暗雲 丸いテーブルの上にディスプレイを乗せる。 コンセントと端末を繋いで、再生ボタンを押せばオルガンの音が聞こえてきた。 朝。出勤前に眺める映像が、前日と変わらぬ緊張感を呼び起こす。 厳かな空気と、奇跡と言っても過言ではない自然が起こした演出と。 昼から仕事の義希が寝ぼけ眼を擦る。彼は有理子がぼうっと見ているものに気が付いて、のそのそと移動した。 「呆気なかったわね…」 「そうだなぁ」 椅子を引っ張ってきて隣に座る義希に、有理子は画面から目を離さぬまま声をかける。 「準備も本番も、通常の半分程度に感じたわ」 「あれ?式やったことあるん?」 「くれあと小太郎の」 「ああ、そっか…。オレ、参加できんかったんだよなぁ。写真は散々見して貰ったけど」 暗かったディスプレイの中に光が溢れた。蒼の隣に乙葉が召喚されるシーンだ。 「良い式だったわよ。幸せが伝わってくる」 「それ、凄い含みあるように聞こえるけど?」 眩しいからか、目を細めて呟く有理子を義希は横目に見据える。彼女はため息の後、頬杖を付きながら眼光を強めた。 「あの二人からは、覚悟を感じた」 「なるほど、それは分かる。だけど幸せか幸せじゃないかまでは、まだ分からんだろ?」 「そうね。だからこそ、もう少し盛り上がる式が見たかったのかも。人沢山呼んで、みんながおめでとー!って叫ぶみたいな」 パーっと両手を放り出して、花でも投げるような仕草をした彼女を見て、義希の苦笑いが僅かに傾く。 「有理子が言うと、飲み会したかった的に聞こえるんだがそれは…」 「うるさい。いつもはそうでも、今回ばかりはその限りじゃないの」 やっと振り向いたと思えば口を尖らせぷんすかする有理子を笑い、義希は呑気に伸びをした。 「なら、今からでもやったらいいじゃん。身内だけでもさ」 「飲み会の話してんじゃないのよ!」 「そうだけど。打ち上げはもうやったじゃん?」 その言葉で互いに昨日を思い出す。海羽が作った料理の数々は、乙葉と蒼の好物ばかり。二人ともかなり庶民的なオーダーをしたようで、無駄に高級な珍味などはなく、城の職員たちにも逆に好評だった。しかし会場は式のままの、厳粛な雰囲気が残っていたせいか妙に静かと言うか。 「意外とみんな清楚だったのよね」 「そりゃ、あんな式のあとテンション上げて騒ぎまくるのは気が引けるし」 「あんたまで空気に飲まれてたもんね…」 「うん。おぎょーぎよくめしあがったん」 二人が呟く通り、かなり上品に事が進み、酒を飲み明かしたとは言え消化不良の有理子であった。 「ま、街はまた祭りの準備だ。こっからだんだん盛り上がっていく感じじゃん?」 「だと良いけど…」 「そんな顔するなって。逆に心配されちゃうぞ?」 なはは、と軽く笑い飛ばし、洗面所に向かっていく義希の背中に。 「それもそうね」 有理子は短く呟いて、密かにこめかみを押さえた。 沢也に言われた事を、彼女はまだ聞けていない。 彼は本当に幸せだろうか。 この結婚式で、幸せを感じる事が出来ただろうか。 聞く機会は何度もあった。聞くのが怖かった、とかではなくて。改まって聞くのが少し恥ずかしかったのだ。 こう言うところが自分の悪いところだと分かっていながら、なかなか直すことが出来ずに居る。なんとも頭の痛い話だ。 しかし、彼の答えは大方想像が付いた。そんな風に聞いてしまえば絶対に、彼は悪い答えを返さない。 なら聞く意味はないじゃないか。いや、それは少し違う。これはまだ彼女の妄想でしかない。彼の言葉となって初めて真実になるのだから。 それは彼女が一番よくわかっている事だ。 