あれから


 久々に晴れ間の覗いた6月のとある日。
 空と同じく凪ぐ海に、並んで浮かぶ2つの島に吹く風も心なしか穏やかだ。
 簡略化すると大きな楕円を描いたような本島と、その東側に長い橋で繋がれた離れ小島がこの国の領土の全て。本島の10分の1にも満たない小島の全域は、一つの都市として整備された特別な区画として知られている。


 王都ブロッサム。

 人々がそう呼称する街は、凛々しく佇む真っ白な城の下で今日も賑わいに溢れていた。
 城下街の入り口でもある橋の出口から、城の建つ小高い丘の手前まで続く、レンガ造りの建物が形成するメインストリート。様々な商店が入り乱れるその場所に響くのは、商人の声、買い物を楽しむカップルの声、タイムセールに突撃する主婦の雄叫び、喧騒に紛れる旅人のため息、そして…。
「こらああああ!待てええぇえい泥棒おおおおぅ!」
 盗人を追う近衛隊長の叫び。
 人々の入り乱れる街並みを縫うように走り、犯人を追い詰めて行く彼の名は…
「頑張れ〜!義希くん!」
 店先から焼き鳥屋の女店主が呼ぶ通り、つい数ヶ月前にこの国の「第一近衛隊長」に就任した能天気男、義希だ。
「おばちゃーん!後で焼き鳥10本予約ね!」
「あいよ!あんな奴早く捕まえちゃいなさい!」
「任しといて!」
 走りがてら余裕ぶってそんな会話をする義希が、おばちゃんの声援に手を振り終えて前方に向き直ると、数メートル前を走っていた筈の泥棒男が視界から消え失せる。何事かと思って足の回転を緩めた彼の視線の先、人垣に囲まれた道の中央で知った顔が微笑んだ。
「残念だったなぁ義希、またしてもおれ様に手柄をありがとう!」
「小太郎!お前、ほんと抜け目ねぇなあ」
「お前がトロいだけだろうが!こんな奴に長いこと構ってる暇はないんだ…よっ!と」
 義希の感嘆にも似た落胆を気にも留めず、言いながら窃盗犯の手を後ろに捻った小太郎は、慣れた手付きで手錠をかける。
 たったの2年でよくもここまで丸くなったものだと、長年相方を務めているくれあが漏らす通り、何処と無く優しさを帯びた彼の横顔を眺めながら、義希はホッと息を付いた。
 赤髪から金髪へと戻った上、短かく切り揃えられたヘアスタイルから溢れる爽やかさのせいで、昔の彼をよく知る人物からすると別人と見間違うほどの変貌を遂げてはいるが、義希の目の前にいるのは正真正銘、間違いなく小太郎である。今となっては慣れたものの、かく言う義希も2ヶ月前。久方ぶりに会った彼を見てかっくりと首を傾げただけでなく、それから暫くは認識するのに手間取って良く固まっていたわけで。
 そんな周囲の困惑を他所に、髪型に加えて心境の変化を表すかのように、常に持ち歩くようになった白いストールを慣れた手付きで後ろへ回した小太郎は、お馴染みの微笑と悪態で小走りの義希を迎える。
「仕事は山程あるんだ。ちんたらしてねーで、さっさと連れてけよ?」
「ああ、小太郎。オレ、これから約束が…」
 押し出されてよろけた泥棒を押し返しながら、義希は右手を顔の前に立てた。小太郎は無情にもピンボールのように返却されたそれを受け取りながら、微かに眉をつり上げる。
「はぁ?!ふざけんなよ!焼き鳥なんか後でも…」
「違う違う!沙梨菜のとこ!今日はホラ、海辺でやるだろ?念のため警備してくれって頼まれてるんだよ」
 慌てて両手を振りつつ一息に言い訳を並べる義希に、ややあって小太郎のため息が浴びせられた。
「…チッ、仕方ねぇな。貸しだからな?」
「了解。後で焼き鳥、分けてやるからー」
「おう、レバーな、レバー!」
 言い終わらないうちから駆け出した義希を声だけで追いかけて、隙を見て逃げ出そうと足掻く泥棒の首根っこを掴んだ小太郎は、口端を緩めて背後に佇む城へと足を向ける。

