理由


 それは何時のことだっただろうか。



「わがまま、なのかな…」
 静まる部屋にポツリと落ちたのは。囁くような、問い掛けるような、それでいて独り言のような海羽の声。
 詳しい日付や、時期までは覚えていない。だけど、冬で、何時ものヒーターに加えて、ストーブを焚いても間に合わぬ程寒い日だったと、彼は記憶している。
 徹夜明けのぼんやりした空気の中、冷えきった指先を温めようとヤカンを乗せたストーブの前に立ったところ、先客としてマグカップを抱え込んだまま踞る彼女が漏らしたのが、先の台詞だ。
 それを聞いた彼……蒼は、ヤカンの吐き出す蒸気の向こう、溶けてしまいそうな瞳をゆっくりと瞬かせる彼女に、躊躇いがちに問い返す。
「誰が、ですか?」
 小首を傾げた彼の声に、海羽はふわりと顔を上げると、やけにハッキリと返答した。
「僕」
 まだ陽が昇りきらない、夜とも朝とも呼べぬ曖昧な時間帯。広い広い王座の間。その隅っこで、珍しいことに二人きりで。ぼやけそうになる頭を揺らがせながら、お互いに曖昧さを遠ざけようと、会話の中で試行錯誤を始める。
「誰かにそう言われたんですか?」
 蒼はそう問うと、海羽の隣に置かれた棚から、紅茶のカップを手に取った。
「ううん。そうじゃないんだ。だけど…」
 海羽は前置きの後、蒼に差し出されたティーポットの注ぎ口に自分のカップを持ち上げる。程よい白が天井に向けて昇っていく代わりに、空っぽのカップの中に琥珀色の液体が流れ落ちていくのを眺めながら、海羽は掠れる声で話を続けた。
「あの人は…秀さんは、みんなの事を悪く言うことがあるだろう?それは、みんなが傷付くからやめて欲しいって…僕、頼んだんだ」
 自身のカップも紅茶で満たしながら、蒼は頷くことで先を促す。
「だけど、あの人は本当の事を言っているだけだからって、止めようともしてくれなかった」
 小さな間は、海羽が温かい紅茶に息を落とし、湯気を拡散させている証。彼女はゆっくりと、飲み込んだ薫りの余韻を楽しむように、カップの中を覗き込んだ。
「本当の事って言うけど、僕にはあの人が言ってる事が本当の事だとは思えないんだ」
 揺れる瞳を持ち上げて、静かにカップを揺らす蒼と目を合わせた海羽は、困ったように微笑んで僅かに首を傾げて見せる。
「だから、そのこともちゃんと話したつもりなんだけど…」
「分かって頂けなかったんですね?」
 ストーブと棚の間に挟まり、こじんまりと座り込む海羽の正面に腰を下ろした蒼は、胡座をかいたその上に、紅茶を持った手を乗せた。海羽は頷き、彼の手の中で揺れる液体を見据えながら、更に言葉を繋げていく。
「みんなは頑張ってるし、間違った事をしているなんて思えないのに…そうやって言っても、「でも私は」って返されちゃって」
「堂々巡りですか」
 もう一度頷いて、俯いて。海羽は苦し気に息を吐くと、水面に浮かぶ自分の顔に向けて声を落とした。
「僕が僕の意見を曲げたくないように、あの人も自分の意見を曲げたくない……いつまで経っても平行線で、折り合いを付けてもくれなくて…」
 ゆっくりと、ゆっくりと。ヤカンの声に合わせるように紡がれた語りは、曖昧な空の向こうに行くこともなく、きちんと蒼の元へ届いたようだ。海羽が顔を上げると、いつもより儚い蒼の微笑が話の締め括りを待っていた。
「だから、折り合いを付けて欲しいって思う僕の方がわがままなのかな…って」
 海羽はそう言って肩を竦める。反応が気になって焦点を合わせれば、昇ってくる湯気がやけに白く感じた。
 蒼はそんな海羽に、やはり微笑を傾かせると、一つ頷いて、しかし口では否定する。
「そんなことは無いと思いますよ?」
「そうかな…?それでな、そう言うとき、蒼はどうしてるのかなって思って」
 語った理由を口にすると、蒼は納得したようにクスリと声を漏らした。
 そして瞬く海羽に柔らかい声を注ぐ。
「海羽さんは、優しいですね」
 蒼が傾けた首の動きを、まるで鏡に映したように真似た海羽は、瞬きにも疑問の意思を籠めた。その仕草を見据えながら、ふっと息を吹き掛けて。そろそろと紅茶を口にした蒼は、その延長線上に言葉を並べる。
「きちんと向き合って、なんとか話を付けようと努力している…なかなか出来る事じゃありませんよ」
「蒼だって、いつも同じようなことをやってるんじゃないのか?」
「僕の場合は、論外のことは論外と、早いうちから切り捨てますから。そしてその中から、更に必要な部分だけを切り抜いて、拾っていく…それだけの作業をしているに過ぎません。譲れない所とそうでない所の比率を、此方に有利になるように努力することはできますが、やはり限られてきますしね」
 誰にともなく言い分けて、小さく息を漏らした彼は、瞳を細める海羽に視線を戻した。
「……今の海羽さんには、譲れる所が一つも無いんじゃないですか?」
 その言葉を、彼女は躊躇いながらも確かに肯定する。静かにそれを終えた海羽に微笑んで、蒼は優しく問い掛けた。
「それだけ意見が合わない彼と居るのは、辛くないですか?」
 問われた海羽は、鱗でも落ちたかのように白黒させていた瞳を落ち着かせると、短く唸って下を向く。
「……辛い、か…。分からないけど、そうなのかな…?」
 自問自答して、それでも答えが見つからず。
「だから、笑えないのかな…?」
 顔を上げた海羽はすがるようにして蒼を見据えた。蒼は彼女の泣き出しそうな眼差しに頷きながら、小さく首を振る。
「いいんですよ。無理に合わせようとしなくて」
 肩を竦めるようなその仕草に、海羽はピクリと身を揺らした。
「僕達は、彼の言葉を真に受けたりはしませんから。安心して下さい」
「でも……」
「大丈夫ですよ。それよりも、たまには心を休憩させてあげて下さいね?きっとあなたが想像している以上に、疲れているでしょうから」
 俯いた海羽の頭に、温まった手を乗せて。蒼は続ける。
「僕も、そして他のみなさんも。あなたには何時も助けて貰ってます。ですから、少しくらいはご自分の為に、意思を通して下さい」
 紅茶から貰った熱を通して、想いを彼女に伝えるように。囁いた彼に、海羽は僅かに笑顔を見せた。
「ありがとう、蒼…」



