噂 金と銀、そして漆黒。 三色の艶やかな線が多彩な強弱を持って形造るのは、草木の模様が編み込まれた巨大な門。 高さ5メートルはあるであろう両開きのそれは、左右から真っ白な壁を伸ばして外からの侵入者を拒む。 その内側にある城は、今日も変わらず静かに街を見下ろしていた。 さて。 閉ざされた城門の両脇には、左右対称に槍を持つ、見る人に対照的な印象を植え付ける二人の人物が立っている。 彼等は昼間であれば常にそこに居て、城に出入りする者の記録から情報収集、勿論不審者の排除までを一任されている、まごうことなき門番だ。 しかしながらこの平和な国で、荒事などそうそうあるはずもなく。 「知ってるかい?相棒」 「何をだ?正宗」 「街の噂のことさ」 二人はいつものように空を眺めながら、世間話に花を咲かせていた。 久々に青く染まった空から目を離し、問われた彼は反対側の柱の前に立つ正宗を見据える。 「耳にはしている。が、お前があんな話を信じるとは意外だな」 「信じてはいないさ。でもなぁ、あれだけ広まっているのを見ると…話題にしたくもなるってものだ。違うか?茂達」 「分からなくもないが、お前も実際に見ただろう。その目で」 「そうさ。それにも関わらず、あんな話を信じさせるカラクリに、少しばかり興味があるのさ」 「それは大臣氏の聡明さ故か…」 「はたまた本隊長さんの力量のせいか…」 「しかし、広める側のえげつなさが一番の問題に違いはなかろう」 「やっぱし、君はそう見るのかい?茂達」 「お前の勘も、そう睨んでいるんだろう?正宗」 お互いに頷き合い、ため息混じりに見上げた青空にはゆったりと進み行く真っ白な雲。 「本隊長は大臣が製作した高性能ロボット」 「近付けば容赦なくデータをインプットされ」 「少しでも不穏な動きをすれば」 「叩っ斬られる」 正宗がくりくりと綺麗にセットされた髪を摘まみ。茂達が重そうな眼鏡を持ち上げる。 「……全くもって、下らない噂だよなぁ…」 「それが事実なら、今頃街は大惨事だろうに」 見渡すは緑生い茂る丘の緩やかな坂。その向こうに広がる穏やかな町並みはキラキラと輝いてさえ見えた。 「平和だなぁ、相棒よ」 「ああ、実に平和だな。相棒」 お互いに分かりにくくはあったが、二人は眩しそうに目を細め、微かで曖昧な笑顔を作る。 そんな門番ペアが見据える明るい街の、丁度中間辺り。 毎度お馴染み近衛隊の駐屯地付近で、不機嫌な声が問い掛ける。 「おい、あの無愛想見なかったか?」 問われた義希は、手にした角材を他にぶつけないように垂直に立てると声の主である小太郎を振り向いた。 「いんや。もしかしてまだ……」 「ああ、そうだよ!あれから一度だってまともに話もできてねえよ!」 「ボスやみんなに紹介……だったよな?うーん…」 街は今、七夕祭りの準備期間真っ只中。いつもより往来の激しい通りで、何とか義希を捕まえることに成功はしたものの、良く良く考えたら彼は城暮らしになったんだった…と、小太郎は盛大に頭を掻きむしる。 「くっそ…早いとこなんとかしねえと、いつまでたってもロボット扱いだぜ?あの鉄面皮野郎」 唸りながらも、義希は小太郎が漏らした小言に微かながら笑みを浮かべた。 周囲がしきりに騒いでいる「倫祐の正体」に関する噂話は、勿論彼等の耳にも入っている。長身で無口で無愛想な本隊長、実は沢也が製作したロボットなのではないか、と言うのが共通した内容だ。 「やっぱ、小太郎も心配してたんだ?」 「ばっ…違えよ!コトあるごとにその話になっから、いい加減ウンザリしてきただけだっつーの!」 「たしかに、この前帯斗もロボットにおいしいとこ全部持ってかれたってボヤいてたしなぁ…」 毎度繰り広げられるツンデレをスルーして、義希はふっと遠くを見据える。