 義希率いる「第一近衛隊」そして小太郎率いる「第二近衛隊」は、王都を守る守備隊として日々活動中だ。
 国の設立から任務に当たっていた小太郎とは違い、2ヵ月前に一人旅から帰ってからと言うもの、右も左も分からぬ状態で隊長を務めることになった義希ではあるが、犯罪者の確保から迷子のペット探しまで、小さな探偵事務所と言う名の何でも屋の如く、毎日のように街の北から南、東から西までを必死になって奔走してきた。その甲斐あってか、前々から功績を上げる小太郎をあれよあれよと押し退けて、今やすっかり下町の顔として定着してしまったようである。こうして街を歩くだけであちらこちらから声がかかるのも、彼特有の愛嬌と、持ち前の話しやすさがもたらした結果かもしれない。
 隊長としてうんぬんは兎も角として、町の人達の心をがっちり掴んだ第一近衛隊長は、今日も今日とて下町をひた走る。
 頭に刻み込んだ地図を駆使して最短ルートで目的地に辿り着いた義希は、立ち止まると同時に目の前の光景を細めた瞳で見据えた。
 街の最西端には本島へと続く橋の入り口があり、その手前にある小道を右に曲がるとちょっとした広場に出る。いつもは曲がりくねった煉瓦の小道の両脇を、グラスグリーンの芝生が覆っているだけの殺風景な場所なのだが、今日ばかりは勝手が違っていた。
「みんなー!今日も楽しんでいってねー」
 そんな挨拶の後、海を背景に響くのはのびやかな歌声。そして、熱の籠った大音量の歓声だ。
「またうまくなったなぁ、沙梨菜」
 一人そんな事を呟きつつ、最後尾から見渡す特設ステージは圧巻だった。
 沙梨菜は今、王都を代表するアーティストとして活躍中の、言わば有名人である。
 本来ならSPでも付きそうな程人気のある彼女ではあるが、一度ステージから降りさえすれば一般人となんら変わらりない生活を送っているなど、普通のアイドルとは一味違う親しみやすさも人気の理由の一つだろう。実力は勿論、義希だけでなく町中のお墨付きだ。
 暫くの間、自分がこの場に立った意味も忘れて耳だけに神経を注いでいた義希は、ハッと我に返ると同時、目の前に広がるすし詰め状態の観客達の合間をどうにかこうにか潜り抜ける。
 そして透き通るような歌声を聞きながら、本来の任務である警備を遂行し。難解な音程を軽く歌い上げる彼女に感心しつつ、スタッフと退場の打ち合わせに勤しんだりと、きっちり仕事に打ち込んだ。彼がそうこうしているうちに、あっと言う間に終了した1時間半の特別ライブ。アンコールまでを満喫した観客達は、誰もが笑顔で帰っていく。
 その全てを送り出し、通常営業に戻った広場を振り向いた義希は、遠く向こうから駆けてくるオレンジ頭に手を振り返した。
「義希〜!ありがとね、来てくれて♪」
「いやいや。沙梨菜の頼みとあっちゃあ、来ないわけにはいかないだろ?」
 あれだけ歌った後だと言うのに、元気に叫びを上げる沙梨菜の巻き付き攻撃を受け止めた義希は、折角作ったキメ顔を崩してふにゃりと白い歯を見せる。そんな彼に両手に持っていた缶ジュースのうち1つを差し出した沙梨菜は、笑みを強めて肩を竦めた。
「おかげさまで何ごともなく楽しめました♪」
「しっかし、また上手くなったろ?もっと金取ってもよさそうな気がするけど」
「いーのいいの♪沙梨菜だって、楽しませてもらってるわけだし…」
 晴れ渡る青空の下。潮風薫る広場の真ん中で景気良く缶のプルトップを引き、ポカポカ陽気に優しい冷たさを堪能する。口の中に流れ込むオレンジジュースの甘さと、隣で謙遜する沙梨菜の両方を微笑ましく思いつつも、義希は眉根を強ばらせたまま短く唸った。
「でも今、城がさぁ…」
「そうなんだけど、沢也ちゃん…あれ以上は受け取ってくれなさそうだし」
「まぁ、そうか。あんまり貸し作りたくないのか…?いや、でもそんなこと言ってる場合か、とも思うけど」
 難しい話が苦手な二人がうんうん唸った所でどうにもならないだろうが、それでも唸りたくなるような問題を、国のトップに立つ仲間が抱えている。それをどうにか緩和しようと自分の稼ぎを寄付する沙梨菜であったが、それはそれで色んな問題があるようで、あまり貢献できていないのが実際のところである。
 口を尖らせ不服そうにする義希に曖昧に微笑んで、沙梨菜は話を別方向へと逸らした。
「そう言えば義希、最近有理子に会いに行ってる?」
「ん?ああ…いや…なんか忙しそうでさぁ…」
「えー。そんなこと言ったら、沙梨菜も会いに行けなくなっちゃうよぅ…」
 もごもごとお茶を濁す義希に詰め寄る沙梨菜。その気迫と悲し気な瞳に押された義希は、渋々といった感じで首肯する。
「…そっか、まぁ…そうだよなぁ…んじゃ、まぁ。後で行ってみる…かな?」
「ホント?じゃあさじゃあさ!片付け終わったら一緒に行こう?絶対だよ?」
「わかった、わかったよ。じゃあまた、連絡くれな?」
 何度も念を押す沙梨菜の頭を撫で、なんとか笑顔を浮かべてはみるが眉は下がったまま。無意識のうちに表情に滲み出る本心に参りながら、義希はその場を後にする。
 そうしてぼんやり空を仰ぎ、頭の中に言葉を並べた。

