリスヘ行かなければなりませんか?」
 雛乃は伏せていた顔を持ち上げると、俯き気味の蒼の瞳に向けて細く艶っぽい声を注ぐ。
「此所に、居させては貰えないのですか?私は…あなたのお側に居たいのです」
 手を握る力が僅かに強くなり、それに連れ雛乃の瞳に浮かぶ涙の輝きも増した。
 彼女の目に映る蒼は、どんな風だろうか。きっと影に隠れているから、いつもと同じ様に見えるのかもしれない。
 じっと答えを待つ彼女の様子を盗み見て、門番の一人がそんな憶測をする間にも、蒼はさらりと答えを吐く。
「残念ながら、それはいたしかねます」
 雛乃は、その優しい声に言葉を詰まらせた。わざわざ人目に付くような場所で行動に出た辺り、恐らく彼女にはそれなりの自信があったのだろう。みるみるうちに青ざめていく瞳の色が、門番二人からも僅かに確認することが出来た。
 門番達が視線を逸らすと、固まっていた時はそのままの形で動き始める。
「どうして…何故ですか」
「どうしても、と仰るのであれば、あちらで実力と誠意を示して頂かなくては。此方も了承出来ません」
 雛乃の手から逃れた左手の人差し指が円を描いた。彼女はそれを見ることもなく、蒼の笑顔を注視している。
「私を…信じては下さらないのですか?」
 涙声が問い掛けた。蒼の表情は、それでも変わることがなく。
「そう我が儘を仰るのは、あなたが僕を信用していないからですよね?それと同じに…僕もあなたを信用していない。それだけのことですよ」
 それどころか無情な言葉を笑顔のままで、躊躇いもなく言い切った。
 雛乃はそれでも諦めが付かないのか、蒼の手を硬く握っては整った顔を歪める。
「酷い…」
「嘘でも助けを求めたのはあなたの方です。僕はそれに、適切な処置を施しただけに過ぎません」
 今にも涙を溢しそうだった雛乃は、蒼の言葉に俯き、掠れた声で答えた。
「嘘…だなんて…そんな…」
「正直な方ですね」
 戸惑う様子を正直に指摘して、蒼は雛乃の手を丁寧にほどく。ほどきながら、指先と同じく優しい声色で苦笑した。
「本当に困っている方は、いきなりそんな我が儘を言い出したりしないものですよ」
 ピクリと雛乃の身が揺れる。蒼は構わず彼女と距離を取ると、恐る恐る顔を上げた彼女と向き合った。
「逃げるも受け入れるも、あなた次第です」
 傾いた笑顔が告げた言葉に、雛乃の眉が悔し気に歪む。蒼は声を落として更に続けた。
「どちらにしても、あなたには酷なことなのでしょうけど。これを機に、精々ご自分を磨いて下さい」
「磨かずとも…私は…」
「それなら試験も簡単にクリアできるのではないですか?」
 嘲笑に似た肩竦めに、雛乃はとうとう震え出す。
「私は…貴族です」
 震える声は、先とうって変わって低く響いた。
「貴族として、そんな仕打ちを受けるなど…耐えられるわけがありません」
 睨み付けるように言い切った彼女に、蒼の苦笑が溜め息のように問い掛ける。
「仕事をする生活が、そんなに苦痛ですか?」
「あなたはご自分で給事までなさいましたよね?あれを私にもしろと言うことだと受けとりましたが…」
「つまり、こちらの条件を呑むくらいであれば、政略結婚を受け入れると、そう言いたいんですね」
「あちらなら、もっと良い生活すら出来るかもしれませんから…」
「そうですか」
 応酬はそこで途切れた。
 最後にはそっぽを向いた雛乃に構わず礼をして、蒼は笑顔で踵を返す。
「それでは、また何処かでお会いしましょう」
 城内に向けて歩き出した彼の背中を、詰まったような声が追いかけた。
「…それだけ…ですか…?」
「忠告はしましたよ」
 懇願にも似た問い掛けに、振り向いた蒼はやはり笑顔のまま。
「僕はあなたの考えているような、都合の良い人間ではありません」
 しかし悲しげに言い放つ。
 雛乃は、絶望でもしたかのようにだらりと腕を垂れると、闇を帯びた瞳を蒼に向けた。
「一度優しい顔をしておいて…用が済んだら掌を返すのですね」
「それとこれとは話が別だとも、お伝えした筈ですが…」
 苦笑の後、目を閉じて。数秒後に瞼を開き。蒼は正面から雛乃の表情を確認する。
「説き伏せてもあなたは、僕を怨むのでしょうね」
 心臓を突き刺すような眼差しの強さを、噛み締めた唇の色を、ぐしゃりと握り潰された茶封筒の質感を、彼はしっかりと網膜に焼き付けた。
 雛乃はその後、門番二人に見送られて城を後にする。
 先日の運転手はお役御免になったのか、別の人物が運転する車に乗り込んだ彼女が顰めっ面を解くことは無かったそうだ。

