イカセノラウ 咳と生存を確認する声が連なった。 淡い輝きが沢也と蒼の、それからバリアの位置を示す。衝撃が収まっても彼等の光が消えなかった事が、周囲のみんなを安心させた。 二人とも、攻撃しながら防壁の内側まで後退している。今、橋の向こう、折れた部分より手前に居るのは一人だけだ。 「倫祐…」 小さな声が響く。誰のものかは直ぐに分かった。今この場所に居る女性は、彼女だけなのだから。 「倫祐……!」 空気が掻き分けられるのが見える。海羽の掌が手探りに、しかし真っ直ぐに橋へと向かっていた。 「海羽さん!危険です、お戻りください!」 一度引き剥がされた秀が、海羽を慌てて止めにかかる。煙で見えないのを良いことに、彼は腕や腰に傷を負った二人を無慈悲に蹴飛ばし、肘打ちしてまで振り払った。 次第に靄が晴れていく。青空が見えるようになった。 海羽は橋の入り口に立ち、辺りを見渡す。風で煙を追い払おうとしたが、それは直ぐに中断された。 右手にある監視塔の真下に、黒い塊が落ちている。それが倫祐だと理解するのに数秒ほど時間がかかった。 何故って。理解したくなかったのだ。そうではないと思いたかった。 例えるなら、糸が切れた操り人形のような。 崩れた壁を背に、不自然な形状で座り込む彼からは赤い色が広がっている。 その数秒間。呆然と佇む海羽の背後に秀が立ち、倫祐を認めるなり顔を歪めた。隠すことなく、嬉しそうに。 笑いを圧し殺すように片手を持ち上げた彼は、頭の中で盛大に叫んだ。 (欠陥品にしては上出来だ。褒めてやれんのが残念なくらいにな!) 声は出さずとも、全て表情に現れているとも知らず、彼は倫祐を眺め続ける。その視線の先で、海羽が倫祐に覆い被さった。 「海羽さん、そんな、服が汚れてしまう」 秀は彼女に近付き、優しい声をかける。海羽の足下で魔法陣が揺れた。 何をしているのかと、理解するまで10秒ほど。 辺りが明るく照らし出される。幾重にも光が折り重なって、例えようもない、幻想的な光景が生み出されていた。 海羽の白い服が赤く染まる。そんなことを気にする事もなく、動かぬ人物に抱き付く彼女が、秀にとっては不可解で、酷く苛立たしく思えた。 「もう手遅れですよ。無駄なことは止して、私の家でゆっくり……」 乱暴にでも引き剥がそうと、伸ばした掌が固いものにぶつかる。目を凝らせば透明な壁が彼女を囲っていた。 秀はわなわなと震えた後、拳を作ってそれを叩く。 「この私の申し出を、優しさを拒否してまでなさることですか?良く考えて下さい。その醜いグロテスクな物体は、もう……」 秀の目の前に突如金色が割り込んだ。それが義希のものだと、彼は遅れて理解する。 「何だ。その目は」 海羽と倫祐を庇うように、立ち塞がった彼を鼻で笑った。義希が口を開いたところに、横から手が伸びてくる。 義希の動きが止まった。振り向いた彼は、その先でゆっくりと首を振る人物を眺め、小さく呟く。 「………蒼…」 名を呼ばれた彼は頷いて、義希から手を離した。 迎え撃とうと振り向いた秀の横を、無表情の蒼が通り過ぎる。 声が出せなかった。動けもしなかった。 固まる秀を置き去りに、義希もまた踵を返す。怒りに染まっていた彼の表情が、二人を振り向くなり悲しみに変わった。 海に落ちなくて本当に良かった。それだけを心の底から感謝する。 辺りを漂っていた煙は晴れた。 衝撃から立ち直った人々が、各々動く。 蒼は一人、崩れかけた橋の上を歩いていた。衝撃に比べて橋の損傷は少ない。キメラの破片が、胴体の一部が、元あった場所に残されていた。 「大丈夫か?血液恐怖症」 後ろから沢也が声をかける。振り向くと、義希に橋の入り口封鎖を任せて、自分だけ後を追ってきたらしい事が分かった。 