 ”会いに行く”…か。
 沙梨菜が言う通り、ここ数日の間有理子には会っていない。
 いや、数日所じゃないかもしれない。数週間………いや、もっとだっただろうか?

 会いたくない、と言えば嘘になる。……いや、どちらかと言えば会いたいんだろうけど。
 だけど、勢いで約束してみたは良いけど、やっぱり気が進まないな…

 なんて言うか…今はちょっと…

「こらっ!お前、何ぼーっと歩ってんだよ!」
 頭の中を考え事に占領されていた義希の意識を引き戻したのは、小太郎による助走付きの脳天チョップだ。
 歩行をオートモードにでもしていたのだろうか、いつの間にやら辿り着いていた街の中央付近。その脇に位置する隊の駐屯地手前で攻撃を受け、痛みの余り足を止めた義希は、涙目で振り向き小太郎を見下ろす。
「ってぇ…酷いじゃんか、小太郎…」
「何度も携帯鳴らしてんのに、シカトする方が悪いんだろーが」
「うっそ?マジ?気付かんかった」
 発信履歴の映る携帯のディスプレイを突き出され、慌てた義希は尻ポケットから携帯電話を取り出した。ディスプレイは元より、赤いランプの点滅までもが小太郎からの着信を忙しなく知らせている。
 小太郎は苦笑いで謝罪を示す義希にため息を浴びせ、電話で伝える筈だった用件を口にした。
「警備が終わったならさっさと昼休憩入れって、ボスが」
「おっけー。ってか小太郎は?休憩終わったん?」
「ぁー、残り15分弱ってとこか」
「んじゃ、その残り時間をアレして約束の焼き鳥でも買いに行くか」
 有無を言わさず小太郎の腕を引き、歩き始めた義希はふんがふんがとご機嫌な鼻唄を奏でる。その旋律が先程まで聞いていたであろう沙梨菜の持ち歌だった為、隣を歩く小太郎の脳内でも曲のリピートが始まった。
「今日も盛況だったみてえだな」
「つーか、”せーきょー”じゃない日なんて、ないんじゃないか?」
「おれ様も仕事じゃあなけりゃあなぁ…」
「ああ。ドラム、練習してるんだっけ?」
「おうよ!おれ様のバチさばきがありゃあ、盛況も盛況、満員御礼で立ち見までわんさかだろうに」
 上機嫌で頷く小太郎のエアドラムを見据えつつ、義希は進行方向から漂ってくる甘じょっぱい香りに鼻をひくつかせた。人ごみの中からそんな彼を目ざとく見つけ、大きく手を振る人影が2人の視界にも入ってくる。
「いらっしゃい、待ってたよ!」
「あんがとね、おばちゃん。ついでに小太郎…」
「おうよ、義希にツケでレバー10本包んでくれ」
「あいよ!準備するから、ちょいとそこで待ってなさい」
 一軒家の出窓に似た店先で焼き鳥を受け取った義希は、代金を受け渡しながら小太郎の注文に頷いたおばちゃんの言葉に従った。
 赤い暖簾を日除けに早速串にかじりつく彼の右耳に、食欲をそそる鳥が焼ける音が張り付いて離れなくなる。食べながらもヨダレが垂れそうな義希に呆れた眼差しを向ける小太郎、そして忙しなく焼き鳥を回しながら汗を拭ったおばちゃん。二人は満足気な第一近衛隊長の表情を見て思わず笑みを浮かべた。
 そんな煙たくも穏やかな空気の中、とりもも、皮、つくね、ウズラウインナーと順番に平らげる義希に、おばちゃん特有の思い出し話が炸裂する。
「そうそう、ねぇ義希くん。今度の七夕祭りなんだけどね?」
「ああ、毎年やってるんだってなー?話は聞いてるよ」
「そうかい、そういやあんたは初めてだったね」
 帰還してまだ数ヵ月だと言うのに馴染みすぎだろと、二人からの苦笑を受けた義希が「そー言われてもなぁ」と膨れた所で小太郎が話を軌道に戻した。
「んで、その祭りが何だよ」
「それがね、家の人が屋台出したいって張り切ってるんだけど、いかんせん腰がねぇ…」
「なるほどなるほど?つまりオレ達で屋台を運んだらいいんだな?」
