大臣の憂鬱


 新しい国が設立されてから、早くも二年の月日が流れた。


 正式名称を”チェリーブロッサム”、国民の間では「桜の国」と呼ばれるこの国は、四方を海に囲まれた島国で、王都は国の本土に隣接する小島にある。
 2年前、崩壊状態にあった王都を再建する際には、孤島一つ分と言う独特な広さと環境のせいでそれなりの苦労を強いられたが、それでもたったの半年で全てを終えることができたのは、元々の基盤がしっかりしていたことが一つの大きな要因と言えるだろう。一からこの都市を作り上げてきた歴代の王族に感服すると共に、インフラから書類関連、商業斡旋の仕事まで様々な分野で手を貸してくれた人々に、新たに王となった蒼をはじめとする関係者達は心から感謝し、誓うのだ。
 この国をしっかりと支え、末永く繁栄させていくことを。

 さて。国を動かす中心となる彼等が働く王都という場所は、本島から伸びる橋を入口に、そこから約3分の2の面積地を城下町として整備している。煉瓦作りの建物が並ぶ通りには色とりどりの店が出店されており、復興の最中から連日の賑わいを見せていた。
 そんな明るい色合いの城下町を抜けて、鮮やかな緑の茂る小高い丘を上った先にあるのが、この国の王を筆頭とした要人が住まう城である。白を基調とした洋風の外観は、シンプルではあるが何処と無く気品のある、昔ながらの繊細なデザインを出来る限り再現したものだ。
 城を囲う背の高い塀も城壁と同じく真っ白で、丘から続く道の終点には頑丈な鋼鉄が複雑な模様で城門を形作っている。それを越えた先には短い中庭があり、緑を踏みしめ更に足を進めれば、高さ5メートルはあるであろう両開きの扉に辿り着く。その立派な入り口を潜れば、もう城内だ。
 吹き抜けのホールは勿論、城中殆どの床に敷き詰められた白く柔らかな光を放つ大理石の上には、深い青の絨毯が道を示すように走っている。ただでさえ目を奪われるようなその色彩美に加えて、各所に設置された縦長の窓が時刻毎に外の色を忠実に映し出す様が、城と言う場所に相応しい特別な美しさをもたらしていた。


 6月某日、とある午後のティータイム。
 僅かに傾き始めた太陽が暖かな光を注ぐ城の一室、顔を出し始めた眠気を飛ばすかのようにコーヒーの香ばしい香りが漂う中。
「本当に良いんですか?こんな裏路地に店を構えても、人が来るとは思えませんが…」
「いいんですよ。それで」
 小さく響く落ち着いた会話は、広い城の中でもひときわ目立つ扉の中で行われていた。
 ただでさえ高い天井に合わせて作られた縦長の細工窓が、惜しげもなく自然光を取り込む奥行きのある室内。その眩い光の塊を背景に、巨大な白扉の真正面に据えられているのは、城中に敷き詰められた絨毯と同じ色を持つ立派な椅子だ。

 王座の間。

 そう言えば聞こえが良いと同時に、多少なりと堅苦しく感じる者も居るかもしれない。しかし現在のその場所は、ただ広いだけの事務室と大差なかった。何故かと聞かずとも一目見れば分かるように、会話を交わす彼等が向かい合って座るソファー二組や間に置かれたローテーブルをはじめ、今にも崩れ落ちそうな程高く積まれた書類の束、それを乗せた深茶のデスク、部屋の中央を我が物顔で陣取る長テーブルなど、本来特別である筈のその場所には似つかわしくない日用品が雑多に置かれているからだ。
 強いて言えば、天井に吊るされたシャンデリアと台座に置かれた王座、そして窓の外の風景だけは、日常からかけ離れた特別な存在と呼べるのかもしれないが。
「所詮、金持ちの道楽ですから」
 そう言ってコーヒーに口を付けた壮年の男は、普段であれば見ることの出来ない景色を横目に微笑んだ。それにつられたのか、彼の正面に腰掛ける沢也の瞳も一瞬だけ窓に向けられる。
「俺は好きですけどね。貴方の入れるコーヒー」
「それは嬉しい。しかしね…」
 言いながら手元のカップに視線を落とす沢也にはにかんで、男はしっかりと窓を振り向いた。
