雛鳥


  「見回りですか?陛下」
 よく晴れた空の下。城門の外側から問い掛ける茂達に、蒼は頷いて返答する。
「そろそろ治る頃だと思うんですけど…」
 そう言って城門の内側、余り広くはない中庭の片隅に生えた木の上を見上げる彼を、茂達だけでなく相方の正宗までもが横目で確認した。
 一国の王がこうして毎朝城門まで降りてきては様子を窺うその理由は、木の上に据えられた鳥の巣の中にある。
 たまたま客人を見送りに来た彼が、たまたま落木した雛鳥を拾い上げ、治療を施しもとの位置に戻したのが数週間程前のこと。
 微笑と餌を携えての彼の来訪を、緊張と興味を持って迎える門番の二人は、振り向いた蒼の視線に戸惑い気味に瞳を泳がせた。
 そんな二人に肩を竦め、木の枝の付け根まで腕を伸ばしした蒼は、手の甲に跳び乗った雛鳥の頭を撫でる。
 指先で擽るようなそれを心地よさそうに受け入れて、雛は粉末状の餌を食べ始めた。
「陛下は鳥がお好きなんですか?」
 控え目な質問が正宗の口から溢れる。裏返り気味の声を振り向いて、蒼は曖昧な回答をした。
「そうですね。好きな方だと思います」
「随分と熱心に看病されてますね」
「はい、頼まれていますから」
「頼まれて…?」
 茂達の問いに対する答えは、二人の瞳を瞬かせる。
 蒼はやはり曖昧な微笑で誤魔化すと、雛と餌を木上に戻して会釈をし、城の中へと戻っていった。

 残された門番の疑問は最もなのだが、蒼には詳しく説明出来ない理由がある。
 彼に姉が居ることは公表されているが、どんな人物で普段何をしているかを極秘にしていることが原因の一つだ。
 つまるところ、鳥の事を彼に託したのは、自らも鳥になることができる椿なのである。蒼が持ち帰った雛鳥を手当てしたのも実際は彼女で、その後暫く面倒を見ているうちに心配になったらしい。
 沢也や蒼の評価として有能な門番二人が常駐する場所でさえなければ、椿本人が蒼に扮装して出向くことに何ら問題はないのだが、流石に背丈と声色までを忠実に再現するには限界があると言うことで、このような形を取ったのだ。

 そうしてここ暫く続いている日課を終え、王座の間の前に立った蒼の耳に飛び込んできたのは溜め息混じりの有理子の声。
「今日、キャンセルが入った事を伝えたら…」
「来るって言ったろ?」
「即答だったわ」
 沢也の返答に頷く彼女の返しを待って、扉を開いた蒼に直ぐ様沢也の顔が向く。
「だそうだ」
「良いじゃないですか。早い方が…」
 サラリと頷いて、部屋の縦断を始める蒼を沢也の浅いため息が迎え入れた。
「心労で倒れるなよ?午前中は会議なんだからな」
「大丈夫ですよ。慣れてますから」
「どうだか…」
「沢也くん、有理子さんの心配性が移ったんじゃないですか?」
「そうだとしたら、俺も痛み止めを常備しねえとなんねえな…」
 もう一度ため息を吐いて横目に有理子を捉えた沢也に、心なしか膨れた彼女が棒読みに食いかかる。
「私はもうそんなに飲んでませんから」
「良く言うぜ。俺を通さず海羽にこっそり処方してもらってるくせに」
「煩いわね…それもこれも、あんた達が忙しすぎるのが悪いんじゃない」
「忙しいのは俺らのせいじゃねえ」
「分かってるわよ!」
「まあまあ、痴話喧嘩はそれくらいにして…まずは腹拵えといきましょうか」
 二人の会話に割り込むと、蒼は携帯で時計を確認し、掌で広げっぱなしの朝食を示した。
 会議まで後2時間弱。
 まだ8時前だと言うのに、食事の用意をした海羽は既に一人朝食を終え、秀の監視下だ。
 有理子は手帳片手に、沢也はパソコン片手に長テーブルに集まると、まだ温かいパンとスープに口を付ける。蒼も同じように、丸形のパンを片手に、イチゴとカシスのジャムに手を伸ばした。
 すると正面の沢也がパソコンを回転させる。画面が蒼に見えるような角度に調整されたそれには、真っ白な背景に「どう話を進める気だ?」と機械的な文字での質問が。
 沢也のこの行動は、いくらか離れているとは言え、秀が近くに居る状態でおおっぴらに出来る会話ではない事を示している。
 蒼は微笑を強めると、声を落とさず言い切った。
「ストレートに」



 それから約7時間後。