小太郎は舌打ちで正常運転に切り替えると、前髪をかきあげて眉をしかめた。 「顔が顔だけに間違えられても仕方がねーけどよ、騙されたまんまの馬鹿が多すぎて困るぜ」 「まったく、どっからこんな噂が立ったんだろうな?」 反して眉を下げた義希の溜め息の向こう側、人混みから突き出た黒がフラリと揺れる。 「あ!」 「あ、こらこら倫祐!まてまて、待ってくれよぉう」 小太郎が口を開けて指し示す方向に噂の人物を認め、義希は千切れんばかりに右手を振り乱した。心配することなかれ、彼の左腕の中で同時に揺れる角材は、しっかりと小太郎が取り押さえている。 倫祐は名指しされたことでゆっくりと二人を振り向いて、やはりゆっくりと距離を詰めてきた。小太郎はじわりじわりと寄ってくる彼を待ちきれず、自らも足を進めてその腕を取ろうとする。 「お前なあ、いい加減城まで行くぞ!紹介してえ奴がいんだよ」 「倫祐、オレ、仲直りできたからさ。もう大丈夫だから。な?一緒に行かないか?」 二人にそう詰め寄られながらも、伸びてきた小太郎の手を避けた倫祐は、僅かな間を置いて首を振った。 声が届かないのは、喧騒の中だからではない。相変わらず口を開く気配のない彼を見て、小太郎の眉があからさまにつり上がる。 「……まさかとは思うが、テメエ…あんな男のこと、気にしてんじゃねえだろうな…?」 義希にも、そして恐らく倫祐にも、心当たりはあったのだろう。彼は無口ながらに無言を貫く姿勢を…つまりはスルーを決め込んだようだった。 「待てコラ!」 小太郎は、諦め悪くその背中を追いかける。質問への答えがイエスにしろ、ノーにしろ、このまま放っておく気は微塵も無いのだ。 「くれあが言ってたぞ。海羽、あいつ…あの秀って野郎が来てから、全然笑わなくなったって…」 早足に横に並んで、前を向いたまま駐屯地を目指す倫祐に舌を打つ。それでも、彼は振り向かなかった。 路地にさしかかり、陽の光が途切れた瞬間。立ち止まった小太郎が、熱さに任せて声を荒げる。 「良いのかよ?今のまんまで!あんな奴に、横取りされるかもしんねえんだぞ?」 「小太郎…声、ちょ、でかいって…」 二人の後ろからオロオロと人目を気にした義希が宥めると、小太郎は扉の前で立ち止まった背中に静かに怒鳴った。 「お前は!何もしないで諦めるのかよ!」 倫祐は、そう問われて始めて小太郎の視線を捕らえる。そして、実にゆっくりと首を倒した。 「首傾げて誤魔化してんじゃねえ!せめて一度でも会いに…待てよ!逃げるのか?!」 小太郎の激昂を無視して扉を開いた倫祐は、そのままその中へと入っていってしまう。 「この意気地無し!見損なったぜ!」 言いながらも更に彼を追う小太郎は、次の瞬間扉を入って直ぐの所にあるタイムカードの並ぶ棚に、一枚を差し戻した倫祐と向かい合う事になった。 「……行くのか?」 出来上がった間に問いを落とせば、倫祐は躊躇いがちにではあるが首肯する。 幸い、この忙しい時期だけに駐屯地の中には誰も居なかった。それにも倫祐の答えにも安堵した義希が胸を撫で下ろせば、小太郎も気が抜けたように頭を掻く。 「もしかして、あの……あーと、沢也から言われてた仕事、終わったん?」 何とか内容を伏せて問う義希に、倫祐はまた頷いて答えた。 「なら黙ってねえでヒトコトそー言えっつーの!」 「なーんだ、安心した。んじゃ、小太郎。オレ、焼き鳥の屋台組み立ててくるからー」 「ん、ああ、おう」 「倫祐ケータイ持てないし、連絡取れなくて大変だからさ。誰かしらと一緒に行動さしてくれよ?」 「わーってる」 「勿論小太郎でも……」 「うっせーしつけー早く行け!」 