「従業員を雇う気力は、もう残っていないんですよ。だからこそ、人が来ないくらいが…一人で切り盛り出来るくらいが丁度良いんです」
「そうですか。しかしそれではまるで…」
「やはり、分かってしまいますか?いいんですよ。私がそう望んでいるんです」
 小高い丘の上に建つ、一般建築より天井の高い建物の三階から見下ろすのは遠く向こう、緑の先に浮かぶ水平線。空と海の曖昧な、しかしハッキリとした境界線に目を細めていた彼は、複雑な表情の沢也を振り向き眉を下げる。
「がっかりしましたか?」
「いえ。貴方自身がそう決断されたのなら…俺がとやかく言う必要は無いでしょう」
 ローテーブルに広げた城下町の区画図の脇にコーヒーカップをそっと置き、沢也は静かに言葉を繋げた。
「時田さん。貴方だって、こんな若造に叱られたい訳では…」
「いや、貴方のことは尊敬してますよ。だから叱られたって構わない。しかし逆に、尊敬しているからこそ…あなたなら、分かってくれるような、そんな気がしたんですよ」
 揺れる瞳を揺れるコーヒーの水面に浮かべて、時田は浅く息を付く。
「だからこそ、あなたにお願いしたんです」
 微笑を浮かべた彼の瞳が捕らえたのは、沢也の手元に置かれた区画図、そして店舗の内装を指示する設計図だ。その傍らに彼自身がデザインした看板のロゴなども見てとれるように、現在二人は新設される「喫茶店」について話し合っている真っ直中。お互いが口を付けているコーヒーも、商品の一つとして提案された物なのだ。
 沢也はいつも通りの曖昧な微笑を返した後、目頭を押さえる時田の囁くような声に耳を傾ける。
「元々、私は人付き合いが苦手なもので。貴族なんて職業…向いてなかったんですよ。社交会だ、パーティーだ、会議だって…毎日毎日付き合わされて、それだけでもうウンザリでしたから」
 己を嘲笑うような言葉尻を小さなため息が追いかけた。並べられた資料の全てを一纏めにして、手元で綺麗に揃えた彼は次に悲しげな笑みを浮かべる。
「しかし、父がそうして稼いでくれたお陰で…私はこの道を選ぶことが出来るわけです。皮肉なものですよね」
 時田自らが語るように、貴族であった彼の父が病気によって他界してからと言うもの、彼は残された数々の問題に頭を抱える日々を過ごしてきた。その過程を見てきた沢也には、彼の言葉に黙って苦笑を浮かべることしかできない。
「父の意思は継いであげられませんでしたが」
 一方的に話を纏めた時田は鞄片手に立ち上がり、ソファの脇に避けて沢也に空いた方の掌を差し出した。
「たまに遊びにいらしてください。コーヒーくらいでしたら、ご馳走しますから」
 同じく起立してその手を取った沢也に向けられた真剣な眼差しが、実年齢より老けてみえる時田の負った苦労の色を忠実に表現する。
「彼等のこと、頼みます」
「貴方の下に居た部下だ。心配は無用でしょう」
「ありがとう。大臣」
 沢也の首肯に笑みを返し、時田は目深に帽子をかぶった。
 そうして片側だけ薄く開いた扉の手前に、深い一礼を残して去っていく彼を見送って。この国の大臣兼参謀である沢也は、一人小さく息を吐いた。そしてぽつりと残されたコーヒーカップの中身を飲み干すと、いつも常駐している書類に埋もれたデスクに歩み寄る。
 出入り口となる扉側から見れば、王座の丁度右隣に当たる空間に置かれた彼のデスクは、最早「デスク」と呼び難い状況にまでなっていた。合間を縫って整理を試みてはいたが、次から次へと増える上に、彼自身が元々片付けが苦手なことも手伝って、山と言うか棟と言うか、とにかくうず高く積まれた書類や資料の類いがこれでもかとひしめき合っている。誰が見ても何がどこにあるのかさえ分からない現状はもう何ヵ月…いや、年単位で続いているかもしれない。
 それでも特別不便は無いと言わんばかりに目的の書類を手に取る沢也は、モノクルを外してデスクの端に置かれていた眼鏡を掛け直す。そうして再三の溜息と共に、そこそこ立派な回転式の椅子に腰掛けた。