蒼は曖昧に微笑んで、目的の物に手をかける。 倫祐愛用の、真っ白な大剣に。 キメラの胴体に突き刺さったままだったそれを引き抜くと、血液と肉片が砂になった。重たく、シンプルな剣の、唯一の飾り気と言える宝石部分にはヒビが入っている。 「あいつが最後まで抑え込んでくれたおかげで、この規模で済んだわけか」 沢也が辺りを見渡して、殆どの物の無事を確認した。唯一壊れたのは、倫祐の背後にある城壁と監視塔の一部くらいで、他は爆発前と殆ど変わらない。 恐らく爆発自体は風圧だけの小規模なもので、殆どはビームとなって倫祐に直撃したのだろう。 「彼がバリアに囲われた瞬間、この剣と脱出していたとしたら、どうなっていたのでしょうね」 振り向いた蒼がポツリと呟いた。その視線の先には倫祐が居る。 「心配か?」 沢也の問い掛けに、蒼は当然だと答えかけて俯いた。無理に笑顔を作って持ち上げると、沢也の指先が宝石のヒビを指し示す。 「妖精の化身か。だとしたら寧ろ治療しやすいんじゃねえか?」 携帯を耳に当てながら、彼は言った。その後直ぐに指示を飛ばす沢也の背中が、小さく震えている事に気付く。 同時に、義希の赤いネックレスが光の中で修復された瞬間を思い出した。蒼の脳裏に咲夜の意地悪な笑顔が浮かぶ。 「みなさん、落ち着いて指示に従ってください。キメラはもう、動きませんから」 通信をONにして、出来るだけ穏やかな声を出す。そうして彼もまた、やるべきことを頭の中に並べ始めた。 蒼と沢也の指示が一通り済んだところに、見慣れたオレンジ色が着陸する。沙梨菜がアメジスト持ってきたのだ。 いち早く沢也を認めた彼女が、走り寄るなり不安を露にする。沙梨菜は異様に勘が鋭い。空気だけで何かを察したのだ。 説明を求める彼女の腕を引き、辿り着いた先で、沢也はありのままを示す。ハルカの張り巡らせたバリアの中、治療に集中する海羽は先程から全く顔を上げていない。その様子を忌々しげに眺めていた秀が、沙梨菜の表情の変化を見るなり頬を緩めた。 「どうして…こんなの…!だって、まだ10分も…」 声を震わせ、取り乱す沙梨菜を沢也が振り向かせる。完全に無視された形になった秀が、抗議を始める前に彼は言った。 「それで向こう岸の奴等運んでこい。橋の修繕、その他諸々、やることは山積みだ」 「でも……」 有無を言わさず、背中を押す。沢也は沙梨菜が意を決したように頷いたのを確認しながら、携帯を耳に当てた。 海羽の魔力はもう殆ど残っていない。ハルカも、沢也も、蒼が持っていた水晶に入っていた魔力も、それぞれが僅かを残して、既に彼女に渡してある。 「有理子。門松に言ってもう一台スクーターを出せ」 それに、いつまでもここに置いておく訳にもいかない。 沢也は受話器越しの有理子の疑問符に、重い声で命令した。 「それに乗って、お前が連れて来い」 全ての責任は俺が取る。 数秒後、沢也はそう言って通話を切った。 水。 水の中に居る。 冷たい。息が苦しい。だけど動けない。 目を閉じているのに透明なのが分かる。透明が重なって、淡い青が辺りを満たす。 穏やかで、美しい。澄んだ水の中。 綺麗でとても静かだけれど。 このまま此処に居てはいけない気がする。 ぼんやりと、そう思ったのも束の間の事。誰かに腕を引っ張られた。 昇っているのか降りているのかはわからない。 ただ。 そっちに行ってはいけない。 それだけは分かった。 この気配は知っている。 そんなに連れていきたいのだろうか。 ざばっと、水面に頭が出た。 目を開けて、辺りを見渡せば良く知った景色が広がっている。 自分が今浸かっているのは、マオ村にある小さな泉だ。馴染み深いような、懐かしいような、不思議な感覚。 だけどあそことは色が違う。…気がする。 曖昧な事ばかりだ。