短い路地から出るまで釘を刺し続ける義希を追い払い、泥のように溜め息を吐き出した小太郎は、その間にタバコをくわえた倫祐を見てまた溜め息をついた。 「これはまた、珍しい取り合わせですね」 小太郎と倫祐が城の前に付くなり愛嬌のある顔で出迎えたのは、常に向かって左側に立つ門番、正宗である。 「珍しいもクソも、お前…こいつに会うの初めてじゃねえのか?」 「いえ。自分等は二度ほど御目にかかっていますが」 小太郎の無愛想な質問に答えたのは、門の右側に立つ茂達だ。彼は倫祐に入門表を差し出して更に続ける。 「確か、遠征から帰還した時と…」 「そのあとに一度だけ来てますよねえ?」 二人ぴしっと人差し指を立てて頷き合うのを眺めていた小太郎が、開いた口もそのままに感嘆を漏らした。 「良く覚えてんな…」 「来客日以外は余り人の出入りがないもので」 「平和でいいですけどねー」 正宗のぽやんとした笑いを合図に、倫祐は眼鏡を光らせる茂達にペンと表を返す。 「はい、確かに」 「ごゆっくりぃ」 最初から最後まで対照的な態度の二人に適当に手を振り返し、小太郎は両手をズボンのポケットに突っ込んだ。 そのまま二人は城までの道のりと同様に、無言のまま足を進める。 小太郎的には言いたいことなど山程あるし、この可笑しな空気にもほとほと参ってはいるのだが、如何せん倫祐の放つ空気が何時もよりも重い気がして口を開きかねているのだ。 むぐぐ、と口元を左右に落ち着かなく動かしながら城の二階に到着した小太郎は、上から降りてくる人影を見てぴたりと足を止める。 キッチリ固められた茶色の髪、豪華絢爛な衣装を身に纏うその男は、階段の中腹から二人を見下ろして舌を打った。 「来るな、と言ってあった筈だが?」 低い低い秀のその声は、小太郎の背後でそれを見上げる倫祐に向けられた物のようだ。と、言うのもその場に居るのに蚊帳の外状態の小太郎には覚えが無かったから。 「お前、そんなこと言われてたのかよ…?」 静かな睨み合いが続く中、小太郎が倫祐に手で壁を作って小さく問えば、頭上からあからさまな嫌みが飛んでくる。 「この私を前にしてこそこそ話ですか?まったく、陛下の無能っぷりにも困ったものです。隊長の躾はしっかりするようにと、あれほど願い出たと言うのに…」 「っ!てめ…」 率直な悪口を真に受けて、握りしめた拳を振りかざそうとした小太郎の頭に。常人の倍はあるだろう拳が降り注いだ。 「っ……てぇ…ぅげ、ボス…!」 ゴズッと、鈍い音と共に頭一個分沈んだ小太郎の、声にならなかった叫びを無視して話を繰り出したのは、その拳の主である。 「うちのバカどもが失礼をしたようだ。非礼をお詫び致しましょう」 頭を抱える小太郎の頭を更に下げさせ、自らも90度腰を折ったボスを見て、流石の秀も怯んだようだ。 何故なら服の上からでも十二分に確認できる程の筋肉を持つ、小太郎よりも大きなその人は、何を隠そう彼ではなく彼女なのである。 細めた瞳をそのまま流し、ふんと鼻を鳴らした秀は大仰に腕を組んだ。 「まあ、分かればいい」 「しかしながら、仕事の関係上隊長が城に出入りできないとあっては、国政にも影響があります故」 頭を下げたまま鋭い眼光と指摘を飛ばした彼女は、そこでやっと小太郎と共に垂直に直る。どうやら、ボスも秀の事情は粗方理解しているらしい。小太郎は文句をぐっ押し込めて密かに口を塞いだ。 「そうだとしても、そう易々と許すわけにはいきませんね」 「はて、来客である貴殿にそのような権限があるとは…初耳ですな」 「権限なんぞ、いくらでも取り付けてくれる。いいから早く、そのロボットを追い出せ!」 ビシッと倫祐を指差して、ふんぞり返った秀にニッコリと恐ろしげな笑みを浴びせ、彼女は深く一礼する。 