恋唄 義希が故郷から王都に戻って少しした頃。丁度4月半ばくらいだろうか。 城の中でも比較的狭いその部屋は、王座の間の右側…丁度海羽の仕事部屋に当たる「魔導科」のすぐそばにある。 扉を開けば正面に小さな窓があり、通り抜ける風が度々埃と紙の束を巻き上げた。 部屋の半分は本や書類、ファイルや封筒など紙を主成分にした文具類が占領している為、生活スペースは極めて少ない。唯一行き来出来るのが、扉側の4分の1とバスルームへの通路だけ。その為、窓の開閉は魔法やナガモノを使って行わなければならないなど不便なことこの上無いのだが、部屋の主は然して気にしていないようだ。 そんな部屋の入り口を背にして左側。滅多に使うことの無いベットの上を陣取って、その下で岩のように動かぬ主を呼ぶのは、鈴を鳴らしたような高い声。 「沢也ちゃん」 静かな中に確かに響いたにも関わらず、呼ばれた当人はピクリともせず書類に書き込みを続けている。彼をこのように呼ぶのは世界中を探しても彼女だけだろう、そして彼と言う人物にこれだけあからさまに無視をされてめげないのも、恐らく彼女だけかもしれない。 「ここのコードなんだけどね、ちょっと弾いてみてくれないかなぁ?」 ずりずりと座ったままベットから降り、かじりつくようにして書類と向き合う沢也の目の前に抱えていたエレキギターを割り込ませた沙梨菜は、悪びれもせずにふにゃりと微笑んだ。 彼女はかれこれ数時間前に突然訪問してきたかと思えば、沢也の必死の防衛を掻い潜って部屋に居座り、自らの仕事である作曲に精を出していた訳で。現在ベットの上には書類の代わりに、書きかけのスコアが散らばっている状態だ。 どうして彼女が作曲場所にそこを選ぶのか、その理由を知っている蒼の計らいが現状の全ての原因である。 沢也は「点検しますから」とか何とか言われて取り上げられた武器入りのポケットルビーの帰還を待ちわびながらも、諦め半分に沙梨菜を振り向いた。何故ならこの場で魔法を使おう物なら、彼の魔法の性質上甚大な被害が出るから。 因みに自分の力だけで即座にバリアを張るには、まだ呪文の短縮が不十分…つまり海羽の魔法陣が書かれた時計も知らぬうちに強奪されていたわけだ。 蒼が事実上の上司になってからと言うもの、時折起こるこの事態。どちらかに譲る気が芽生えなければいつまでもこのままだと理解していながら、どうにもならないことをお互いに理解してしまっているのだからどうしようもない。 そんな二人の思惑などお構い無しに…と言うか気付く様子もなく、目の前で眼を輝かせ続ける彼女にため息を浴びせ、沢也はギターを引ったくる。 いきなり弾けと言われて弾けるものかと思われるかもしれないが、記憶力のせいか手先の器用さのせいか、はたまた両方か。彼にかかればギターだろうがベースだろうが、どんな難解なスコアをも滑るように奏でるのだ。ただし、全てを試したわけではないので詳しくは分からないが、どうやら特定の弦楽器に限られるらしい。流石に全てをマスターしていたら人間じゃねえとは、それを目の当たりにして怯えた小太郎の台詞である。 スコア上に記された3小節程、一度見ただけで直ぐに弾きこなした沢也は、最後の音が途切れるのも待たずにギターを突き返した。 何度練習しても思うようにいかず、いっそ変えてしまおうかと悩んでいた矢先、耳にした音の全貌が沙梨菜の体を硬直させる。 ややあって、いつまでもギターを受け取らない彼女を振り向いた彼に、彼女は身を乗り出して懇願した。 「も…もう一回!」 輝きを増す眼差しに舌を打ち、スコアを叩いた沢也はため息混じりに皮肉を吐く。 「なんでこんな簡単なコードも弾けねえんだよ」 「簡単じゃないよ!沢也ちゃんが凄すぎるんだよう!」 自分で制作しておきながら苦戦するのもおかしな話だが、沙梨菜が極端に楽器が苦手な訳ではなく、弾きなれた彼女のバンドメンバーですら眉をひそめる程難解なスコアなのだ。そんな意味籠った熱い視線を受けながら、沢也は無視して書類に向き直る。 