全てがはっきりしない。 ふわふわと、回りを歩き回る動物の顔も。目の前に佇む三人の男の顔も。靄がかかったようにぼやけて、どんな顔だか判別出来ない。 だけど気配だけは変わらない。彼等が誰だか理解は出来た。 腕を引いたのは間違いなく彼等だ。 そして。 つい先程まで、戦っていたのも。 「散々手こずらせやがって…」 舌打ちと共に響いた声が、ぼわぼわと低く反響する。音が水を伝ってきたような、そんな感じだ。 「あんたのせいで俺達の計画はパーだよ。全く…煩わしいったらありやしない…」 別の一人が岩に腰掛けながら溜め息を吐く。更にその向こう側で鼻で笑ったような音がした。 「だからせめて、道連れにさせてくださいよ。ね?」 最後の一人が言い終わると、短い間が出来る。自分が反応する為に与えられた時間なのだろうが、さてどうしたものかと、ぼんやり考えた。 「ほれ見ろ。あんたの仲間も既に諦めモードだ」 「あの子も直ぐに諦めるだろうね。何たって心音がないんじゃ…」 「健気なものですね。あなたが羨ましい。私達にはそんな人、居やしなかったんですから」 三人が泉を覗き込む。つられて振り向くと、水の向こうに「あちらの世界」が映し出されているのが見えた。 丁度、自分を上から眺めているような。 動かない自分を治療する海羽の肩にはハルカが居る。血で汚れた体や衣服がやけに目立つ。二人とも白いからだろう。 魔力なんて殆ど残っていない筈なのに。申し訳ないのと、有り難いのとで、酷く心苦しくなった。 そんなに無理をさせてまで生き返るくらいなら、彼等の気を鎮める為に此処に残るべきだろうか。 「未練たらたらって感じかな?」 ぼわぼわ声が思考を中断する。振り向いた先に居る三人は、先程より顔のパーツがはっきりしているように見えた。 「お前が暴れるから、折角出てきたアホな国王も大臣も、あの糞な貴族も、巻き添えにすることが出来なかったんだ」 聞き捨てならない単語に思わず首が傾く。しかしそれには気付かれず、代わりに手が伸びてきた。 水の中で腕を掴まれる。更には持ち上げられて、ぐいぐい引っ張られた。 「早く上がれ!お前もこっち側に…」 ゴス、ゴス、ゴス。三連続で鳴ったのは鉄拳制裁の音。揃って頭を押さえた事で、腕が解放される。 「なんっ……」 「暴れたのはあんた等の暴走を止めるためだろう。確かに同情の余地はあろうが、全てを許すわけにはいかん。なんせ、就職がうまくいかんことや、自分でこさえた借金や、暴力が原因での離婚なんかを全部、お国のせいにしているのだから」 三人の抗議は長文に阻まれた。的確な事を、見知らぬ老人に並べ立てられては口を開けるしかないだろう。 出来上がった間。当然の疑問に、老人は泉を指差し言い分ける。 「何分気になってな。此処から動向を窺っていたのだよ」 その声が穏やか過ぎるせいか。立ち上がった一人が老人を上から睨み付ける。残りの二人も便乗した。 「じいさん、ナニモンだ?」 「息子達が世話になったようだな」 威圧を威圧で押し返す。表情を変えずに行われた諸行に、男達の上半身が反れた。 一瞬の出来事を振り払うように首を振り、男達は勢いを持ち直す。 「だから、なんだってんだ…!こっちは三人、しかも魔術師だぞ?あんた一人でどうにかしようってのか?」 「どうもしはしない」 「なら、下がっていて貰おうか!俺等が用があるのはあんたじゃねえ!こいつだ!」 動じない老人。肩で息をし、声を張る男。両脇に控える二人も緊張しているようだ。 事の成り行きを見守る自分は、指をさされながらも蚊帳の外。どうするべきか。頭の中で呟くと同時に、老人が口を開く。 「知っているのか?」 「あ?」 「どうしてこの場所が存在するか」 唐突に話題が変わった。