「それならその権限とやらを取り付けてから、正式に命令を下してくださいますか。御客人」 ボスの言葉が終わると同時に、短い沈黙が訪れた。 秀は迫力に押されたかのように一歩足を下げると、また鼻で息をして一口に捲し立てる。 「仕方がない。それなら後は、貴殿等のモラルに託すとしようではないか。せいぜい、上司に迷惑をかけぬよう善処するのだな」 言葉尻を吐き出す間も惜しむようにそそくさと、三階へと帰っていく彼を見送った三人は、各々独自の方法で緊張を払った。 「た、助かったぜ」 「お前は本当にヒヤヒヤさせてくれるな」 ふいー、と地面に向けて息を吐き出す小太郎の頭が、ボスのビンタを受けてスパーンと良い音を立てる。追い打ちにもめげずに口を尖らせて、彼は彼女に食ってかかった。 「仕方ねえだろ、流石のおれ様もあいつみてえなのは苦手なんだよ」 「で。ここに居ると言うことは…何か用があって出向いたのではないのか?」 「ああ、そう、そうなんだよ」 抗議をさらっと無視した相手に不服そうにしながらも、小太郎は背後で佇んだまま動かない倫祐の後ろに回り、その背を押して前に出す。 「こいつ、本隊の隊長。ちゃんと紹介してなかっただろ?」 「ほう。確かに、話には聞いているが会うのは初めてだな」 ふむ、と見上げ気味ながらも威圧の籠ったその雰囲気に、隣に立つ倫祐共々後退りしたくもなったが、それになんとか耐え抜いて、小太郎はモゴモゴと口を開いた。 「こいつ、なんつーか…」 「話には聞いていると言ったろう。精神的な問題で上手く声が出せないそうだな」 「え…?ああ、まぁ…そんな感じで」 小太郎の口からそんなの初耳なんだけど、と漏れたのに片眉を上げたものの、ボスはあっさりとスルーして倫祐に向き直る。 「あたしは絹、司法課の長をやってるもんだ。ボスって呼びな」 「何でか知らねえけど、そう呼ばねえとぶっ飛ばされっからな?」 「何か言ったか?小僧」 「いや、なんも」 耳打ち…ならぬ腕打ちに気付かれて適当に誤魔化す小太郎に、盛大な溜め息を浴びせたボスは太い腕を胸の前で組んだ。 「で、あたしにこいつをどうしろと」 「ああ、ボスから隊員どもに、こいつのこと正式に紹介してくんねえ?おれ等でもいいんだけどよ、身内からよりはボスのがいいかと思って」 「うむ、お前にしては良く頭を使ったようだ。では早速行くとするか。そろそろ昼の報告会だろう」 持ち上げた前髪諸ともそのままバリバリと掻きながらの進言に頷いて、ボスは倫祐の肩を押して進行方向を階下へと定める。 「おい、待て!」 「ああん?」 「あーいや、ボスでなく!」 慌てて二人の背中を呼び止めた小太郎は、またしても凄みにたじたじになりながら、本来の目的である三階を指し示した。 「そいつ、これから王座の間に…」 「城に隊員がおるんか?このボケがぁ!」 「いや、そうじゃないっすけど…」 「つべこべ言っとる暇はねえんじゃ。はよせんか!」 カッと見開かれた、沢也とは別の種類の鋭い目付きに気圧されて、小太郎は仕方なくボスに従うことになる。 昼食ついでに情報交換を兼ねて、という名目で日課的に行われる報告会。 その日出勤している隊員の殆どが狭っ苦しい駐屯地に集合することになるわけだが。 「紹介が遅れたが、近衛隊本隊の隊長、倫祐氏だ」 こんなことでも無ければ、通常5分足らずで終了して意気揚々と外食に赴くだけに。暑苦しい室内の空気は心なしか重く感じられた。 「第一と第二、二つの隊を取り纏めるのも本隊の役割だからな。実質的にお前等の上司に当たる、良く言うことを聞くように」 隊員の放つそれなど押し返さん勢いで言い切ったボスを前に、押され気味ながらも果敢なこそこそ話が開始される。 