 いつも通り滞った話し合いに区切りを付けて解散となった会議の後、適当に昼食を終え、一人目の面会者が帰宅した昼下がり。
 先方から「一人で伺います」との連絡を受け、蒼は自ら一階のエントランスホールで来客を迎えることにした。
 と、言うのも。貴族であるあちらが一人で来るように、こちらもきちんとした準備の無い状態だったから。
 本来の予定では、今頃孝とお茶でも飲みながら談笑している筈だったのだが、孝の方が体調を崩してしまったらしく、中止となったのだ。
 吹き抜けの天井から取り込んだ自然光を跳ね返す、真っ白な床や壁。控え目な装飾のシャンデリアや柵も、傍らに据えられた絵画の額縁も、全ては城門とお揃いの模様を張り付けて静寂を保っている。
 蒼はそんな、普段であれば当たり前に素通りしてしまう細部を念入りに眺めながら、約束の時刻までの15分ほどを過ごした。
 沢也は書庫に、有理子は民衆課にそれぞれ用事があるらしく、現在王座の間には一見して誰も居ないと言うことになる。それでもそのままそこを開けてきたのは、結の声を聞ける沢也や椿が直ぐ側の部屋に居るからだ。
 腕時計を確認し、外に出る。この時間帯はどの部署もデスクワークに没頭する傾向にあるので、幸い門番以外が蒼の待ちぼうけ姿を目撃することは無かった。
 そうして彼がふらりと顔を出すと、正宗の方が振り向いて丘の向こうを指し示す。
 貴族は基本的に、自宅から城までの道程を車か飛行機で移動する。今回も例外ではなく、レトロな外装の黒塗り車が丘の途中で揺れるのが見えた。
 ややあって、城門前にビタ止まりした車の後部座席から雛乃が降りてくる。その身のこなしは上品で優雅な貴族そのものだ。
「お招きありがとうございます、陛下」
「こちらこそ。突然の誘いを受けて頂き光栄です」
 スカートの端を持ち上げて礼をする彼女に、いつものように微笑んだ蒼は道を開けて入城を促す。そうして事が進む間に横目に茂達を見ると、彼は無言で入門表に雛乃の名前を示していた。
 蒼は門番の二人に目配せで礼を述べると、先で待つ雛乃に続いて城門を潜る。
「運転手さん、待たせておいても大丈夫ですか?」
「はい、構いません。うちの者ですから」
「そうですか」
 呟きながら、一人で…と言うのは、一般人と貴族の間で語弊があるのだと、蒼はその時学習した。王の立場に居ながらおかしな話だと、自分の境遇を密かに笑いながら。
 そうして彼女を先導しようと足を進める彼を、左側から呼ぶ声があった。
 声とは言っても人間のものではない。振り向くと、地面の上で身をよじる雛鳥の姿がある。
 蒼は雛乃に一言断って、鳥の傍まで歩みより、その体を掬い上げた。
 その様子を後ろから眺めていた雛乃が、恐る恐ると言った感じに問い掛ける。
「怪我を…?」
「はい、他の子は既に巣立ち、親鳥も離れ、取り残された所を見つけまして」
 蒼は雛を巣に戻しながら簡潔に説明した。枝を支えに幹に足を掛け、鳥の巣が見える位置まで頭を高くした彼を見上げながら、彼女は控えめに呟く。
「お優しいんですね」
「そうでしょうか?」
 手を離して着地するなりそう言って、蒼は小さく肩を竦めた。
 そうして進行を再開する彼の背中に雛乃が続く。歩調を緩めた蒼の横顔を斜め後ろから見上げ、並ぶことのないよう速度を調整しながら、彼女はふわりと笑みを浮かべた。そして世間話程度に質問する。
「鳥が…動物がお好きなのですね?」
「はい、そうですね。どちらかと言えば」
「私も、その…好きなんですよ」
「生き物が、ですか?」
「はい」
 頷く雛乃を振り向いた蒼は、表情を変えずに質問を続けた。
「何故ですか?」
「可愛らしいからです」
「そうですか」
 笑みを強めてそう言ったきり、また前を向いてしまう蒼に彼女は呟く。
「…家で、犬を飼っています」
「散歩には行かれますか?」
「…いいえ?私は、行きません。世話は係の者がしますから」
「ああ、成る程…それは失礼」
 不思議そうな返答に頷いて、蒼は密かに苦笑した。それに気付かぬ雛乃は犬の話を続けたが、彼女は元より口下手なため、そうそう話さぬうちに目的地である王座の間に着いてしまう。
 蒼は二枚あるうちの片方を押して、先に雛乃を中に通し、後から自分も入室して静かに扉を閉めた。