三人の戸惑いを尻目に、老人は淡々と続ける。 「まだ来たばかりだから知らんのも無理はない。折角だから教えてやろう。どうせいつかは知ることだ」 「そんなこと、今は関係…」 「ないと言い切れるのか?何も知らんのに」 近場の岩に腰掛けて、呆れたように呟く。指を伸ばした老人の仕草に気圧されて、三人は小さく後退り。 「あんたたちは今、死にながらにして生者を殺そうとしている。そうだな?」 「それが、なんだってんだ…」 緊張が満ちた。色の薄い景色が歪む程に。 老人はそれを和らげる為の息を吐く。その延長線に言葉が乗った。 「此処は生前の行いを反省し、忘れていく為の場所」 「忘れて…?」 「何のために反省し、忘れていくのか、分かるか?」 問い掛けに沈黙だけが返される。老人は頷いて答えを言った。 「生まれ変わるためだよ」 固唾を飲む音が聞こえたような気がする。老人だけが落ち着いた調子で説明を続けた。 「あんたたちはこれから、どんどん忘れていかねばならん。良いことから順番に。最後に残るのは後悔や絶望…反省しなければならない記憶ばかりだと言う。悪い記憶程忘れるのは難しい。生きている頃も、そうだっただろう?此処でもそれだけは変わらないのだよ。きちんと反省しきれた頃になってやっと、忘れられる。そうして全てを忘れた者からあちらの世界に帰るのだよ」 成る程。世界はそうして廻っているのか。誰が作ったのかは知らないが、良くできたシステムだ。 この場所が天国か地獄かを決めるのは自分自身。生きてからも、死んでからも。 「だがな、例外がある」 納得する為の時間をおいて、老人は静かに口にする。前の三人も視線を上げた。 「あんたたちが今からやろうとしてること。それをしてしまうと、もう帰ることが出来なくなる。永遠にこの場所に留まり、永遠に反省し続けなければならない。あちらの世界を忘れて、形を保てなくなるその時まで」 「形を保てなくなる?意味がわからん」 「この場所ではな、あちらの世界を忘れてしまわないよう、わざわざあちらの世界を再現しているのだよ。そうしないとやはり、戻れなくなってしまうそうだよ。人はおろか、イキモノですら居られなくなるのだと、誰かにそう教わった。形を保てなくなるとは、そう言う事だ」 また、沈黙。今度は納得いかない、そんな空気が漂った。老人も直ぐにそれを察知する。 「ハッタリだと思うか?それならそれで構わんがな。だが」 立ち上がった老人から威圧が滲んだ。 「生きているうちに決着は着いたのだろう。なあ?あんたたちは負けたんだ。どうしてこんなことまでしなければならない。良く考えてみなさい」 圧力とは裏腹に柔らかい声が命令する。両脇の二人が顔を見合わせた。 「時間なんて腐るほどある。なあ、そうだろう?それとも…いや、それでもこいつを道連れとやらにするのかい?」 続く問い掛けで二人が離れていく。短い間があった。 「あんたは?」 残った一人はそれでも動かなかい。 「そうか。では、相手になろう」 老人が構える。男は頻りに何かを呟いていた。 勝負は一瞬。 「悪いが、これでも盗賊団の頭領だったものでね」 腕を捻られ、地に付した男の顔は、やはり良く分からない。それと同じで、老人の顔も霞がかってはっきりしなかった。 「ああ、それと。此処では魔術は使えない。言い忘れて悪かったな」 解放と同時、逃げ出した男の背中を謝罪が追い掛ける。 「さて」 老人は地に座ったまま自分と向き合った。どれだけ顔がぼやけていようとも、懐かしくて仕方がない。 「久しぶりだな」 老人が…父親が、穏やかに呟いた。 「こんな形で会いたくは無かったんだが…まあ、これも何かの縁だ。少しばかり聞いていきなさい。年寄りの戯言だと思ってな」 遅れた一つの頷きが、幾つかの言葉への返事となる。