「まーったく義希くんは!話が早くて助かるよっ」
 困り顔だったおばちゃんは、笑顔になると同時に頷く義希の腕を叩く。痛がる義希を他所に、彼女は逆の手で包み終えたレバーの串を小太郎に押し付けて、レジから割引券を取り出した。
「また連絡するから!これ一応持っといて」
「りょーかいー」
 裏面に走り書きされる電話番号を認識した義希は、おばちゃんから受け取ったそれをジャケットの胸ポケットに仕舞い込む。
「あれ?喰わねえの?」
 足を進めつつも背後に振っていた手を休めた義希が、袋の中の最後の3串を取り出しながら首を傾げると、小太郎はぶら下げていた袋を胸の辺りで抱え直した。
「ばぁか、くれあにやるんだよ。あいつ、最近貧血気味でな…」
「成る程。そういや、そろそろ産まれるんじゃねえか?」
「馬鹿言え…まだ7ヶ月だぞ?」
「え?ってか、何ヵ月で産まれんの?」
「…相変わらず馬鹿だな、お前は」
「う゛ー…馬鹿って言うなあ!」
 そう言って膨れる片手間焼き鳥を頬張る義希を他所に、口を開けた小太郎が前方を指し示す。
「あ。相変わらずの奴がもう一人」
「ん?ああ、おーい、倫祐ぇ!」
 串を持ったままの手を高く挙げブンブンと振り回す義希に、正面から歩いてきた彼が気付かぬわけもなく。しかし特に反応が無いまま、二組は当たり前に駐屯地へ続く小路の手前で合流した。
 小太郎の言う通り、昔と変わらぬ雰囲気で瞬きの挨拶を繰り出す倫祐に、義希の朗らかな問いかけが行われる。
「これから入り?」
 こくりと頷く倫祐の、若干長い方の横髪が微かに揺れた。聞いた所によればどうやら散髪に失敗したらしく、昔の義希と同じく左側だけが短くなってしまったらしい。それでも義希とは全く印象が違うのは、髪色だけでなく全体的に短髪なせいもあるだろう。昔に比べて短くなった前髪が、彼のぼんやりとした表情を強調しているようにも見えた。
「じゃあ今日は入れ違いだなぁ。オレ、そろそろ上がりなんだ」
 そんな倫祐の無表情な返答に対し、残念そうに顔の筋肉全体を下げて答えた義希は、手に持ったままだった身の付いていない串を袋の中に収める。その横からなめ回すように倫祐を眺めていた小太郎が、一歩踏み出して彼を見上げた。
「っつーかてめえ、腕鈍っちゃねーだろうな?」
「鈍るどころか、強くなってたりして」
「ばぁか。そりゃおれ様の話だっつーの」
「え?そーなん?」
「そーだっつーの!お前ら二人がいないうちににょっきにょき成長して、以前とは比べもんにならねぇレベルのパワーとスピードを手に入れたおれ様のレイピア捌きに恐れおののくがいいぜ」
「はー。そこまで言うならいっそ、手合わせしてみたらいいんじゃね?」
「上等じゃんか。逃げるなら今のうちだぜ?鉄面皮ー」
 言葉の応酬に合わせて義希と小太郎を交互に見据えていた倫祐の首の動きは、小太郎が振り向いたことで中断される。鋼鉄の人差し指に押された腹部を見下ろして小首を傾げる倫祐の代わり、二人の間に割り込んだ義希が提案した。
「ほら小太郎、そんな無駄な挑発してないでさぁ。焼き鳥、オレが届けてやるから…暇なうちに行ってきたら?」
「えー…」
「いーじゃんか。今なら道場も空いてるだろうし、オレもたまにはくれあに会いたいし。お前は帰ったら会えるだろ?」
「仕方ねえなぁ。ま、いっか。あいつも会いたがってたし」
「心配しなくても、小太郎からってことにしとくからさ」
「当たり前だ!って!待てコラ!ホントに逃げる奴があるか!」
 会話が終わらぬうちに駐屯地に向けて歩き始める倫祐を、小太郎が慌てて追いかける。放り出された焼き鳥袋をなんとかキャッチした義希は、曖昧な笑顔で二人の背中を見送って、街の南側へと足を進めた。