 その場に居合わせたのは、恐らく俺だけだろう。
 沢也が自室に居たことは確認していたし、他の仲間達も、そして結も、既に眠りに付いた後だったから間違いはない。
 一度は上に戻ったのだが、何か用でも思い出したんだったか。今となっては理由こそ忘れてしまったが、とにかく再度階下に降りた所、二人の会話にでくわしたと言うわけだ。

 そうして俺はこっそりと、聞いてしまった彼女の……海羽の想いを、未だ胸の奥に留め続けている。
 同時に、蒼と言う人間を信じてしまった自分が居ることにも気づいている。




 だからこそ、俺は現状を放置出来ずにやきもきするのかもしれない。




「烏羽(からすば)」
 名を呼ばれた彼は、偽物の空に見ていた回想から抜け出して我に返ると、背後を振り向いて微笑を浮かべた。
 短く切り揃えた真っ黒な髪に、真っ黒な目。緑を基調にした羽根を羽ばたかせた彼は、纏う黒い服を叩いて立ち上がる。
「補充は済んだかい?海羽」
「うん。今日は溢さずに済んだよ」
 ホースをくるくると巻きながら、横に置かれたタンクを満足そうに眺めていた海羽は、ふと周囲の草原に視線を流した。
「今日はまだ、みんな起きてないんだな…?」
「起こすのを忘れてしまっただけだ」
 表情を変えることなく頭を掻いて言い分けて、烏羽はぱたぱたと海羽の前まで飛んで行く。
「いつも烏羽が起こしてるのか?」
「そうなるな。最近は夜更かしが過ぎるから、まだ若い彼等には堪えるのかもしれん」
「そうか。烏羽が一番長生きなんだもんな?」
 見た目は他の妖精達と然して変わらぬだけに、事実を再確認した海羽は、指先に止まった彼が肩を竦めるのを見て微かに笑った。
「それよりも、彼にはもう?」
 突然の問い掛けに固まったものの、数秒後に意味合いを把握して、海羽はきょろきょろと視線を泳がせる。
「えと、いや、まだ…」
「会いにいかれては?今日なら問題もないだろうに」
「うん…でも……」
 彼女がそう言って目を伏せた途端、普段は静かな泉に浮かぶ映像が、がやがやと音を立てた。
 瞬時にその理由を察した海羽が走り出すと同時、烏羽も階下で騒ぐ声の主に気付いて舌を打つ。
「何故…今日は定例会の筈では…」
「大丈夫、すぐ戻れば見つからないから」
 扉を閉める間際にそう言い残し、危なっかしくも階段を駆け降りていく彼女の背中に、烏羽の呟きが追いかけた。
「これを見越した上での、判断なのか…?海羽……」
 届かぬことを知りながら吐き出されたそれは、階下からの耳障りな声に掻き消されて消える。