 室内は見合いの時と同じように、中央付近にソファーとローテーブルのセットが並べられている。その上では予め用意したティーセットがカバーを被せられた状態で待機していた。
 促すと、雛乃は頷いてゆっくりと腰を下ろす。蒼はその間にティーポットにお湯を注ぎ、クッキーとブラウニーを皿に取り分けた。
 彼の手の動きを呆然と注視していた彼女が、目の前に皿が置かれたことで我に返るまでを見届けて、蒼もゆっくりと席に付く。
 雛乃は紅茶がティーカップに注がれるのを待って、懐から封筒を取り出し前に出した。
「契約書です」
 一言そう言って、微笑を浮かべる彼女を制するように。蒼はそっと紅茶の入ったカップを手にすると、逆の手で人差し指を回す。
「その前に。一つだけ確認させてください」
 宣言に瞬いて、首肯した雛乃は封筒に乗せていた手を引っ込めた。
 蒼は勿体振るようにカップを傾けて、音も立てずにそれを置き。人差し指に嵌めた指輪から品物を取り出して提示する。
「このトランプに、見覚えは?」
 テーブルに乗せられたそれを見て、雛乃の顔色が確かに変わった。
 目を見開いて、息をのみ。それでも彼女は否定する。
「いいえ…」
 呟いて顔をそらした雛乃に対し、蒼は笑顔を崩さず紅茶を持ち上げた。そうしてゆっくりと味わって、ゆっくりと口にする。
「うちの近衛隊長があなたの声を聞いた、と証言しています」
 柔らかい笑顔は何処までもあどけなく。しかし鋭さを持って雛乃を見据えていた。彼女は横目にそれを認めると、俯き気味に答えを返す。
「聞き間違いではないですか?」
「そうですか。それでは、きちんとした証人をお呼びしましょうか?」
「私ではありません」
 素早い切り返しに、雛乃は思わず声を荒げた。それでも蒼は微笑を浮かべたまま、悠長に紅茶を啜っている。
 温度差に戸惑って、瞳を泳がせて、彼女は蒼の目を見ないまま問い掛けた。
「陛下には、私が盗人に見えるのですね…?」
 儚い声に、首が傾く。蒼はその過程であっけらかんと問い返した。
「どうしてこれが盗品だと?」
「それは…」
 優しくも鋭い口調に雛乃の言葉が詰まる。みるみるうちに淀んで行く彼女の表情に、彼は変わらず笑顔を注いだ。
 伸ばしていた背筋を前に倒し、僅かに顔を近付けた蒼はそこで始めて声色を変える。
「正直に、全てを話して頂ければこの件は不問にしましょう」
 僅かに低くなったそれを、雛乃の震えた声が繰り返した。
「…全てを、ですか…?」
「はい、正直に。包み隠さず」
 茶化すようでもなく、どちらかと言えば威圧を含んだ微笑に震えながら、雛乃は静かに唇を噛む。
「もし、嘘がばれてしまった場合は…」
「勿論、それ相応の処分を覚悟して頂きます」
 蒼は言いながらソファーに身を預けた。そうして足を組み、膝の上で指先を組んで答えを待つ。
 その間も表情を窺いながら、しかし何も読み取ることが出来ずに、雛乃は小さく呟いた。
「…少し、考えさせて下さい」
「構いませんよ」
 蒼が頷くと、彼女は静かに席を立つ。
「どちらへ?」
「…一度家に」
「帰れるとお思いですか?」
 予測はしていたが。
 蒼はクスリと声を漏らすと、念のため扉側に座っていた彼女の後ろに回ろうと歩き始める。ゆったりとした足取りに合わせて振り向きながら、雛乃は瞳を細く歪ませた。
「…それは強迫ですか?」
「そんな物騒なものではありませんよ。貴族だからと言って、証人…若しくは容疑者であることに変わりはありません。こちらには拘束する権利があります。ただそれだけのことです」
 事務的に捲し立てると、彼女は床を見据えたまま押し黙る。その様子に密かなため息を溢し、蒼は短く礼をした。
「お兄様とのご相談は諦めて、ご自身で答えを出して下さい」
 言い終わると共に、室内には静寂が訪れる。
 外はいつも以上に静かで、喧騒の一つも聞こえては来ない。このままでは彼女の心音まで聞こえてしまいそうだと、蒼が密かに思った時。
「話したら…」
 雛乃は呟き顔をあげると、潤んだ瞳で彼を見詰めた。
「話したら、助けて頂けるのですね?」
 その色に、顔には出さなくとも蒼の思考が僅かに揺さぶられる。証拠となるように出来た間は、雛乃が続けた言葉が埋めた。
「約束通り…婚約者として…」