 残りの休憩時間を配達に捧げる事を決めた彼は、小太郎とくれあの家がある住宅街までの間に点在する食べ物屋に立ち寄ることにする。どれだけ食べ足りなかったのかとツッコミたくもなるが、パン屋とたこ焼屋とクレープ屋とアイスクリーム屋で大量に美味しいものを買い揃えた彼は、食糧片手…いや、両手に、腹ごしらえがてら午後の散歩と洒落こんだ。
 往来の激しいメインストリートから一本逸れた南側の大通に入ると、途端に空気が落ち着いて感じる。昔ながらの駄菓子屋や八百屋、定食屋や和菓子屋等が建ち並ぶ和風の通りは、行き交う人の量も雰囲気に合わせて大人しい。
 それによって、義希は進行方向から手元に意識を集中させることが出来るわけで、言わずもがな常人が食べる一食分の倍以上はあるであろう、パンやらたこ焼やらクレープなどは、あっと言う間に彼の胃の中に収まった。
 そうして満腹感溢れる義希がクレープのしっぽを口からはみ出させたまま見上げるのは、彼の記憶にも残る青い屋根の一軒家。某見晴らしの良い草原にポツリと佇んでいたそれを、根こそぎここまで運んだのは彼等が結婚を決めた翌日だそうで。今やすっかり街に馴染んだ小さな家は、敷地の二分の一を占める庭の奥で、ひっそりと主人の帰りを待っている。何処から仕入れてきたのか、見上げるほどの高さがある広葉樹につるされた手作りのブランコが、時折訪れる風に合わせて揺れていた。
 義希は昔のことを思い出しながら、背の低い冊越しに中の様子を伺う。鼻をくすぐる芳ばしい香りからして、もしかしたら食事中かもしれないと躊躇う彼は、庭の手前にあるインターフォンに人差し指を掲げたまま空を仰いだ。
「何してるのかな?隊長さん」
 突如響いたその声に、大袈裟過ぎるほど身を跳ねさせた義希は、素早く息を整えた後、屈みこむことで笑い声を発し続けるマイクに目線を合わせる。
「驚かすなよぉ、くれあぁ…」
「だって、なかなか押してくれないんだもの。そんなところに突っ立っていないで、こっちにいらっしゃいな」
 情けない声にそう告げた彼女は、マイクから離れて直ぐに玄関を開けてくれた。苦笑と共にこじんまりとした門を抜け、くれあが手招く方へと進む義希の足を石畳が導いてくれる。テンポの良い足取りを止めると同時、手をかけた扉を肩で支え直す彼の笑顔を受けて、くれあの微笑も心なしか強くなったように思えた。
「お久しぶりね、義希くん」
「ああ、久しぶりっ!ってか大丈夫なん?!腹、随分でかくなってるけど…」
「あら。まだまだ大きくなるわよ?」
「まじで?破裂したりしないよな?」
「あははははは!やだな、もう。打ち合わせでもしてきたの?小太郎も全く同じこと言ったんだから」
 爆笑するくれあに参ったと言わんばかりに頭をかいてみせ、義希は手元の焼き鳥入りの袋を差し出す。勿論、小太郎からの差し入れだと伝えることも忘れずに。
 くれあは内容を確認してクスリと漏らすと、膨らんだお腹にそっと報告をした。義希はそんな彼女を微笑ましく見守りながら、胸の奥に様々な感情を沸き上がらせる。安堵…いや、なんとも表現し難い感覚を伝えようと頭を働かせて唸る彼に、くれあのクスクス笑いが注がれる。義希は彼女の表情から思考が読まれたことに気付き、照れ隠しに肩を竦めた。
「元気そうで良かったよ」
「義希くんの方こそ。小太郎がいつも心配してたから」
「え?オレを?」
「そう。有理子ちゃんに構ってもらえなくて、なんか暗いって」
「う…あいつめ…」
「ふふふ、会えなくても筒抜けです。えへん」
「だ、大丈夫!オレもくれあのこと聞いてるし!」
「ホントに?」
 腰に当てていた手を後ろに回し、たじたじな義希を見上げるくれあ。義希はその悪戯な眼差しに押され気味に、しかし間を開けずに回答する。
「最近貧血気味だって?」
「うん…まぁ、少しね」
「この前は子供の名前のことでちょっと喧嘩したとか」
「だって、小太郎ったら頑固なんだもん」
「ってか、あと8人は産んでもらうとか言ってたけど…」
「そうよ?野球チーム作るんですって」
「本気だったんだ…」
「無謀な野望が本気な所が、小太郎の凄いところよ?」
 再び自慢気にふんぞり返ったくれあに、唖然としていた義希の口元も笑顔に変わった。
 訪れた小さな間。萎んでいく二人の柔らかな笑顔の中に、滲み出てきた寂しさが帯びる。
「義希くん」
「ん?」
「あの人大丈夫そう?職場で」
「うん、見た感じは。…あ、浮気の心配なら…」
「ううん、そうじゃなくて。なんて言うか…人間関係とか、ね…」
「ああ、そんなこと?それなら心配いらないよ。あいつ、何だかんだ言って人望あるから」
 笑い飛ばすように言い切った義希の、疑いようもない朗らかさに安堵したのか、強ばっていた表情筋を自然と緩ませたくれあは、同時にホッと息を付いた。
「そっか。なら安心した」
 彼女がそう言って胸を撫で下ろすと、何処からともなく振動音が聞こえてくる。直接それを体感した義希がポケットを探すと、携帯電話が部下の名前を表示して着信を知らせていた。
「おっと、呼び出しだ」
「忙しいのに、悪かったわね」
「…いやいや、気にすんなって」
 義希は残念そうなくれあの肩竦めを受けて彼女の頭を撫でると、携帯をしまってしっかりと視線を合わせる。
「またゆっくり遊びに来るよ。大事にな!」
「ありがとう、義希くんもね」
 最後に頷くくれあの膨らんだ腹部にも小さく挨拶を残し、義希はその場を立ち去った。