 遠くから喧騒こそ聞こえてくるものの、静まり返る空間で。秒刻みに次から次へと、書類を読んでは放る大臣様。そんな彼の傍らには、使っている気配も無いのに古いランプが置かれている。
 アンティークと言えば聞こえが良いが、言うほど高価もないその代物は、火を灯すことで光源となる一般的な構造を持ち、銅と鉄を混ぜ合わせたような深い色合いを基調に、シンプルな装飾が施された、王座の間に相応しいとも相応しくないとも言える曖昧な形をしていた。言ってしまえばそれは沢也が幼い頃に愛用していた、彼の父親の形見でもある曰のある一品なのだ。
 そして同時に、現在の彼にとっても特別な品物の一つとして数えられている。
「良かったの?あれで」
 聞こえてきた囁きに書類から顔を上げた沢也は、迷わずランプを振り向いた。彼の不器用な微笑を受けたのは、灯りの灯らないガラス菅に寄りかかる小さな人影だ。彼は虹色の羽根を羽ばたかせると、ランプの屋根まで飛び上がり、沢也に目線を合わせる。
「仕方ないだろ?」
「でも、あの人が抜けるとまた減っちゃうんでしょ?味方」
「そうは言ってもな」
「気にしてるの?」
 ため息と同時に苦笑を浮かべる沢也の内心を察したかのように、小首を傾げた妖精は空中で胡座をかいた。
「多少な」
「でも、こればっかりは仕方がないことだって諦めてもいるんだね」
 建前と本音を同時に聞いた彼は、早くも納得して宙を仰ぐ。沢也は自分と海羽、そして同じ種族である妖精達にしか見ることのできない彼…結に小さく頷いて、再度ため息を付いた。
「現在の貴族勢力を見れば、そうなるな。まぁ、無理に続けさせた所で、直ぐに潰れるだろ」
「そうなる前に逃がした、ってことだよね」
 二人が考察するように、現在幾つかに分散されている貴族の勢力争いは佳境を極めており、それに巻き込まれた弱小貴族の精神的負担はかなりのものになっているだろう。最近そこからドロップアウトしたのが、これから喫茶店を開こうとしている時田である。
「俺もまだ、甘いな…」
「罪悪感を減らしたって言うのもあるかもしれないけどさ」
「そのまま敵に回るよりは、ってのもあるな」
 敵味方の概念はそれぞれだが、沢也にとっては国の方針に近い考えを持っている人々が味方であり、時田以外に上げるならば、孝や夏芽などがそれに当たるだろう。彼等のように基盤がしっかりしている貴族であれば、多少の揺さぶりに動じることなどないのだが、資産や人員が十分でない貴族にとっては、致命傷になりかねないのが実際の所だ。
「じゃあやっぱり最善だったのかもね」
「そうであることを願うしかねーな」
「時田さんの事ですか?」
 会話に割り込んだのは、今しがた部屋の脇にある戸を開いた人物。二人が振り向く前から想定していた通り、音もなく扉を閉めた蒼の微笑が小さく傾いた。彼には沢也の独り言として聞こえていた筈だが、来客の予定を把握してさえいれば、おおよその予測は付くだろう。
 沢也は王座を挟んで隣にあるデスクへ腰かける彼に頷くと、欠伸を漏らす結に目配せをした。彼はそれに微笑んで身体を伸ばすと、そのまま昼寝の姿勢を取る。
 そうして結が寝息を立て始めるのを見届けた沢也は、判子を手に作業を始めた蒼に返答した。
「あれはもう、十分やったさ。」
「ええ。最後まで彼に使えた使用人達の退職費用に、次の就職先の世話、その後も…」
「それだけじゃねえよ。あの物件、ここの管理なんだ」
 区画図の隅っこに記載されたその建物は、実際に赴けば良く分かる通り、人目に付く付かない以前に見付けることすら困難な程、裏路地の入り組んだ位置にある。だからこそ買い手が付かず、処分に困っていた所に時田が手を挙げたと言うわけだ。
「それって…」
「ああ。毎月の家賃を城に寄付するようなもんだ」
「もしかして、随分と期待されてしまっていますか?」