 くるくると、主柱を軸にして巻かれた階段を下り切り、分厚い扉を二枚開くと既に声も近く。
 切らせた息をそのままに、魔法で扉を隠した海羽は、斜め向かいに鎮座する本来の出入り口を見据えていた。
 あまり広くない室内に、積まれているのは紙の束。まだ目を通していないものから、検証中のもの、これから判定内容を記載して送り返さなければならないものも全て。この狭い部屋に所狭しと積み上げられている。
 それこそ沢也のデスクのように、山となったそれらが避けるかのように開けた場所まで歩みを進め、間近に迫る足音がやって来るのを待つ海羽は、進まなかった仕事を横目に小さく息を落とした。
 足元に広がる少し広めの空間は、認可待ちの魔法陣を彼女自らが敷いて、その紋様を確認するための場所。問題が無ければそのまま発動させることも可能ではあるが、魔法と言う媒体だけに、この狭い仕事場には向かないものが多いだろう。その為大半は、チェックの後で城の裏側に当たるスペースに行き、まとめて実験をするのだが。
「こちらでしたか」
 ノックも無しに開いた扉を潜り抜け、当たり前に入室してくる秀によって、殆どの書類がチェックすら済ますことを許されずに居る。
 海羽はうっすらと笑みを浮かべた口元から、挨拶も忘れて力ない声で問い掛けた。
「どうされたんですか?今日は…」
「本日の定例会は、兄に代わって頂きました」
 定例会、つまりは週に一度の貴族の集まりである。
 彼は水曜日の午前中だけは、それに出席する為に此処に来ることがない。逆に言えば、それ以外は毎日夕方まで、海羽の側に貼り付いていると言うことにもなる。
 にも関わらず、秀は臆面も無く海羽の手を取り宣った。
「どうしても貴女に会いたかったものですから」
 困った顔のまま引き寄せられた海羽の首もとに手を回し、握っていた物を彼女に装着した彼は、満足そうに頷いて前髪を払う。
「この前、街で見掛けたネックレスです」
 半ばずっしりと、鎖骨の辺りに加わった重圧に呆気に取られながら、海羽は慌ててネックレスを外そうとした。しかしその手は秀によって遮られる。
「あの…」
「ほうら、やはりお似合いですよ。しかし、この服は頂けない…もっと華やかで、高級な物を買いに行かないと」
「あの…」
「さあ、早いところ出掛けましょう。こんなところに居ては腐ってしまう」
 海羽の困惑を気にする事もなく、再度取った手を引いてずかずかと足を進める秀に、海羽もおろおろと抵抗するが力に負けて引きずられてしまう。
 二人は部屋の外、扉を一枚隔てた王座の間の手前に当たる廊下で何とか勢いを止めた。海羽は秀が扉を開く前にその手を掴むと、彼とドアの間に滑り込む。
「困ります」
「何がですか?」
 注がれる威圧的な声。それでも怯まず秀を見据え、海羽は強い口調で言い放つ。
「あの、僕…何度も言っているように……あなたとは…」
「まだあんな輩の事を覚えておいでですか?」
 抜けるような声が、静かな空間に響いた。
 核心的な言葉を言った訳でも無いのに、ムキになって反論するところからも分かるように。海羽は秀に、以前にも正式に付き合いを申し込まれ、きちんと理由を説明した上で断った事がある。
 その際、海羽は自分の気持ちを正直に話すことで秀の同意を得ようとした。しかし、それは裏目に出た…と言っても良いのかもしれない。  目の前で息を荒くする秀を見上げながら、海羽はぼんやりと思う。
 あの時彼の名前を出さなければ、こんなことにはならなかったのだろうか…と。