「言うことも何も……」 「なぁ…?」 隊長三人とボスを除く、集まった十人ばかりがチラリと視線を向けたのは、ロボットとして噂に名高い紹介された張本人。彼は彼で、向けられた訝しげな眼差しにも見事な無反応である。 「そこ、発言は許可を得てから」 「い、いえ…なんでも……」 伸びてきた太い指に仰け反って両手を振った帯斗は、ボスが吐き出した溜め息に合わせて小さく息を漏らした。 「して、本隊長は機械が使えない体質らしい。連絡の都合上、誰かとペアで行動してもらおうと思うのだが…」 ざわつく所か、部屋はしんと静まり返る。 「誰でもいい。組みたい奴はおらんか?」 ボスが間を埋めるように尋ねるも、誰もが目線を四方の壁に飛ばすだけで反応のはの字もない。 耐え兼ねてスッと手を伸ばした義希に、ボスは静かに首を振る。 「隊長が纏まって行動しても効率が悪かろう」 言われて反論の余地もなく、義希はそろそろと手を引っ込めた。 ボスはよそよそしい態度の隊員をぐるりと見渡して、殊更長く息を吐く。そして眠そうな顔付きの倫祐肩をぽんと叩いた。 「誰も組まねえなら、とりあえずあたしが貰ってく。文句はねえな?」 「意義なーし」 「全く、このヘタレ共が」 即答に小さく毒付いて、眉根にありったけの皺を寄せたボスから引きながらも、その場を動かぬおかしな空気を気合いの籠った声が追い払う。 「あい、解散!早いとこ仕事に戻った戻った!」 わーっと蜘蛛の子のように散っていった隊員達をボスの溜め息が追いかけた。その中で部屋に留まったのは、隊長である三人だけだ。 慌ただしく締まった扉を見届けて、煙草片手に小太郎が強めの挙手をする。 「ボス」 「あんだ」 「いや、そいつ…」 「夜間の検挙率」 言葉を遮ってホワイトボードをコツリと叩いたボスに目を丸くして、小太郎と義希は話の続きを待った。 「こいつの功績だろう?報告書の名前は他の奴等になっとったが……あいつらにあーんな案件、解決できるわきゃあねえからなあ」 ぺしぺしと背を叩かれながらも大人しくされるがままになる倫祐に、ポカンと口を開けた二人の顔が向けられる。 「優秀な人材だ。精一杯こきつかわせて貰おうでねえか」 にかっと白い歯を見せて満足そうに宣言するボスを見て、次第に頬を緩めていく二人に瞬いて、倫祐も彼女に首を回した。 「精々こきつかわれてきやがれ!この無愛想が」 「でも程々にな?倫祐はすぐ無理するから…」 「そりゃ心得とる。お前等もこいつに負けんよう、きっちり功績上げて、怠けきった隊の士気をなんとかするんだな」 ぐうの音も出ない様なことをピシャリと叩き付けられた義希と小太郎は、早速何処かに引き摺られていく倫祐の背中を生温い眼差しで見送る。倫祐は扉が閉まる手前、そんな二人を振り向いて小さく頭を下げた。 それから数時間後。 「どうした、坊主。ぼんやり空なんか眺めて」 前を行くボスが振り向いて、闇に染まった空を仰ぐ倫祐に問う。 「忘れ物でもしてきたか?あの空に」 カッカッカと豪快に笑う彼女に、倫祐は微かながら頷きを返した。それが意外だったのか、ただでさえ丸い目を更に丸くしたボスは、この日一日一言も口をきかない倫祐に複雑な笑みを向ける。 「難儀な男よのう」 町外れの防風壁に跳ね返る、軽快に背を叩く気持ちの良い音が響いていった。 彼女が幸せならばそれでいい。 そう思っていたのは、本当だ。 勿論、旅の道中あの記事を読んだ後は、彼自身意識はせずとも少なからずショックを受けたようで、頭の中がぐちゃぐちゃに掻き回されて、訳がわからない状態にまでなったりもしたようだ。 しかしこの街に帰還する頃には気持ちの整理も済んで、後は見守るだけだと考えていた矢先、ハルカから事実を聞かされる。 