「そういう訳じゃないだろ。あいつなりの好意ではあるようだが…」
「では、有り難く受け取っておくことにしましょうか」
 沢也のため息にそう返し、蒼は思い出したように入り口を見据える。
「ところで、工事の手配は済んだんですか?」
「いいや。まだだ」
「今日は遅いですね、門松さん」
 幾つかある部署のうち、飛竜の盗賊団が一手に引き受けるのが「郵便課」だ。中でも門松は毎日と言って良いほど、飛竜に乗って城と城下町の荷物を回収しにやって来る。盗賊である以前の本業が大工である彼は、来たついでに城の修理や修繕を請け負ってくれることもあるのだ。
「上空の風が強いのかもな。っつーか、荷物はまとまってんのか?」
「はい、今日はなんとかお待たせせずに済みそうだと思っていたんですが」
「互いにタイミング悪いな」
 指を回す蒼に苦笑を返した沢也は、またしても小さくため息を付いた。そんな彼の様子に違和感を覚えたのだろうか、蒼の微笑が微かに変化する。
「憂鬱そうですね?」
 何気なく呟かれた一言を拾い上げた沢也の口元が小さく引きつった。彼は手元の書類に視線を固定したまま、眉間にシワを寄せて一息に捲し立てる。
「当たり前だろ。財政は相変わらず厳しいし、馬鹿な貴族が訳わかんねぇ事で騒ぎ立て、姉貴のおかげで厄介なお節介発動され、挙げ句の果てに昨日の晩久々に仮眠取ろうとしたら馬鹿な女が部屋占領してるし…まじ、ろくなことねえ…」
「苦労が絶えませんね、沢也くんも」
「人の事言えた義理じゃねえだろ、テメエも」
「ええ、まあ…。あ、そう言えば…」
 止まらないため息を曖昧にいなして、蒼は然り気無く、しかし確実に話の軌道を逸らした。
「リーダーさんからの報告書、もう読まれました?」
「ああ。お前は電話で直に聞いたんだったな?」
「ええ。こちらの状況を伝えるにしても、あなたとお話してからの方が良いと思いまして」
「状況っつってもな、然程変化ねえが…」
 話題変更に乗った沢也が最近の書類をパラパラと捲りながら呟くと、蒼も頷いて始めかけた作業の手を止める。
「そうですね。経済面で言えば、そろそろ商業や工業方面が安定してくれる筈なんですけど」
「上手いこと回ればな。邪魔が入る確率のが高いが…」
「あちらはどうなりました?環境保護の」
「説明繰り返した所で埒が開かねえ。このままじゃ延々堂々巡りだ。正直、なんとかしてぶったぎるしかねえよ」
 舌打ち混じりの断言に肩を竦めた蒼は、立ち上がりがてら二つの書類を沢也に差し出した。
「では、良い機会ですし…早めに動きませんか?とりあえずこの二ヶ所から切り崩して行くことにして」
「妥当だろうが、最初の奴等ほど簡単にはいかないと思うぞ?」
 受け取った書類の内容を一瞬で把握した沢也が苦笑する。それに怯まず笑顔を強めた蒼は、着席と同時に判子を手に取った。
「承知の上ですよ。しかしそうなるとまた新しい人材が必要ですね。義希くんと倫祐くんが帰ってきてくれたのは大きいんですが…」
 視線を窓の外へと向け、珍しく苦笑を浮かべる蒼に肩を竦め返した沢也は、パソコンでメールを確認して話を繋げる。
「あとは、そうだな。小次郎んとこがそろそろだろ。こっちは時田の部下だけ居りゃあ充分」
「多少落ち着いたみたいですし、ついでにリーダーの方にも協力を要請しましょうか。長期戦に持ち込むには、ちょっと分が悪そうです」
「短期決戦…そうだな、年内に片を付けるか」
「また随分と急ぐんですね?あなたのことですから、もう少し余裕を持つと思っていましたよ」
 予想外の発言に判子押しの手を早めながら、蒼は脳内のスケジュール表を修正し始めた。沢也はそんな彼を横目に、表情を変えることなく小さなため息を漏らす。
「今回は倫が居るからな」
「帰還したばかりだと言うのに、働かせ過ぎじゃないですか?」
「埋め合わせはするさ」
「また、悪いこと考えてません?」
「いや。山となった問題が崩壊し始める前に片付けようとしてるだけだ」