「だいたい、どうしてあの男なんですか!あんな…機械染みた男の、何処がそんなに良いと言うのです」
 肩を掴まれ、揺さぶられ。狂気的な眼差しで問われながらも、その言葉に籠められた意味に胸を痛める。そんな海羽の心情など、まるで気付く素振りも見せず、秀は自らの胸に手を当てた。
「私が、あのような者に劣るとでも?」
 詰め寄られてもなお、何も言えず。ただ、その言葉が彼の耳に入らずに済んだことだけに安堵して。
 海羽は踵を返し、塞いでいた戸を開く。
 その先で待っていたのは、意外にも何時もとは違う光景だった。
 目を丸くする海羽の背後から、秀の上擦った声が問う。
「ひ…聖さん…何故こちらに?」
 蒼と話をしていたであろう彼は、秀の顔が見えるや否やつかつかと歩み寄り、海羽の立つ位置から数十歩先で立ち止まった。そして彼女に小さくお辞儀をしてから、その後ろ側に立つ秀ときちんと向き直る。
「あなたが定例会にいらっしゃらなかった、との連絡を頂きましてね。まさかと思って様子を見に来たんですが…やはり、予想通りでしたよ」
「会には、わ…私の代わりに…兄が…」
「兄上は常々会に関わっておいでですから、わざわざ出向かなくとも動向も分かるでしょうに」
「私もそれくらいのことは…」
「毎日のように此処に入り浸っておきながら、ですか?程々にしておくようにと、以前にも注意した筈ですが?」
 カツリと、聖の靴が鳴らした音が、秀を一歩後退させた。彼は固唾を飲み込むと、咳払いで焦りを払って笑顔を作る。
「いえ、きちんと守っていますよ?あなたの言い付けは」
「海羽さん、彼の事で不都合があるようでしたら、遠慮なく仰って下さいね?」
 そんな彼の言い訳を無視して海羽に向き直った聖は、長い髪をサッと払って僅に首を傾けた。
 それと同時に秀の眉も傾いたことに気付きながら、海羽は直ぐ様頷いて聖を見上げる。
「では少し仕事をしたいので、今日はお引き取り願えませんか?」
「おやおや、それは失礼。折角お会い出来たのに残念ですが…本日は退散させて頂くことにします。どうぞごゆっくり」
「ありがとうございます」
 眉を下げて頷く聖に頭を下げ、道を開けた海羽に秀の不服そうな眼差しが降ってきた。聖も海羽も、そんな彼に構うこと無く状況を見守る蒼を振り返る。
「では、良いお返事を期待していますよ?陛下」
「検討はしてみますが、変な期待はなさらないで居て下さると、有り難いです」
「こちらも相変わらず釣れないお返事ですね。が、仕方がありません。また後日ゆっくりと伺います。行きましょう、秀君」
 社交辞令を送りあった二人が揃って秀を振り向けば、彼は実にバツが悪そうにひきつらせた顔を、器用に笑顔へ変換した。
「…………分かりました、ではまた明日、参ります」
 そうしてぺこりと海羽に頭を下げて、先を行く聖に続く秀の背中は、明らかに納得していない空気を醸し出したまま、その場を後にする。
「さて、仕事…終らせちゃうな?」
 二人を見送って直ぐ、肩を竦めてそう言った海羽は、蒼の頷きも待たずに扉の中へと戻って行った。



 会いに行かないんですか?
 蒼もきっと、そう言うと思って。
 だから思わず逃げてきてしまったのだと。
 分かっていながら、この場を動こうとしない僕は、やっぱり臆病なのだろうか。

 あの時そう問う烏羽に、僕が言おうとした言葉の続きは、この期に及んで「怖いから」だった。

 会って、その後は…?
 僕はどうしたらいいのだろう。
 また会いたくなってしまったら?