「それとこれとは全くの別件です。婚約云々は例の契約書通りに事を運ばせて頂きますが、こちらに関しては内容次第で目を瞑りましょう」
 懇願にも似たしどろもどろな声を、蒼はキッパリ切り捨てる。それでも雛乃は良しとして、ストンとソファーに腰を落とした。
 ティーカップを手に、多少冷めた紅茶に口を付ける彼女の横を通って席に戻った蒼は、促すでもなく笑顔を傾ける。
 雛乃は視線に気付かぬふりでもするかのように、しばらくの間紅茶とブラウニーを味わっていた。伏せた瞳に長い睫毛の影が落ちて、彼女の表情に反省の色を添えているように見える。
 蒼は自らも紅茶を飲みながら、刻々と変わり行く空気を観察していた。するとカタリと音がして、雛乃の手が膝の上に収まる。
「…私はただ、仕返しをしようと…」
「仕返し、ですか」
 か細い声を拾い上げ、復唱した蒼は微笑を強めて質問を投げ掛けた。
「あなたはこのトランプがどう言ったものなのか、ご存じなのですね」
「勿論です…そうでなければそのようなもの…」
「知っていた、と言うことは…こう言ったアイテムの裏取引が行われている事も知っているんですね?」
「…はい」
「仕返しと言うのは?」
「…私の家は、他に比べて…その…」
「資産が少ない、ですか?」
「…そうです。ですから、父も兄も…他より努力しなければなりません。それなのに…」
 そこで言葉を切り、雛乃は掌を握り締める。小刻みに震えていたそれは、俯く彼女が再び口を開いたことで収まった。
「…それは…それを盗んだのは、父や兄を貶めた人物に対する復讐のためです」
「その人物の名は?」
「残念ながら、分かりません」
 躊躇いがちに返ってくる回答。ずっと膝を見詰めたままだった雛乃は、そこで不意に顔を上げる。
「私はただ、執事が調べ上げた人物の手から、トランプを盗み出しただけなんです」
 すがるような眼差しは、数秒間蒼と向き合った。うんともすんとも変わらぬ微笑を前に諦めたのか、彼女はくるりと首を回して声を落とす。
「執事は死にました…その男に殺されたのです」
 それを聞いても、蒼は何も言わなかった。それどころか表情すら変える気配がない。雛乃もそれを感じたのか、震える声で問い掛ける。
「悪足掻きだと笑いますか?」
「いいえ」
「惨めだと同情なさいますか?」
「いいえ」
 どちらも否定されたことに安心したように、彼女はまた蒼と向き合った。そこにあるのは先と変わらぬ微笑であるにも関わらず、雛乃は微かに気を緩める。それを証拠に、口元だけが僅かに微笑んだ。
 蒼はそれを認識すると、彼女の前に紙を滑らせる。
「トランプを売り捌いていた人物のの特徴を、覚えていらっしゃいますか?」
「忘れもしません」
 雛乃は頷いて、ペンを手に取った。そうして覚えているだけの情報を書き込んで行く。
 外見的特徴、呼び名、扱っている主な品物、活動拠点…それから、トランプを盗んだ現場、その際に奪われた車のナンバーと特徴。
 そこまでをすらすらと書いていく彼女の手元を見据えながら、蒼は次の質問を考える。それは当たり前に犯行時の詳細に関するものだったのだが、実際に聞いてみるとどうにも要領を得なかった。
 だからこそ。蒼は納得し、首肯する。雛乃はその仕草をどう解釈したのか、安定したようにため息を漏らした。
「後はこちらにお任せ下さい」
 蒼はそう言って、メモを手に立ち上がる。すると雛乃も追い掛けるように腰を上げ、彼を呼び止めた。
「陛下…」
 差し出されたのは、契約書。蒼はふっと微笑んで、当たり前のように流す。
「お送りしましょう」
「あの…これは…」
「もう一度良く、お考えになった方が宜しいかと」
 扉に向かう背中に駆け寄ってまで問う雛乃に、蒼は微量の感情を籠めて呟いた。
「僕はあなたの想像しているような人間ではありませんから」
 それを聞いても、雛乃は気付かない。
 彼の本心にも、彼の感情にも。
 理由は簡単。簡単過ぎて、ため息すら出ぬほどに。


 そうして来たときと同じように、雛乃は車の後部座席に乗って帰っていった。何処と無く不服そうなその顔を見送る蒼の横顔を、門番の二人が横目に見据える。
「何か変わったことはありましたか?」
 不意に振り向いた蒼の質問に、内心驚きながらも顔には出さず、背筋を伸ばした正宗が素早く回答した。