 くれあの姿が見えなくなると、鳴りやんだ携帯を取り直し、要件を聞くために慌ててリダイアルする。コールが始まるか始まらないかと言ううちに繋がった通信、相手側の喧騒が大きいことからして、何かの事件だろうか。
「悪い、どうした?帯斗」
「隊長ー!また例のブツ持った若いのが!早く来てください、俺達だけじゃどうにもならないです!」
「まじか!場所は?」
 返答を聞くやいなや駆け出す義希の背後、彼を呼び止めたのは沙梨菜の声だ。
「義希ー?まだ終わらないのぉ?」
「ぅあ、沙梨菜!悪い、急な要請入っちまって、残業なんだ。いつ上がれるかわっかんねーし…だから、その…えーと、一人で行ってきて?」
「えー」
「悪いごめん悪かった!この穴埋めはいつか必ずっ!」
 その場で足踏みを続けながら顔の前で両手を合わせる義希に、沙梨菜は仕方がない事が分かっていながら、突っ込まずにはいられない部分だけを早口に指摘する。
「そう言いつつ、ちょっと安心したような顔してるのはどーして?」
「うっ…そ、そりゃあ…その…」
「もー!今度根掘り葉掘りほじくり返しちゃうんだから。覚悟しとくんだぞー?」
「ああ。みんなに宜しくー」
 沙梨菜が放った解放の合図と同時、脱兎の如く駆けていく義希の背中を周囲の人々が見送った。


 平和な日常は潮風の中に。

「あれから」先に続くのは、広大な海に浮かぶ小さな島の、小さな物語。



topcp02 [大臣の憂鬱]