 沢也が言い訳を終えると同時、二人の正面で鎮座していた大扉が僅かに開かれた。出来上がった隙間からすり抜けて入室する人物を見て、蒼がゆっくりと立ち上がる。
「あ、有理子さん。どうでしたか?」
「さすがにキャリアがあると違うわね。飲み込みが早くて助かるわ」
 静かに戸を閉めながら返答する有理子は、片腕に抱えていた書類を持ち直して二人に差し出した。その間にもお互いが距離を埋めてはいるが、未だ接触には至っていない。数秒後、やっとのことで有理子の手から書類を受け取った蒼は、その表面だけを眺めて沢也へと流す。書類の山から手だけを出して受け取った沢也が、ペラペラと内容を確認し始めた。
「これでやっと民衆課が落ち着くな。メイドの手も増えたから、海羽の負担も減るだろ」
「そうね。ああ、メイドさん達は橘さんに任せてきたわよ?」
「問題ないだろ」
 有理子は大きく伸びをして長テーブルに添えてあった椅子を引き寄せると、それに座りながら残りの書類を手元に呼び出す。
 因みに橘さんとは、城の清掃やその他部署の人間への給仕をするメイドを取り纏めるメイド長さんの名前だ。典型的な委員長タイプではあるが、おっとり型の海羽や面倒見の良い有理子とも不思議と馬があう中年の女性で、メイド関係のことは彼女に任せっきりにしてあるとかなんとか。
「で、他は?」
「八雲さんに任せておけば大丈夫でしょ。っていうかあの人、蒼くんと同い歳なのね?」
「時田の従兄弟だそうだ。職場のことはとりあえず民衆課の奴等に任せるにしても、部屋の事なんかで不備が無いかちゃんと聞いてきただろうな?」
「うん、今のところは大丈夫そう」
 そう言って書面にサインして、有理子は手帳の確認に移った。
 沢也が目を通し終えた書類の一部に履歴書が挟まっている事からも窺える通り、彼女は時田の部下だった人達に新しい職場となる厨房や民衆課の案内をして戻った所だ。報告の合間、普段と変わらぬ笑みを浮かべる蒼の視線に気付いた有理子が、何かを誤魔化すかのように余計な一言を付け加える。
「今度城下町も案内してくれって、八雲さんが」
「へえ。お前が案内すんのか?」
「そうよ?」
「珍しいですね。あなたが承諾なさるなんて」
「へ?そう?あ、それより蒼くん。明日のスケジュールなんだけど…」
 素知らぬ顔で話を逸らす有理子に引っ張られ、肩竦めと一緒に退出した蒼の代わり。先程有理子が入ってきた扉から飛び込んできた、聞き慣れすぎて耳の痛くなるような声を聞きつけて、パソコンにタイピングを始めた沢也の口から小さなため息が落ちる。
 部屋に入ってきた彼女は脇目もふらずに早足で沢也の居るデスクに近寄ると、捨てられた子犬よろしく彼の名を呼んだ。
「沢也ちゃーん」
「…何でお前だけなんだよ」
「急な仕事入ったって、煙に巻かれてしまいました」
 情けない声と共に項垂れた沙梨菜を無言の圧力で押し潰さんとする沢也を、帰還した蒼が背後から宥める。その声に反応して沢也の腕から離れた沙梨菜は、沢也の頭の先にある書類の間から蒼に向けて、自らの顔の前で両手を合わせて見せた。
「ごめんね、蒼ちゃん…ご期待に添えなくて」
「だから放っておけっつーのに」
「そうですか?いよいよ自棄になっていそうな雰囲気も漂っていますけど」
 視線だけで問題の人物を示す蒼にため息を浴びせ、頭に擦り寄る沙梨菜の顔を押し退けた沢也は、ボリュームを落としつつもしっかりと悪態を付く。
「余計な気苦労かけやがって。こっちはそれどころじゃねえっつーのに」
「バレていないと思っているんでしょうから、そう怒らないであげてくださいよ」
「バレねえわけねえだろ」
「まあ、良く良く考えればそうなんですけどね」
 傾いた微笑が向いた先には古びたランプ。鬼に金棒とはこの事だろう、と笑顔の裏側で密かに思い直す蒼を尻目に、沙梨菜がこそこそと話を切り出した。
「ねえねえ、沢也ちゃん」