「いえ、それと言って…」
「それと言わなければありそうですね?」
 困った微笑に図星を突かれ、こちらも困った笑顔を傾げた正宗に、茂達からの助け船が入る。
「ご報告と言うよりは、詮索になってしまうかもしれませんが」
「構いませんよ」
 サラリとそう言われ、咳払いで焦りを払った茂達は正宗に横目で合図した。
「そうですか…では…まず一つ」
 正宗は頷くと、城の脇を示してこう話す。
「そちらに待機していた運転手。どうやら最近雇われたばかりのようで、聞いてもいないことをべらべらと喋りました。尤も、世間話程度だったんですが…」
「給料が安い、人使いが荒い、自分はお嬢様の子守りをするために運転手をしているわけではない、この前リリスに行かされた時も同じように待たされた、それから大きな屋敷に行った時も、随分長く待たされた。しかも待たせるときは全て屋外だと、世間話と言うよりはほとんど愚痴でしたが」
 言葉を濁した正宗に変わって、茂達が覚えている限りを簡単に説明した。尤も彼の覚えている限りとは、それすなわち会話の全容に変わりはないのだが。
 蒼は二人の声が切れるのを待って頷き、一つの言葉を拾い上げる。
「屋敷、ですか」
 それだけで促されたと受け取った正宗が、中空に向けて回答した。
「何でも所謂上司に当たる貴族の屋敷だとか」
「小耳に挟んだだけで確証はないが、橡と言う名の人物らしいと話していました」
「貴族の家には表札が無いんだと、何故だか自慢気に語ってくれましたよ」
 正宗の皮肉に苦笑して、蒼は肩竦めで納得したことを示す。そして人差し指を空に向け、僅かに首を傾けた。
「まず一つ、と言う事は…二つ目もあるんですか?」
「こちらは憶測と推測と詮索ですんで、余り言いたくはないんですが…」
 正宗の前置きに、蒼は頷いて先を促す。すると彼は渋々と言うよりは、躊躇いがちに口を開いた。
「その…随分とお帰りが早いんですね?」
「はい」
「彼女は…先日お見合いにいらした方、ですよね?」
 茂達が遠慮を持って問い掛けた事で、蒼は二人の思惑に納得したようだ。
「どうやら、心配をおかけしてしまったようですね」
 普段通りに振る舞っているつもりでも、分かる人には分かるものだと。穏やかに笑う蒼に、茂達が深く頭を下げる。
「失礼を…」
「そんなことはありません。頭を上げてください」
 結局揃って謝罪する二人をどうにか宥め、蒼は話の種を蒔いた。
「ご心配には及びませんよ。どのみち僕と彼女では、噛み合いませんから」
 それは責めてもの謝罪として。二人の憶測を解決に導く為の言葉として。いや、単に愚痴が溢れただけかもしれない。
 蒼は頭の片隅で自らの発言の動機を考えるが、答えは出ず。変わりに敬礼する二人の門番の表情が、見合いの失敗を嘆く所か、何処か安心したように緩んだことに密かに感謝した。
 門を潜り、いつものように城を目指す。短い短い道程の間に、また。彼を呼ぶ声があった。
 蒼は振り向き、笑顔を微量沈ませる。そしてゆっくりと歩み寄り、すぐそばで屈むと、草の上で跳ねる雛に囁いた。
「駄目ですよ、僕に頼ってばかりでは。自分の力で飛んで下さい」
 諭しても、楽しそうに踊るばかりで飛ぶ気配のない雛を指先でつつき、蒼はいつものように両手で掬い上げる。
「姉さんも心配しているんですよ?このままではあなたが…」
 自分の力で生きていけなくなってしまうと。
 手の中で、目の前で、小首を傾げておどける小さな生き物に。蒼は続きを告げることなく両腕を伸ばした。
 あと少しで巣に届きそうなその距離を、雛はじっと見据えている。しかしいくら待っても動きを見せず、ついには蒼を振り向き催促する始末。
「困った方ですね…」
 蒼は呟き、爪先を立てる。
 あと数十センチ、あと十数センチ、あと数センチ…蒼が目一杯体を伸ばすと、雛はどうにか羽ばたいて巣の中にダイブした。
 コロリと転がった体を立て直した雛が、顔を出したことを見届けて、蒼は微笑を緩ませる。
 複雑なその笑顔を見送る雛は、高く小さな声で鳴いた。

 また明日、また明日…と。







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