「知るか。暇なやつに頼め」 「待ってー?お願いだからもう一回だけっ!この通り…!」 顔の前で手を合わせ、拝むように頭を下げた沙梨菜がジリジリと近付いて来ることに気付いた彼は、傍らに置かれたままだったギターを掴むことで距離をとった。 沙梨菜は彼がギターを取ったことで承諾を得たと思ったのだろう。正座したまま携帯を顔の高さまで掲げ始める。 「何してやがる…」 「こうしとけば何回も見れるでしょう?」 点灯する赤いランプ。向けられたカメラのレンズ。沙梨菜の若干荒い息が告げるのは、音楽とは関係の無い思惑だ。 「練習が目的なら手元だけで充分だよな?」 携帯を上から押さえて下にさげ、引き吊った笑みで威圧を与えてくる彼に。 「ですよねー…」 沙梨菜は残念そうながらに朗らかな笑顔で返答した。 その時撮影した動画は今も沙梨菜の携帯電話にしっかりばっちり保存されている。 幾度となく再生されたその3小節は、この度めでたく形になった。 本日行われるレコーディングは、そのスコアの完成形を収録する為のものなのだが、一番最初に完璧な音にした彼は、その事実を知らぬまま。 今日も変わらず王座の間の一角に座り込み、紙の山とにらめっこを続けている。 数日前まで祭りの後始末に追われていたその場所も、今は何とか通常営業を取り戻した状態だ。…とは言え、書類に埋もれていることに変わりはないのだが。 太陽も天辺近くに昇ったと言うのに、紙が落とす影でどこか薄暗いデスク回り。傍らの結も暇にかまけてお昼寝中のポカポカ陽気。程好い気温と、窓から入ってくる風の優しさに眠気を誘われながら大きく伸びをした彼は、ファイルタワーの合間から見えた蒼の横顔に眉根を寄せる。 「随分とご機嫌だな」 目を瞑り、頭にヘッドフォンを装着し、手元ではアイスティーとアップルパイを弄びながら、のんびりと音楽鑑賞していた彼は、沢也の皮肉に笑顔を向けた。 この静かな中でも音が漏れてこなかったくらいだ。いくらヘッドフォンをしていようとも、沢也の良く通る声の方が大きく聞こえていたかもしれない。 蒼は曲の切れ目で再生を止めると、ヘッドフォンを首にかけてストローをくわえた。そしてパソコンに向かいながらため息を吐く沢也に、穏やかでいて鋭く問い掛ける。 「沢也くんは聞かないんですか?」 何を?それは聞くまでもない。何故なら一時間ほど前に、沙梨菜が宣言高々にレコーディングに出掛けて行ったから。そうでもなければ多忙な蒼がわざわざその場で、わざわざ茶菓子まで用意して、わざとらしく音楽に耳を貸すような状態にはならないだろう。 沢也はそう推測してはため息を付き、うんざり顔で返答した。 「聞いたら何か得するのか?」 全てを読まれた事など元から分かっていたかのように、当たり前に肩を竦めた蒼はフォーク片手に呟き返す。 「まぁ、そう仰るとは思ってましたが…」 「誰が好き好んで耳にタコ作るかよ」 沢也が舌打ち混じりに悪態を付くのと同時、部屋の脇の扉が開いて有理子が顔を覗かせた。 「それって、沙梨菜の唄の内容知ってるってことよね?」 にっこり笑顔で割り込んだ彼女に、沢也の訝しげな顔が向く。 「は?」 「だって、耳にタコが出来るんでしょう?」 「あの声を聞いてるだけで、って話だぞ?」 唄の内容とやらを何となく察しつつ、知らぬ存ぜぬを押し通す彼に笑顔と真顔が毒を吐いた。 「末期ですね」 「ええ。末期だわね」 そのまま固く頷き合う二人から逃げるようにして、沢也は書類の山を引き寄せる。既にコーヒーも空。とうに昼も過ぎたと言うのに、未だ昼食を食べない彼を見て有理子があからさまなため息を吐いた。 蒼は彼女に肩を竦めて食事の用意を促すと、沢也の意識が仕事に固定されぬようにと話を振る。 「沢也くん、好きな歌は無いんですか?」 問い掛けを受けて流された鋭い横目に押されつつ、人差し指の代わりにフォークを回した蒼はゆったりとした口調で追加した。 