 だけど、やっぱり、本当のところ。
 僕は、彼に会いたくて仕方がないのだろうと思う。

 彼が帰って来る前は、生きていて欲しいと思うだけで、こんな欲を持ったことなんてなかったのに。

 それでも、自由の利かない今は、会うべきではないんじゃないか?



「困ったな…」
「倫祐くんのことですか?」
 ちょこんと、首を傾げて問い掛けてくる蒼。その背後に嵌められた窓の外は、既にどっぷり夜に染まっている。
 簡潔な質問にも関わらず、数十秒かけて内容を飲み込んだ海羽は、きょろきょろと辺りを見回した後、震える声で問い返した。
「ぼ、僕…口に…」
「出ていましたよ?」
 笑い混じりにそう言って、テーブルの脇に置かれた紅茶を手にした蒼は、俯く彼女の旋毛を眺めながらその温度を確かめる。
 現在、二人が居るのは王座の間の長テーブル。夕食後、そのままずるずると続けていた仕事は区切りが付くこともなく、当たり前のように深夜に突入してしまったと言うわけだ。
「う…ごめんなさい…」
「いいんですよ。沢也くんが居ないと、気が緩みますよね?」
 今朝方から城下町に出向いていた彼が、自室に引きこもったのが一時間ほど前のこと。今頃着替えや仮眠を済ませているであろう彼のスゴミを思い出した海羽が小さく頷くと、蒼は静かに紅茶を啜る。そして。
「僕で良ければ、話を聞きますよ?」
 まだ時間もあるでしょうから、と。暫くの間、他に誰も来ないことを前提にそう切り出した。
 海羽は蒼の柔らかい声に躊躇いがちに頷いて、今しがた頭を占領していた堂々巡りの事を相談することにする。
 曖昧で、ハッキリしない海羽の話を聞く間、蒼は近付いてくる気配に気付いて首を回した。海羽がその仕草でそちらに顔を向ければ、小さな小さなノックが響く。
「いってらっしゃいも言えなかったから。せめて…お帰りなさいって……伝えたかったんだけどな」
 海羽は立ち上がりがてらそう話を締め括ると、自分の仕事場に繋がる扉をそっと開いた。
「もう、遅いかな?」
 呟きは、わざと聞こえない程度の声量で。わざと扉を開く音に紛れるように。
「遅くはないだろう」
 返答は、廊下側から聞こえた。海羽は風のように横切った小さな背中を目で追いかける。
「烏羽……」
 彼は蒼のソーサーの脇に腰を据え、軽く会釈をした後で海羽の声に応えた。
「だが残念ながら俺も、あの男と同じ疑問を抱いている。丁度それを聞きにきたところだ。ナイスタイミング、と言った所か?」
 冗談めいてそう言って、烏羽は瞬きを繰り返す海羽の瞳を真っ直ぐに見据え、強い声を出す。
「何故、そこまで…彼に入れ込むんだ?」
 この状況で、二月も会いに来ない男に。烏羽の瞳は、そう語りかけていた。
「秀と一緒になれなんて、死んでも言いやしない。だが、彼である必要も無いように思えてしまうのだよ」
 訪れた沈黙を追い払うように、彼は続ける。その声は力強くはあったが、海羽を責め立てる響きではない。だからこそ、隣で聞いていた蒼も口を挟まなかったし、海羽自身も落ち着いた様子で一つ頷いた。
「だって、倫祐は、いつも僕を助けてくれるから」
「助けて…?」
「そう。ずっと留守にしてたのだって…」
「しかし…」
「海羽さんは、一緒には行けなかったでしょうね」
 烏羽の言葉を遮った蒼は、首を回した彼に頷いて海羽を見る。釣られて顔を向けた烏羽に、海羽もまた頷いた。
「僕は、目の前で妖精の死を見てしまって……動揺、していたから」
 悲しげな声が床に落ちる。無理矢理顔を持ち上げて、彼女は続けた。
「きっと今でも出来ないかもしれない」
 妖精を……モンスターを、討伐することが。海羽が言わなかった言葉を汲んで、烏羽はうっすらと笑みを漏らす。
「ありがとう、海羽」
