Milky Way


   透き通った群青に浮かぶ白い靄。光の砂を散りばめたようなその流れはぐるりと一周、環になっているらしい。
 まるで天を走る川のようだから、天の川。夜でも明るい場所からは見ることが難しい程、淡い輝きを放つ星の集合体だ。

 空に川があるだなんて、初めて聞いたときは信じられなかった。

 それは勿論、僕が子供だったからって言うのもあるけれど。
 あの頃の僕が暇なときはにずっと、空を眺めていたせいもあるのかもしれない。


 当時の僕には、不思議とそれが見えなかったのだ。




 赤、白、黄色、緑、青。
 細長い葉の茂る細い枝に、くるくると巻き付けられた紙のチェーン。ふさふさともさもさときらきらと、毛皮のような金や銀のモールが放つメタリック感も手伝って、お祭りらしさもひとしおだ。
 街中から集まった短冊を携えた笹の葉飾りは、街の中心である中央広場の真ん中、噴水の中に据えられた。
 短冊が濡れぬようにと、控えめに調節された水が流れる音が涼しげに、祭りの熱気を和らげている。
 祭りのメインであるその飾りを中心に、ぐるりと広がるのは短冊同様、色とりどりの屋台だ。
 普段より出店も人出も三割増しの中央広場の一角で、煙を扇ぎながら竹串を掲げる一人の男。店名入りの赤いハッピと、トレードマークでもある金髪が作り上げる眩しいコントラストを持つ彼は、祭りに負けじと声を張り上げる。
「いらっしゃいらっしゃいー、美味しいオイシイ焼き鳥だよーん!あ、そこのおねいさん、一本どうー?」
 現役を退いてはいるが、流石はナンパ師1号と呼ばれていただけあって、その愛嬌に食い付いた女の子グループが、きゃいきゃいと列に加わった。
 その様子を満足そうに眺める義希の背後、彼が持つ「最後尾」の看板の陰からボソリと恐ろしい台詞が落ちる。
「おいこら、あんま女の尻ばっか追い掛け回してっと、お前がよーく知ってるこわーいねーちゃんに言い付けるぞ?」
 びくーっと大仰天なリアクションを見せた義希を意地悪く笑ったのは、頭に巻いた鉢巻きに二枚の短冊を挟み込んだ小太郎だ。
「ちょ、小太郎…マジ勘弁…!」
「奢ってくれんなら、黙っといてやるよ」
「相変わらず抜け目ねえなあ…」
「へへーん、お前が普段から抜けすぎなんだよ」
 舌を出し、顔の横で両手をウゴウゴさせる小太郎に、客を案内しながらも義希はぷっと膨れて見せる。
「むー、だぁってさぁ…何だかんだで沙梨菜のライブも、なぁーんも起きなかったしさぁ…」
 昼過ぎに開始された沙梨菜の七夕特別ライブは、義希が言うように先程滞りなく終了した。大盛況のステージ中、打ち合わせ通りの配置でギラギラと目を光らせいた彼等が捕まえたのは、せいぜい際どい隠し撮り犯くらいだろうか。
「ま、あんだけ厳戒体制にしたにしては拍子抜けだわな」
「何にもないに越したことはないけどさぁ…」
「まあ、でも。最初から沢也が何の警戒もしてなかったってことは…そーゆうことなのかもな」
「ん?えーとー…………どゆこと?」
「ああ、いいイイ、どーせお前には理解できない話だろーし」
「小太郎、いつから頭良い側になったん?ってか、つもりなん?」
「お前…時々思い出したように沢也か蒼みてーの乗り移らせるのやめろし」
 不意打ちの皮肉に苦笑して、小太郎はそのまま義希の前…つまりは焼き鳥屋台の最後尾に並んだ。
 義希はそんな彼の頭にくっついた短冊に書かれた、くれあと彼のバカップルな願いを盗み見て笑みを漏らす。そしてふっと真顔に戻ると、細い声で問い掛けた。
「ってかさぁ、倫祐は?今……なにしてるん?」
「んあ?そりゃあ街の警備だろ。なんで?」
「いや、さっきさ…」
 振り向いた小太郎を見ないまま、義希は人の流れに視線を移す。まるでその人混みの中から知人でも探すかのように。
 小太郎がつられてそちらを向けば、義希は詰まった言葉の続きを呟いた。
「海羽を見たから」