「用は済んだだろ?さっさと引っ込め」
「もぅ、せっかく沙梨菜がものすごーい解決案を…」
「どうせくだらねえ案だろうから聞きたくもねえ」
「まぁまぁ、そう言わずにぃ、ほら、沙梨菜が沢也ちゃんの部屋に住めば、沙梨菜の部屋を義希に…」
「却下」
「ええええええええ!」
 止めの手が入らぬようにと早口に捲し立てたにも関わらず、早々にぶったぎられて涙目の沙梨菜に向けて、蒼の人差し指が回される。
「それについては残念ながら、すでに別の解決案があるんですよ」
「へ?そうなの?」
「っつーか、無理にでもあの馬鹿連れてくりゃ解決すんだろ?んなことよりさっさとルーティンワーク終わらせろ」
「ぶぅ。分かったよう…でもその代わりにぃ…」
「やって当然の仕事に代わりはねえ」
「うー」
 コロコロと表情を変える沙梨菜と、眉根にシワを寄せたまま睨みを利かせ続ける沢也。向かい合う二人の様子に見かねたかのように、絶妙なタイミングで蒼の助け船が入った。
「そう言えば、持ち込んだ私物をなんとかして欲しいって言ってましたよね?沢也くん」
「おま…」
「分かったよ沢也ちゃん!後で取りに行くから♪」
「来んな阿呆!」
 颯爽と自室に続く廊下へと繋がる扉に吸い込まれていく沙梨菜を、怒号の後に続いたため息が追いかける。追い打ちとして舌まで打った沢也は、視界の端に映り込む蒼の微笑をも睨み付けた。
「余計なことでした?」
「分かっててやってんだから質悪い」
「ため息ばかり付いていると、幸せが逃げてしまうそうですよ?」
「元から持ってねえよ、そんなもん」
「まぁ、そう言うことにしておきましょう」
「俺を弄ってる暇があんなら、一つでも多く判を押せっつーの」
「良いじゃないですか。たまの気晴らしなんですから」
「本人を前にして言う言葉か」
「そもそも、沢也くんがそんな憂鬱そうな顔をしているのがいけないんですよ?」
 何を言っても微塵も変化しない微笑に負けてか、俯いた沢也は表情を変えて蒼に向き直る。
「これで文句ねえだろ」
「逆に恐いです」
「ふざけんな」
 沢也の製作した満面の笑みがひきつるのを見届けて、堪えていた笑いを誤魔化す為に書類に向き直った蒼は、判を押す手を早めるのとは裏腹に、ゆっくりと口にした。
「仕方がないですね。貴方が少しでも早く時田さんの喫茶店に足を運べるようにするためにも、きびきび働くことにしますか」
「んな満足気な顔で言われてもな」
「明日からまた鬱憤を貯めることになりますから、来週も宜しくお願いしますね?」
「来週までに解決することを祈るしかねえな」
 止まらないため息に任せて吐き出した呟きは、彼等の右方向に流れていき、渦中の人物にたどり着く手前で消え失せる。隣の部屋で沢也と同じようにため息に溺れているであろう彼女を想像した蒼は、隣でまたもため息を付いた沢也に向けて首を傾げた。
「解決させる気は無いんですか?」
「生憎他人の世話してる暇なんてないんでな。特に、恋愛関連は」
「ろくなことにならないから、ですか?」
「分かってんなら、テメエもホドホドにしとけよ?」
 呆れの混じった忠告に頷いて、蒼は自らの見解を口にする。尤も、彼も二人の詳しい事情までを理解している訳ではないのだが。
「大丈夫ですよ。あの二人が拗れたとしても、内輪だけの話で片が付きますから」
「お前がそう言うならそうなんだろうが…どのちみちめんどくせえ事に変わりはねえな」
「面倒くさいで済ませられると言うことは、思いの外順風満帆だと言うことだと思いますよ?僕は」
「例えそうだとしても、だ」
 もう何度目になるか。蒼は沢也が吐き出した深い深いため息に掻き消された言葉を拾い上げ、自分の口で声にする。
「憂鬱…ですか?」
 優しい笑顔に曖昧な笑みを返した沢也は答えを言わぬまま、ただただ小さく溜め息を落とした。



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