父はそれでも満足気だ。掌が頭に伸びてくる。 「お前がこちらに来るのはまだ早い」 軽く乗せられた掌は、昔よりも重くなったような気がした。同時に言葉も重くのし掛かる。 顔を上げると、困ったように肩を竦められた。 「さっき、あいつらの望みを叶えてやろうとしただろう。それで気が済むのならと、思わなかったか?」 どうして分かるのだろう。あちらにはこちらの顔が見えているとしても、無表情は無表情だろうに。 頷きながら不思議に思っていると、体がぼんやり光り始めた。 「ほら。まだ早いと言っただろう。見てみなさい」 促されて泉の中を見る。 あれからどれだけ時間が過ぎただろう。にも関わらず、海羽とハルカは未だ自を自分を治療していた。良く見れば、沢也や蒼が順にやって来て、彼女に水晶を渡している。 「お前はな、お前が思っているよりもずっと…人から好かれる人間なんだよ」 背後で父が呟いた。 義希と小太郎が、沙梨菜が、心配そうに自分を見ている。 「表情がなくとも…口数が少なくとも…お前の本質を理解してくれる人が、こんなにもいるのだから」 忙しなく往き来する人々も、時折自分を眺めては、唇を噛み締めているように見えた。 振り向くと、表情は見えないが、恐らく微笑んでいるであろう父の手が肩に乗せられる。 「もっと誇りに思いなさい。そして、それを素直に受け止めると良い」 素直に。受け入れながら、不思議な言葉だと、なんとなく思った。 「お前になら分かる筈だ。彼女の涙の意味も…彼等の沈黙の意味も」 言われて、また振り返る。 海羽は確かに泣いていた。秀がどれだけ喚こうと、誰も反応しなかった。 それだけ、全てが、今、自分自身に注がれているわけだ。 理解すると同時に、身体中を何かが駆け巡る。 「これからどうするべきか、分かるな?」 今一度父親と向き合った。 「貰った分の幸せを返したい。それならば、生きて帰なければ…何も出来やしない」 頷きかけて、少し躊躇う。全てを見抜いたように父は笑った。 「良いじゃないか。例え何も出来なくても。お前がそこに存在するだけで、笑ってくれる人達がいるのなら」 言葉が真っ直ぐに入ってくる。ぼわぼわも、さっきの三人より随分少ない。あちら側に近いからだろうか。父はどれだけ忘れたのだろう。 様々な思考が交差する。それでも全ては整頓されて、真っ直ぐになっていった。 「お前は昔から、人の表情を読むのが得意だったな。好意に気付くことだけは、どうにも苦手なようだが…」 懐かしそうな呟きが、困ったように響く。父はまだ、あちらの世界を気にかけているのだ。 「なあ倫祐。お前に嫌悪感を抱く人間が、何の臆面もなく笑ったことがあったか?」 肯定も否定も受け付けず、父は問う。首を振ると、二度ほど頷いてまた笑った。 「そうだろう。それならば、相手が笑えなくなるまでは…一緒に居てあげなさい」 肩を掴む掌に力が入る。 「相手が笑えなくなった時、離れる覚悟を決めなさい」 胸が痛んだ。自分に足りないのはその覚悟なのだ。 俯いた俺に、父は小さく首を振る。 「自信なんていらないんだよ。お前になら、出来る筈だ」 また、肩への圧力が強まった。力強い声にひかれて顔を上げる。 「人にしてもらった事を、決して忘れないお前になら」 忘れる為の場所で、父は解く。 「自分を思ってくれる他人に対して、いつまでも感謝を忘れないお前になら」 忘れないことの大切さを。 「当たり前のことではないんだ。世の中には、それをすぐ忘れてしまう者も多く存在する。だから、わしはお前を誇りに思うよ」 忘れられる訳がない。沢山幸せを分けてもらったのだから。 気持ちが通じたのだろうか。父はまた頷き、そして目を伏せた…ように見えた。 「そうか。