「それは、倫祐に言ってあげてくれないか?」
 席に戻りながら、瞳に返答する彼女は、不服そうな彼にゆっくりと答えを提示した。
「きっと、辛かっただろうから」
 僕なら、絶対辛いから…と。微かにそう言った彼女を見てもなお、烏羽は納得しきれないようだ。
 それもその筈、彼はまだ倫祐と直接話をしたことがないのだから。……と、言っても倫祐の性質的に、会話になるほうが珍しいので、この場合は単純に倫祐のことを良く知らないからだと言い切ってしまった方が良いのかもしれないが。
 海羽は烏羽の瞳の色に過去の彼を映し出し、懐かしむようにして口にする。
「誰がやっても辛いなら、自分にやらせて欲しい。……きっと、そう思っていたと思う。そんな顔、してたように思う」
 口には出さなかったけど。そう補足して、彼女は窓の外へと視線を流した。
「何も知らない人に頼めるような事じゃなかったし、だからって、何もしないわけにはいかなかったろ?」
 烏羽は、同意する。同時に結の気配を追ったが、どうやら彼は既に眠ってしまっているようだ。
 海羽はお互いの目線がぶつかるのを待って、微かながら笑みを浮かべる。
「皆の気持ちも、自分の気持ちも…全部わかった上で、引き受けてくれたんだ」
 その表情を見て、烏羽もやっと納得したのか、固かった顔を緩やかにした。
「君の為にも、か」
「ううん。彼女の為、じゃないかな」
「彼女?」
「倫祐の剣に宿る妖精さん。雪那って、言うんだけどな」
 そう言えば、と。当時一度だけすれ違った時に感じた感覚を思い出して、烏羽は頷く。
「彼女も、望んでいたから。モンスター化してしまった妖精達が、解放されることを…」
 海羽はそう言って大きく伸びをすると、ふにゃふにゃと欠伸を開始した。
 その余りにも眠そうな様子に、蒼も烏羽も揃って海羽を部屋に帰るよう言いくるめ。渋々引き下がった彼女を見送って、残った仕事の片付けをしながら考察を続ける。
「僕は、それだけではないと思うんですけどね」
 蒼は書類を揃える音に合わせて、何処かぼんやりと呟いた。ボールペンと修正テープを筆立てに戻しながら、烏羽が問う。
「彼は、彼女の為に?」
「彼女の言ったことも、恐らく間違ってはいませんよ。しかしもう半分は、貴方が言うように…」
「それなら、何故…」
 すれ違うのだろう。飲み込んだ言葉を察したのか、それとも彼自身も同じことを考えていたのか。蒼はそっと、見解を口にした。
「そもそも、あのお二人は明確に気持ちを確認しあった仲では無かったんです。その上きっと、想う気持ちが強すぎるんですよ」
「お互いに、かい?」
「僕達に対しても、です」
「それは彼女だけでなく?」
「勿論、彼もですよ」
 言われたことを理解して、想像し。烏羽は思わず固まった。
「当人同士以外の人への気持ちも合わせると、何だかんだで上手くいかなくなってしまうんじゃないでしょうか?」
「成る程、他人が絡めば絡むほど、複雑に絡まってしまうわけだ」
 もっと単純に考えることが出来れば…いや、彼女のあの性格では難しいのだろうか。
 思わず唸る烏羽に、蒼はくすりと声を漏らす。
「勿論、ずっとではないですよ。いつか必ず折り合いが付く日は来る筈です」
 あの二人なら。そう言って笑う彼は、複雑な笑みを浮かべる烏羽を振り向いて更に付け足した。
「彼等だけじゃないですよ。僕達も、きっと…」
 蒼は、その先を口にしなかった。
 しかしそれはもう、実現しかけているのだろうと。烏羽は思う。


 そう、俺がこうして彼女や…そして、彼の気持ちに寄り添うことが出来ていることこそが、何よりの証拠だろう。




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