「海羽さん、ほら見てください。あちらで何やら見世物をやっていますよ?まあ、どうせくだらないものでしょうが…折角です、見ていきましょう」
「いえ、あの…」
 急ぎの書類を出しに来ただけなんだけど…と言いかけて、海羽は口をつぐむ。何故ならその瞬間、目の前の秀の顔が強張ったから。
「やはりやめておきましょう。用事はこの先でしたよね?」
「あ…はい…」
 突然の撤回にキョトンとした海羽の腕を取り、秀はスタスタと人混みを進み行く。彼の物怖じしない態度のせいで、普通なら歩くだけで苦労する筈の人出三割ましの中央広場ですら、難なく歩くことが出来るのだが。彼と自分が通るためだけに、わざわざ避けてくれた人達には本当に申し訳ないと海羽は顔を俯かせる。
 自分よりも背の高い秀の後ろに隠れるようにして歩いていた彼女は、大通りに出ても変わらず道の真ん中を歩こうとする彼を置いて人の流れに乗った。それに気付いた秀は、直ぐ様海羽に追い付くと、やはり彼女の前を歩く。
 どうしてだろう、海羽はいつもそう思うけれど直接理由を聞いたことはない。視界が悪くなることすら諦めて、黙って後に続くのが常である。
 しかしそんな状況の中でもきょろきよろと周囲に視線を巡らせてしまうほど、海羽には無意識に往来を観察するクセが付いていた。
 それは恐らく、「もしかしたら……」という思いが形になって、彼女の行動に現れてしまうのだろう。
 きっと、彼は今も仕事中の筈だ。この異常なまでの人の多さの中でも、普通より背の高い彼なら、もしかしたら見つける事ができるかもしれない。
 海羽がそう思い当たったのは、街の入り口を入って少し歩いた頃、談笑する近衛隊員とすれ違った時。それからずっと、前を行く彼の隙を見ては黒い影を探していた彼女だが、ここに来るまで影は愚か、近衛隊員すらも見付けられずにいるというわけだ。
 鑑定所までは、まだもう少し距離がある。その間に秀が興味を示すものは殆ど無いだろう。あるとすれば、その先の商店街。用事の後、何だかんだで引き留められて、帰る頃には薄暗い筈だ。
 海羽はこれが最後のチャンスだろうと一人頷いて、歩く人々の残像を追い掛ける。
 人の流れは彼女達が進む中央付近を境目に、城方面へ進むものと橋方面に進むものとで綺麗に分断されていた。
 いくら秩序があるとは言え、止めどない流れを見る限り、一度離れてしまえば見付かるまでに時間がかかるかもしれない。
 首を回しながら考察して、前を向く。その時微かに香った煙草の匂いに、海羽の足が止まった。
 これだけの人手だ。中には煙草を吸っている人も少なくないだろう。それでも彼女は諦めが付かずに、僅かな希望に想いを寄せる。
 別段珍しい香りでもないのに、何処か懐かしい気持ちになるのは何故だろう。
 立ち止まったことに気付かぬまま先に行ってしまう秀に見付からないよう距離を取り、海羽は気配を殺してゆっくりと、人の流れと薫りに誘われるまま、とある路地裏に足を踏み入れた。


 人が多い。
 当たり前の感想を脳内で呟いて、倫祐はマイペースに裏路地を歩く。
 大通りの何処を見ても沢山の人が詰まっている様は、まるで天の川みたいだ、と。遠目に七夕飾りを認めた彼は思うのだった。
 こう言った人混みで頭一個分上に突き出る身長を持っていると有利なもので。まるでサバンナのキリンの如く周囲の状況を把握していた倫祐は、路地から大通りに戻ると同時に前方からやってくる気配に足を止めた。
 探せば直ぐに、姿が見付かる。数日前に会った時とは違う服装だが、倫祐とは別の意味で目立つ彼は不機嫌そうに橋方面へと向かっていた。
 その様子からして恐らく、彼の背後には彼女も居るのだろう。
 何処か殺気立った空気に目を細め、倫祐は数個先にある路地に入ってやり過ごすことにした。
 角を折れて、通りから射し込む光の途切れた十数歩先、中途半端な位置で立ち止まって、彼は煙草に火を点す。揺れた煙は迷ったように、暫くその場を巡ってから順番に天に上っていった。
 倫祐はそれを追い掛けるように息を上げる。吐き出された煙は緩やかな流れを加速させた。