お前は、あんなに辛い事を背負っても尚…自分が恵まれていると言えるのか」 小さな呟きが落ちる。 父も、まだ忘れたくないのだろうか。幸せだった時の事を。だからまだ覚えていてくれているのだろうか。気にかけていてくれているのだろうか。 そうあって欲しい。これは俺の願望だ。 「ありがとう。倫祐。親バカと言われようと…お前はやっぱり、自慢の息子だよ」 開きかけた口を制するように、父は俺の体を揺する。また、光が増した。 もう時間が無さそうだ。 「ずるい父親と、怒ってくれても構わない。だけどな、倫祐」 どんなに苦しくても、辛くても。 「わしや、彼等を…絶望の淵に、立たせないでくれよ?」 その想いを知っているから。その想いを、させたくないから。 大丈夫。 「行ってきます」 頷いて、口にする。 父の顔はやはりぼやけていたけれど、笑った顔が容易に想像できた。 「ありがとう」 伝えきれない。 こんな5文字では。 少しでも届いただろうか。 だけど、言わないよりはずっとましだろう。 父は、揺れる視界の中で確かに頷いて応えてくれた。 彼を心配させない為にも、しっかりしなくては。 やっぱり俺は、幸せ者だ。 幸せ過ぎて申し訳ないくらいに。 透明に包まれる。 下に向かっているのか、上に昇っているのかは分からない。 呼吸が困難だ。意識も霞んでいる。 身体中、痛い。 ああ、これが痛みだ。 大丈夫。まだ生きている。 心音が戻らない。 身体中の血管を、細胞を、大事なところから繋ぎあわせて、定期的に電流を流す。 ショックを与えて心臓を動かさなければ。早くしないと。だけど焦っては駄目。 時間、どれくらい過ぎた?どうしてあのときすぐに動けなかったのだろう。その数秒で大きく変わることくらい分かっていた筈なのに。 後悔なんか、している場合じゃない。早くしないと…お願いだから。 お願い。戻ってきて? 何処にも行かないで? 頭の中を這いずり回る、言葉の全てを魔力に変える。右側の胸部に電圧をかけると、体がびくんと跳ね上がった。 反応は? 前回同様、無かったらどうしよう。涙目になる海羽の肩に、ハルカが戻ってきた。彼女が魔力を貯める毎に、肩から飛び降りて距離を取っていた彼の耳がピクリと揺れる。 ひゅっと、吸い上げるような音。続けて咳。血を吐き出した。心拍数が徐々に戻ってくる。 もう離れてしまわないように。 海羽の手に、無意識に力が入った。 右肩が温かい。不規則な呼吸。まだまだ安心出来ない。気を引き締める。 ポツリと、耳元に声が落ちた。掠れていて内容までは聞き取れない。 それが倫祐の声なのだと、数秒遅れて海羽は気が付く。 「倫祐、喋っちゃダメ…」 慌てて止めにかかる。急に話した反動で魔力が強まった。今、起きている出来事に現実味が増して、彼女の気持ちが浮き上がったせいだろう。 自然と涙が溢れ出し、言葉になりきらない感情が、空気となって外に流れた。 「大丈夫…絶対に…死なせたりしないから…」 なんとかそれだけ言葉に直すと、倫祐の頭が僅かに動く。彼の口元が、海羽の右耳のすぐそばまで来た。 「ありがとう」 囁くような。吐息にも似た小さな声が、海羽の中に沈んでいた不安を浚っていく。 「うん……」 息を詰まらせながら、それでも声を出した海羽は、瞳に溜まった涙を払って、指先に力を込めた。 「大丈夫…大丈夫だよ?倫祐…」 光が強くなる。彼にも、自分にも、言い聞かせるようにして呟かれた言霊が、現実としてその場に留まった。 倫祐は頷くように顎を引いて、また気を失ってしまったけれど。 海羽はもう、息を整え、きちんと前を向いた。 集中して。全てを繋ぎ合わせる。 大丈夫。 大丈夫だから。 戻ってきてくれて。 ありがとう。 cp104 [ツクラレシモノ:後編]← top→ cp106 [短冊] |