「沙梨菜さんの持ち歌以外で、ですよ」 補足を聞き終えて息を吐いた彼が回答を思案する間、残った唐揚げやら何やらでサンドを製作する有理子がぼんやりと呟く。 「そう言えば、あんたが音楽聞いてるのって見たことないかも」 半ば乱暴にぎゅむぎゅむと詰め込まれるレタスやらトマトやらマヨネーズなどを不憫に思いつつ、沢也は素っ気なく有理子の記憶を否定した。 「本に載ってて気になったのは一通り聞いてるし、自分で弾きもする」 そう言って飽きずにため息を溢した彼は、瞳を細めて言葉を続ける。 「けど、言われてみればねえんだよな」 その小さな呟きは、有理子と蒼を振り向かせた。 沢也はそれを気にするでもなく、独り言のように口にする。 「これ、っつー曲が」 それを最後に反応を絶った彼は、有理子に握らされた残り物サンド片手にパソコンの画面に目を走らせた。 脳内の片隅に、聞き覚えのある曲目を延々と並べ連ねながら。 処変わってこちらは屋外。 初夏の風がやんわりと流れていく。 運ばれてきた海の香りが微かに漂う下町の中心部、配達されたお昼御飯を膝の上に乗せたまま、彼女はぽやんと空を仰いだ。 午前中から始まった収録も現在お昼休憩中。折角良い天気なのだから、とテラスに出て狭い空を見上げる沙梨菜の隣で、本日の配達係りに任命された義希も同じく目を細めている。 丸い容器に山と盛られたカツ丼と、同じく丸い容器一杯に詰められた親子丼と、二つの黄色を消費しながら休憩する二人の空気はいつも通り和やかだ。 「どうなん?レコーディングは」 「うん♪順調だよ?」 「そかそか、そんなら良かった」 レコーディング…とは言っても街に専門の施設が存在する訳ではなく、個人が所有する設備を借りて行われている。二人の現在地もマジックアイテムにより防音バリアを施したアパートのテラスだ。 そのアパートの一室の持ち主であり、レコーディング設備を所持する個人と言うのが沙梨菜のスポンサーであり、プロデューサーであり、ファンでもある変わり者、通称「先生」。何の先生なのか、もとい何かを教える立場に居るのかどうかすら怪しい所だが、その辺りは敢えて触れずに済ませている。 他にも曲を演奏してくれる専属のバンドメンバーや、経理に広報、運営方針などを決定する中心メンバーを始め、会場の受付や整備を担当してくれる人達など、合わせて20人程度がプロジェクトに参加している状態だ。その他に親衛隊などのファンクラブも幾つか存在するが、何しろ数が数なので全てを把握できてはいない。 音楽配信からライブ、グッズ販売まで手広く扱うこのビジネスはあっと言う間に広まって、現在国のあちこちで歌手やバンド、アイドルが誕生している。 こうした娯楽が定着し、生活に密接して浸透したのも国が平和な証拠。沙梨菜はそれを噛み締めながら、日々歌い、作曲し、躍りながら生きている。それが七夕に掲げた彼女の感謝の所以だ。 だからこそこの平和な日常に満足し、何もなくとも顔を綻ばせる沙梨菜の横顔を見て、義希の首が不思議そうに傾いていく。 「沙梨菜は悲しくないのか?」 「へ?何が?」 唐突な質問にすっとんきょうな声を出し、空から顔を下ろした彼女に彼は質問の意図を補足した。 「沢也に唄を聞いてもらえなくて」 ぱちぱち。沙梨菜の瞳が二度瞬くのを待って、義希も同じように瞬きをする。沙梨菜はその間に事実を認識し、自分の中で詰問を始めた。 確かに沢也はこの2年間、沙梨菜が製作した曲を聞いてくれたことがない。しかしそれを今更どうこう考える程、切羽詰まった心情でもないのが正直な所だ。 寧ろ少しでも関わることが出来て、役に立つことができて、同じ屋根の下での生活を続けられて…充実した毎日を送っているせいか、満足している自分がいる。 沙梨菜は脳内の考えをどう言葉にしようか迷いながら、その中でも率直な返答を口にした。 「うー、うん、まぁ…哀しいと言えば哀しいけど…」 歯切れの悪い彼女の答えに、義希も朗らかに見解を呟く。 「まぁ、沙梨菜の場合は唄自体が沢也宛の熱烈なラブレターみたいなもんだからな?」 