 会いに行く、とは言ったものの、なんだかんだで時間が取れずに今日まで来てしまったわけで。だからと言ってこの最悪な状況下で会う必要性はないだろうとの判断である。
 勿論、姿を認識した訳でもなければ、特別殺気などを放っていない限り、この人混みで特定の気配をかぎ分けられる程、器用でもない。
 それと同時に、彼は未だ気持ちの整理を付け切れない自分自身に複雑な感情を抱いていた。
 小太郎やくれあの話が信じられない訳ではなく。聞いていないからこそ当たり前の事ではあるが、あの貴族と海羽が笑えなくなったこととの関係性等が一切分からないせいもあって、頭の中が妙に忙しない。
 それはきっと、遠征から帰って日も浅かったあの日に、秀が言ったことを、ずっと本気にしていたせいかもしれない。
 海羽は彼と居れば幸せで、自分が滅法邪魔になる。だから、会いに来るな。要約すれば、そんな内容だったと記憶している。
 それを否定することは出来なかったし、記事のこともある、そして何より…蒼や沢也がその状況を許していると言うことが、彼の間違った認識の手伝いをしていた。
 小太郎の言う通り、現実を見もせずに逃げ回って来たせいで、こうなっていると言う自覚はある。しかしそれよりも、数年ぶりに彼女に会う、その行為自体がかなりの覚悟を必要とするようだ。
 なんとなく…後悔しそうな気がする。
 会ってはいけないような気がする。
 自覚とは別の場所で、自分の中の自分がそう囁いているような気がしていた。
 理由は明白。
 会ってしまった後の、自分の行動が読めないからだ。
 何時かと同じように意識が飛んでしまうような事態を想定すると、やはり踏ん切りがつかない、と言うのが倫祐の本音である。
 少し前まで義希が迷っていたのも、彼には充分理解できた。そして回りが心底心配していることも認識していた。
 それでもそのままで、このままで居ることなどできない、しかしそれでも…という、答えが出ていながら巡りめぐるジレンマですらも。

 目の前に赤い星が点る。
 それは自分が息を吸い込む間だけ、まるで生き返ったように輝きを増すのだ。そう、同時に煙草の寿命を消費して。
 倫祐はその仕草を終えて、肺に吸い込んだ煙を追い出す途中で違和感を覚える。
 背を向けたままの大通り。流れていく沢山の気配の中で、おかしな動きをするモノを。

 彼が彼女だと認識したと同時に。
 彼女も彼の姿を認識した。

 秀と共に進んでいた流れの逆側に紛れた海羽は、不思議とすぐ側の路地から漂う煙に誘われて、通りと路地の境となる位置で立ち止まる。
 十数秒の間。そこだけ時が止まったかのように、煩すぎる喧騒だけが二人の鼓膜を揺らしていた。
 ざわざわとざわめく。周囲、そして心や、神経までの全てが。
 お互いがお互いの中だけでその感覚を覚えながら、無意識のうちに溢れた呼び掛けに反応する。
「倫祐…?」
 控え目な海羽の声。発した本人は驚いて口を塞いだが、背を向けている彼がそれに気付くことはない。

 遠いな。でも、幻じゃない。
 だって僕は、あの制服を着た彼を見たことがないんだから。
 これで分かったよ。やっぱり僕は、無意識に名前を呼んでしまうくらい、それくらい、彼に会いたかったんだ。