 ぼんやりと夜の海を見渡す。
 真っ黒な中に曖昧に存在する青が、不思議と色濃く沈んで見えた。
 王座の間にある小さい方の窓の枠に腕を付き、顔の下半分を埋めるようにして外を眺める蒼の姿を、自室から戻った沢也が見付ける。
 昼過ぎから日が沈みきった今の今まで部屋に籠りきりだった彼は、蒼を見るなり彼特有の微妙な笑顔で問い掛けた。
「失恋か?」
「まさか…そんなに色っぽいものじゃありませんよ」
 沢也が入ってくる前から浮かべていた微笑を緩やかにし、蒼は儚い言葉を流す。
「もっと…なんと言いますか…ドロドロとした…そんな感じの感情ですかね」
 それは僅かな間だけ室内に留まって、直ぐに海へと旅立っていった。沢也は構わずふっと息を吐き、書類片手に席に付く。
 蒼はそれ以上、何も言わなかった。その理由を分かっているからこそ、沢也もそれ以上追求することをしない。

 助けてくれと頭を下げられたことが嫌だったわけではない。
 条件を飲んでくれなかった事に怒っているわけでもない。

 手を差し伸べてしまった事を後悔しているわけではない。
 条件を飲めなかった事を嘆いているわけでもない。

 ただやるせないのだ。
 こうしてすれ違い、理解できぬまま、小さな小さな固執が生まれ、それが次第に大きくなって。
 争いが生まれてしまうのを、止めることが出来ない事が。

 どうすることも出来ない自分が無力なのか。  それともこれこそが、この世の理なのだろうか。  これが人間の性だとでも言うのだろうか。

 そうは思いたくないけれど。
 きっとそうなのだと、肯定する自分がいることにもまた、やるせなさを覚える程に。

 それでも彼は飛び続ける。
 飛び続ける限り、同じ様な事が起きるであろうことを理解しながら。



 翌日の早朝。



 まだ門番も出勤していない時間帯に、蒼は日課を終わらせようとエントランスに足を向けた。

 朝日が照らす中庭に背の高い扉の影が落ちる。遅れて顔を覗かせた蒼を待っていたのは、小鳥の高い鳴き声だ。
 いつものように顔を上げ、空の色を確認する彼の視界。ふわりと落ちた白い羽が、太陽の光と被って見える。
 風に巻かれることもなく、羽根はゆっくりと蒼の手の中に落ちた。続けて光を遮る影が、緑の芝生に鳥の形を映し出す。

 羽根を傘代わりに掲げ、青く澄んだ空を仰げば、雲一つない空に浮かぶ白。

 それは宙に円を描いて高く鳴き、手を振るように羽ばたいてはいつしか青に紛れた。

 蒼は白の影が跡形もなく見えなくなっても、そこに留まってじっと空を仰ぎ続ける。
 その瞳に映る青が元の青と同化して、今にも溶けてしまいそうな程。

 実際にはどれくらいそうしていただろう、正確な時間までは分からないけれど。
 彼は不意に浮かべていた笑みを強めると、深呼吸をするように空に息を上げる。

 そうして蒼はそれが昇っていくのを認めたように、数秒を持ってふわりと踵を返した。







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