「まあ、そーゆうこと」 義希の言葉通り、沙梨菜の作った曲は主に恋愛をテーマにしたものが多く、その歌詞は軽いものから重いものまで様々だ。時折恋愛から外れたキャッチーなものやギャグ路線、シリアスなものも作ってはいるが、前者に比べて売れ行きは芳しくない。 沙梨菜はやはり短く唸ると、困ったように空を仰いだ。義希はカツ丼で膨れた頬をもとに戻すと、どこか無表情に問い掛ける。 「じゃあやっぱ、聞いてほしくないのか?」 「そりゃあ…聞いてほしいけどさぁ…」 「沙梨菜の作ったんじゃなくてもさ、ほら。今日のレコーディングのおまけみたいに」 「ああ…うん、沙梨菜もね、リクエスト頼んだことあるんだけど…」 空を見詰めたままそう言った彼女は、やはり困った表情のまま義希を振り向いた。 「これと言ってなし、だって」 その情景をハッキリと想像できてしまったことにまたも苦笑して、義希も困ったように空に問う。 「無いもんかねえ…好きな曲の一つや二つ…」 オレなんて沢山有りすぎて大変なくらいなんに、と続いた呟きを最後に、二人はまた朗らかさを取り戻して昼食の続きを楽しんだ。 さて、二人がそうしている間にも、彼は周囲に蠢く不穏な動きに気付いた様で。 「何を企んでやがる」 紅茶とアップルパイを片付けて、デスクの前に立った蒼に細めた瞳を向けた沢也は、傾いた笑顔に届くようにと舌を打つ。 「もうバレてしまったんですか?」 「そう何度も同じ罠にはまってたまるか」 「そう仰ると思って、今日は変な小細工を省略することにしたんですよ。誉めてくれますよね?」 「誰が誉めるか。小細工は無しにしても、何かしら押し付ける気だろ?」 「当然です。何故なら今日は…」 そう言って携帯電話を取り出した蒼は、日付を指差し沢也に示した。 「彼女の誕生日ですから」 にっこり穏やかなその雰囲気に、物言いに、沢也は惑わされる事無く一蹴する。 「知るか。そんな呪われた記念日」 「何も食後のバースデーケーキ付き誕生会に出席しろとは言いませんから、せめて…」 それでも引くどころか身を乗り出し、デスクの上の唯一の空白に手を付いて。蒼は俯いたままの沢也の顔を覗き込むように提案した。 「今日の夜、睡眠時間まで。彼女の為に時間を作ってあげてください」 「それ、俺に何のメリットが?」 「勿論、タダとは言いません」 即答に間髪入れずに返答し、彼は沢也の目の前にポーチを滑らせる。 「…何だよこれ…」 「僕のポケットマネーです」 訝しげにそれを見下ろす沢也に、何でもないように答える蒼ではあるが、その厚さから察するにかなりの額になりそうだ。 「ハンター時代からの貯金ですよ。これがあれば、少しは楽になるんじゃないですか?」 確かに、削りに削った今の月給からここまで貯めるのは不可能だろう。納得して顔を上げた沢也は、蒼の笑顔を見て口元を歪ませる。 「ほう…返さなくても構わない、って顔だな」 「有意義に使って頂けるなら本望です」 「コレクション、集められなくなっても泣くなよ?」 「ご心配には及びません。現在、頂いているお給料の殆どを貯金に回せてしまうくらい、忙殺されていますから」 「ま、違いねえ」 「では、交渉成立と言う事で」 「相変わらず有無も言わせねえな、お前は」 「背に腹は変えられないでしょう?」 早々に決定された今日のスケジュールに苦笑して、沢也は大きくため息を付く。 「本当、質悪い…」 片手で覆われた不機嫌顔は、数秒後にはそのままの状態で書類に並ぶ文字列へと向けられた。 そうしてすっかり陽も傾いた頃。 漂ってくる甘い香りから逃げるように、一通りの業務を終わらせた沢也は溜まった仕事を持って自室へと帰っていった。 追加のおまけレコーディングを依頼された事で帰宅が遅れた沙梨菜が、王座の間の大きな扉を開けるや否や、その瞳を丸くしたのは言うまでもない。 大きなバースデーケーキにチョコチップクッキー、オレンジのフレーバーティーにシトラスのムース。 中でも一番目立つのが、山と盛られたシーチキンライスの上に乗せられた、特大のタンポポオムレツだ。