 海羽は強い自覚に押されたように、一歩前に足を踏み出す。しかしそれが今の彼女の精一杯。それ以上、動かぬ彼に近付いていく勇気は絞り出すことができなかった。


 このまま振り返らなければやり過ごすことが出来る。それなのに、こんな時に限って何故身体が言うことを聞かなくなるのだろうか。

 硬直する自分自身に頭の中でそんな詰問をしながら、倫祐は観念したように後ろを振り向いた。
 両脇の建物が見事に西日を遮って、日陰になった場所だと言うのに、二人は不思議とお互いの視線が交差したことを認識する。あんなに騒がしいと感じていた喧騒も既に意識の外に追いやられてしまっていた。
 自身の鼓動と体温を感じながら、瞳を揺るがせる海羽と。
 後悔が襲い来ることを理解していながら、目を逸らせずに頭の中で言葉を紡ぎ続ける自分に呆れる倫祐と。
 先に口を開いたのは、当たり前に海羽の方だった。
「あの……あ、あのね?」
 動けぬ代わりに、せめて言いたかったことを。ずっとずっと、伝えたかったことを。
「おかえりなさい…それから…!」
 次は何時、会えるだろうかとか、今目の前に居るのにそんなことを考えながら。海羽は、いつも上げることが出来ずに俯いてしまう顔を持ち上げると、しっかりと倫祐と目を合わせた。
「…ありがとう」
 泣きそうな顔でそう言うと、倫祐は小さな間を置いて躊躇いがちに頷きを返す。それが、伝わったことが、そして返事を貰えたことが嬉しくて、海羽は素直に笑顔を見せた。
 ふんわりと、自然な。
 それは本当に、昔のように。
 意識なんてしなくても、笑うことは出来るんだと。
 海羽はその時やっと、その感覚を思い出した自分に気付く。それと同時に背を向けた倫祐を、呼び止める間もなく自らの名前が遠くで叫ばれている事にも。
 振り返れば、人混みの中で迷惑千万な騒ぎを起こしている秀の頭が遠目にも確認できた。それに、手の中には今日中に送らなければならない書類が、まだ残っている。
 その両方を確かめて、再び振り向いた海羽の目に映ったのは、誰もいない薄暗い路地。すぐそこが曲がり角になっているのだろう、僅かながら足音が遠ざかって行くのが聞こえた気がした。
 海羽は先程まで倫祐が留まっていた場所まで足を進める。意味もなく、その場に立ち止まって空を見上げれば、微かに煙草の残り香が。


 三度目の角を曲がると、そこから先は石畳。足音を殺して歩くのを忘れて、二、三歩進んでしまってから響く音に気が付いた。
 倫祐はそこで一度立ち止まると、空を仰いで息を吐く。
 ついでに吸いかけの煙草をくわえてみたが、いつの間にか根本の辺りまでが灰に変わってしまっていた。
 彼はそれを諦めて携帯灰皿に押し込むと、ぐるぐると始まる思考に任せて気配を殺す。

 髪、伸びたんだな…とか。
 少し痩せたな、とか。
 それ以上に幸せそうに笑った彼女を見て、安心しながらも…その笑顔を思い出すだけで胸が痛むのは、嫉妬している証拠だろうか?それともこれが安堵と言うものだっただろうか?

 あのまま、笑顔で居られるように。

 それを何よりも望んでいる筈なのに。

 小太郎の言葉と、秀の言葉と、そして彼女の笑顔が頭の中で渦を描く。
 夕焼けに染まる街並みと、普段以上に賑わう通りを歩きながら、気を抜けば直ぐにでも飛んでいきそうな思考を、その場に留めるために煙草をくわえた。
 火の点らないそれを弄びながら、うっすらと星が出始めた空の色を確認する。


 日没まであと数十分。


 もう暫くすると街中の明かりが全て消えて、ありのままの夜を受け入れ闇に染まるらしい。
 それこそが、七夕祭りの本来の目的。お祭り騒ぎはついでに過ぎない。
 今日宛がわれた倫祐の仕事は、主にそこからがメインだ。街の火が消えるまでには、持ち場に戻らなければならないけれど。
 それまでは、自由にしていろと先程ボスに言い渡されたばかりなのだ。


 それならば、と。倫祐は踵を返す。
 特に急ぐわけでも無く、人混みを避けて暗がりを進む彼が行き着いた先は、この祭りの賑わいの中でも人気の無い場所だった。
 街の最南端、住宅街の一番端っこに当たる、煉瓦造りの壁の前。
 自身の身長よりも高い防風壁を軽く飛び越えて、その先にある切り立った崖を、段差を越えるかのような軽さでひょいと飛び降りる。
 しかし地面は遥か下方、岩場から突き出た僅かな砂浜へ急降下。辿り着くまでに浴びる風は強く、この時期にしては冷たくも感じた。
 闇に浮かぶ島のように、白く浮き出て見えるそれに風を当て、体を浮かせる事で減速。巻き上がる砂の中心に着地して、舞い落ちるそれらを交わすように横へ数歩、移動する。
 荒波を受ける岩はすぐそこに、しかし水位はそれよりも若干下にあるようだ。
 それを確認して、彼は空を仰ぐ。
 夜の海に浮かぶ光よりも細やかな点が、無数に連なって川を形造っていた。
 余計な光の届かない、同時に人の気配も感じないその場所で。寝っころがって見る星空は、思いの外美しかった。


 小さい頃、よく思った。
 ああ、あれは…
 あの川は、航れそうにないなと。

 光の川を航る術を知らなかったから、と言うよりは直感的なものだったのかもしれない。
 ただ、なんとなく…目が眩むとでも言えばいいのだろうか?上手い言葉はみつからないけれど。
 大人になった今でも、あの川を航る自信は…ない、けれど。
 昔のように、怖いとは思わなくなった。