正直な話、倫祐自身も「表情を取り戻すため」には彼女の協力が必要不可欠であることに、なんとなく気付いていただけに。 彼女が本当に幸せになれるなら、このまま忘れてしまおうと決めていた……その決心が鈍ってしまった。 鈍った…いや、元々忘れる事も、諦める事も、そう簡単にいかないことは分かっていた。 それでも幸せになってほしいと願いながら。その願いに反して無理に協力して貰うなど。 それほどムシが良い話もないだろうと、彼は考える。 何年かかっても、いつか忘れる事が出来たなら。その時にはきっと、笑って彼女を祝福出来るように 。そう、思って居たのに。 どうすればいいのだろうか。 戻りつつあったのに。 また道を見失ってしまった。 いくらもがいた所で、自分に出来ることなんて無いに等しいのに。 それでも、彼女が笑わなくなった、と聞かされては、到底無視など出来なかったのだ。 だから。 「今日も行かねーのか?」 翌日の夕刻。 倫祐が駐屯地の扉を開けるなりそう言い放ったのは、椅子の背もたれに両腕を預けた小太郎だ。部屋には他に誰も居らず、自分へと質問だと言うことは明確であるにも関わらず何も言わぬ倫祐に、彼は詰め寄るようにして棒読みの追加を注ぐ。 「海羽が待ってるかもしれねーのに?」 言葉の合間、倫祐の指元で回ったのは備え付けのボールペンだ。小太郎にはその仕草がふざけているように思えて、思わず声を荒くする。 「本当にそれでいいのか?」 倫祐は、そんな彼を振り向いた。 小太郎は、そんな彼の無表情に口元をひきつらせる。 「今はまだ、とか言わねえよな?この期に及んでよお」 乱暴に席を立ち、タイムカードを差し戻した倫祐に歩み寄った小太郎は、何とかしてその身長差を埋めようと近場の木箱に足を乗せた。 「お前さ、幸せになろうとか…ちっとは思わない訳?」 努力も虚しく届かなかった目線の高さを諦めて、下から溜め息を浴びせる小太郎に、倫祐は小首を傾げて応対する。 それを受けた小太郎は、暫し思考を巡らせた後、純粋な疑問を口にした。 「…そんなんで幸せなのか?」 その問い掛けに、倫祐は意外にも直ぐに首肯を返す。回答を得たことにも、その内容にも驚いた小太郎はそれでも納得できるわけもなく、再度立ち上がって爪先を立てた。 「どの辺が。嫌われて嫌味言われて。好きなヤツ横取りされて。それでも…」 言葉の谷間に人差し指で腹をつつかれながら、徐々に後退して壁を背にした倫祐は、小太郎の隙を付いて右手を持ち上げる。 「…撫でるなよ。馬鹿野郎」 自分の言動と、珍しくも倫祐の心情までを察してしまった小太郎は、照れやらなにやらを隠すために彼に背を向けた。その隙に、倫祐は扉をそっと開く。 「こら!」 「……く」 「あ?」 呼び止めて、半端に立ち止まった倫祐が振り向き様に言った言葉を聞き直すと、今度はハッキリとした声が返ってきた。 「会いに行く」 嬉しいのか、それとも今更遅いと怒る気なのか、自分でも判断が付かないまま震える小太郎の耳に、遠くからボスが倫祐を呼ぶ声が聞こえてくる。 「今度」 「結局今度かよ!」 呼び声に反応してそう言い残した倫祐をツッコミで見送った小太郎は、気が抜けてへたりと椅子に座り込んだ。 「まぁ、それが聞けただけでも上等か」 見上げた天井に向けてそう呟いて。 「あれは義希と違って、無駄なことをわざわざ言ったりしねえからな」 ふっと微笑んだ小太郎は、大きく伸びをして空になった煙草の箱を握り潰す。 彼が常々思っていることがある。 小太郎への返答はけして嘘ではなく。 これだけ心配してくれる人が傍にいるのだから。 だから、自分は大丈夫だと。 cp11 [理由]← top→ cp13 [ありがとう] |