しかも贅沢な事に白と黒の二種類のシチューがソースとして添えられている。 これが9人の間だけで行われる、年に数回の贅沢だ。とは言っても、今年はやけにばたついていたために、これが初めての開催になるのだが。 仲間のうち何人かは仕事で不在だが、それでもこれだけの準備をしてくれたことに感動した沙梨菜が、密かに涙を浮かべたことに、みんながみんな気付かぬ振りをしたのだった。 そうして騒ぎに騒いだ後の彼女を待っていたのは、彼女にとって一番のプレゼント。 相も変わらず狭苦しい一室の、重そうなダークブラウンの扉をノックするも返答はなく。しかし引いたノブは抵抗無く手前に寄せられた。 そっと顔を覗かせると、いつもの位置でベットに寄りかかり、本を片手にコーヒーを啜る彼の姿が見える。 沙梨菜はこそこそと入室し、いつもの通りに彼の隣に腰を下ろした。それでも沢也は何の反応も示さない。 そのまま数分間、二人は無言の時を過ごす。それが当たり前になってきているようでいて、お互いに毎回違う空気を感じ取りながら。 「沢也ちゃん」 沙梨菜は仕事を取り上げられたも同然だと言うのに、それでも文字に視線を落とす彼を呼ぶ。すると当たり前に振り向かぬまま、返答だけが返ってきた。 「何だよ」 「この前のとこ、もう一回弾いてみて?」 ズリズリと、背後から引っ張り出されたゴテゴテの装飾が施されたギターを横目に捉え、沢也は声を低くする。 「動画はどうした、動画は」 「ぶー。良いじゃん、一回だけだからー」 答えにならない駄々をこね、腕に取り付いた沙梨菜の頭を押し返しながら、沢也は本を机に伏せた。 「分かったから離せ。ついでに死ね」 「わーい」 続けてギターとスコアを引っ張られ、反動を利用して後ろに押し返された沙梨菜は、おかしな体勢のまま諸手を挙げる。 沢也はそんな彼女にため息を浴びせると、前触れも無くスコアの始めとなる音を奏でた。それはそのまま譜面通りに流れ、一つの音楽となる。 前回の中途半端な状態とは違い、きちんと完成された音符の連鎖。途中から組み込まれた歌詞は曖昧に、主旋律を紡ぐは沙梨菜の歌声だ 。 鼻唄のようでいて歌いこまれたそれは狭い部屋中に充満し、そのまま余韻となって風と共に外に流れる。暗い海に浮かぶ紺の雲が、時の流れを示すように僅かに動いていた。 あっと言う間に終わった演奏。暫しの静寂に漂っていた独特な世界は、沙梨菜の感嘆によって現実へと引き戻される。 「やっぱり沢也ちゃんの音が一番良いなぁ…」 うっとりと両手を組み、新興宗教宜しく沢也を拝む彼女にギターを返却しながら、沢也は無関心に息を吐いた。 「それ、あのモヒカンが聞いたら泣くぞ?」 「確かに、うっちゃんには悪いけどさ…でも仕方ないじゃん。こればっかりは」 うっちゃんとはつまり沙梨菜のバンドメンバーであるギタリストなのだが、その話は横に置いておいて、と腕を横に振った沙梨菜は、本に意識を戻さんとする沢也の顔の前に顔を割り込ませる。 「で、沢也ちゃんは?」 「は?」 「感想だよう♪初めてのセッションの感想ー!」 うきうきわくわくと、鼻息も荒く問い掛けてくる彼女を一瞥し、その鼻先を横に押しやった沢也は、本に向かいながら小さく呟いた。 「その曲、誰が作ったんだ?」 不意な問い掛けに、沙梨菜は思わず固まった。固まってわざわざ大袈裟に考えてはみたが、答えなんぞ元から一つしかない。 「誰って…沙梨菜だよう。沙梨菜の曲だもん」 「へえ」 「へえって…もうー」 それはもう余りにもどうでも良さそうに返されたので、思わず膨れた沙梨菜は姿勢を直してギターを抱える。そして文字を見下ろす沢也の横顔を眺めながら思うのだ。 でも、何だかんだで最後まで文句言われなかったな…と。 加えて彼が、意味の無い質問はしないと言うことも良く心得ている彼女は、その真意を邪推しては一人怪しい笑顔を浮かべるのだった。 cp15 [当たり前]← top→ cp17 [赤に問う] |