 本当に、星が願いを聞き届けてくれるだなんて思っていない。
 もうそんなに子供でもなければ、いつのまにやら夢も見なくなってしまったから。
 だけど願いはある。自分には叶えられない願いが、確かにある。

 だからどうか…せめて忘れてしまわないように。

 風に舞った短冊は、星空と同化した海の上をたゆたう。
 次第に沈み行くそれは、当たり前に海底に運ばれるのだろうか。

 それとも…例え幻でも、映し出された星空へと昇っていくのだろうか。




 ゆらゆらと、揺れる星の瞬きが顔を出しきった頃。
 地上に浮かぶ暖かな光が意図的に消えて行く。
 ちらちらと失われていく色は、誕生日に吹き消す蝋燭の光のように。

 城下町を見渡せる城の廊下でその様子を眺めていた有理子は、隣からビール缶を差し出す海羽の顔を見るなり問い掛けた。
「どうしたの?」
「へ?な、何が…?」
「だって…何だか…」
 嬉しそうだから。有理子は緩めきった顔でそう言うと、開いた窓の縁半分を海羽に明け渡す。海羽はそれを素直に受け入れて、俯き気味に返答した。
「うん、あのね…」
 きゅっと握られた瓶の中で、淡いピンクの液体が小さく揺らめく。その揺らぎが落ち着くのを待って、海羽は空に告げた。
「会えたから」
「本当に?」
「うん、ほんと…偶然だったんだけど…」
 目を丸くする有理子に確認され、彼女は顔を赤くする。慌てて顔を伏せて、動悸を押さえるようにして胸を押さえた。そして聞かれてもいないことを口走る。
「髪、ちょっとだけ短くなってて…」
 昔よりも目が、よく見えたんだ。そう言いかけて言い切れなかった海羽に頷いて、有理子は彼女の頭を撫でた。
 良かったわね、と繰り返す彼女がビールの方に気を奪われたのを見届けて、海羽は闇に支配された街並みを見据える。城の中も、ガラス越しに降り注ぐ月明かりだけを光源に、今日だけは事務仕事の全てを休止していた。


 並んで浮かぶ月に誘われて、海羽はゆっくりと空を仰ぐ。

 ああ、あれのことだったのか。
 と、彼女は昔の自分がぼんやり思ったことを思い出した。

 確かに、言われてみれば川みたいだなと、今となっては思うけれど。
 あの頃の僕には、不思議とそれが川には見えなかったのだ。
 じゃあ、何に見えていたか。
 牛乳を溢したみたいだな、と昔は良く思ったものだ。そしてだからミルキーウェイなんだ、と納得したのも覚えている。

 ミルキーウェイ、の方が可愛いけれど。天の川、の方がロマンがあるよな。

 見方も、感じ方も、解釈も、全ては人それぞれで。
 他人を通さないと見えてこない形があるように。きっと関わった人の数だけ、色んな形が見えてくる筈なんだ。
 そしてそれは、どれもが正しくて、どれもが間違っている。
 僕たちはそうやって、選り好みして生きている。


「海羽は何て書いたの?」
「え?」
 不意にそう問われ、振り向いた海羽を待っていたのは空を見上げる有理子の横顔。彼女はそのままの姿勢で省いた問いを繋いだ。
「短冊よ。七夕の」
「へ?!えっと…」
 火が付いたように頭から湯気を出す海羽の反応に、有理子も思わず視線を下ろす。そして彼女が逃げ出さないようにするためか、慌てて振り乱される腕をがっしり掴んだ。
「何々?恥ずかしいこと?」
「ち、違うよ。そうじゃないんだけど、その…」
「じゃあ教えてよー。わたしにだけ、こっそり」
「うん…あのね…」
 酔っぱらった親父の如く絡む有理子に、観念した海羽が闇に馴染む声でそっと囁く。
「倫祐が、幸せで居られますように。…って」
 言い終えて、空を見上げ。ピンク色のジュースを口にする海羽に。瞳を揺らがせていた有理子が、ふっと柔らかな微笑を向けた。
「…そう」
「…届くと、いいな」
「届くわよ」
 見上げる星に頼むようにそう言った彼女に即答して。有理子はその手を握り締める。
「大丈夫。絶対に、届くから」

 街の灯りは点らない。
 それでも明るい夜空の下で。
 薄闇の中、願う声が無数に聞こえた気がした。





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