「ちゃんとしなきゃ…」 パチリと頬を叩いてみたが、気が引き締まったのかいまいち分からない。ただ、叩いた頬は確かに痛かった。 祝い事の名残はあっという間に消えていく。同時にその日自体もあっという間に過ぎ去った。 遅い夕食を終えた蒼が、シャワーを浴びて自室から王座の間に戻ってくる。 蒼自ら孝を屋敷まで送り届け、戻ってきたのが小一時間前のこと。因みに午前中には飛竜によって、他のゲスト達が各町村へ送迎された。 沢也はその間中、片付けの指揮がてら仕事を切り崩して居たことになる。 朝から今まで、王座の間から一歩も出ていない彼のいつも通りの顔に、蒼の微笑が話を振った。 「彼女、気付いていたそうです」 仕事に集中していたのか、区切りのよいところまで走らせたペンを置いて、沢也は徐に顔を上げる。 「何処まで?」 「そこまでは」 「後はこっちで話せって?」 「恐らくは、そう言う事でしょう」 孝に聞いた曖昧な話を思い起こしながら、蒼は小さく肩を竦めた。 「どうするつもりなんだ?」 「どうしましょうね?」 「またそれか」 「またそれです」 「はぐらかすつもりか?」 「沢也くんにまでそんなこと、していられませんよ。どうせそのうちばれてしまうんですから」 「なら、回りくどいことしてねえでさっさと…」 「まだ迷っているんですよ」 話すべきかどうか。いや、この場合は話しをするべきかどうか。 傍らの窓の外、辛うじて雨の降っていない夜空を眺める蒼の横顔を振り向いて、沢也はため息混じりに問い掛ける。 「そんなに難しい相手か?」 鋭い眼差しが痛い。蒼は曖昧に微笑んで踵を返した。 「取り敢えず、話を聞いてきます」 どのみちそうなるよう説得されるのだろうから、と背中が語っている。沢也は詮索を諦めてまたため息を吐いた。 「話すも話さないも成り行きで構わん。ただ、結果だけは報告してくれ」 気遣いを含む言葉に素直に感謝した蒼は、音もなくセキュリティー付きの扉を開く。 そこから3歩も歩けば直ぐに乙葉の部屋の前だ。殊更ゆっくりと、静かすぎる程に扉の前まで足を進めた彼は、珍しくため息を漏らす。 控え目にノックをすれば、数秒遅れてドアが開いた。 「少し、宜しいですか?」 「いらっしゃると思っていました」 僅かだった隙間を大きく広げながら、乙葉は言う。真顔のまま、声色すら変えずに。 対して蒼は丸くなった目を次第に微笑に変えた。 「本当ですか?」 「…半分は嘘です」 指摘を受けて目を伏せる。乙葉の視線はそのまま室内へと流れた。 「孝さんは話されただろうと踏んでいました。ただ、貴方が直接来られる可能性は低いものだと考えていました」 納得しながら入室して、蒼は後ろ手に扉を閉める。そうして部屋の奥を眺める彼女の背中に問い掛けた。 「何処まで把握していらっしゃるのですか?」 「全て何となくに過ぎません。きちんと把握している事情は皆無です」 「何時から、ですか?」 三つ目の質問で、乙葉の顔が上がる。その瞳は天井を写していた。 「村に戻った頃には」 やっと蒼を振り向いて、彼女は言う。蒼は真っ直ぐにその眼差しを受け入れて、思ったままを口にした。 「それでも戻られたのですね」 「戻るかどうかは随分迷いました」 体ごとしっかり振り向き直した乙葉は、両手を腹の前で組む。その上品な仕草が余りにも自然で、蒼は密かに感心した。 「優しい彼等の事です。何も悪くはないと言うのに、私達一家を見殺しにしたのだと思っている事でしょう。私を見れば、あの事件を思い出す。言わば、私自身が戒めのようなものです。私が居るだけであの村は苦しむ事になる」 淡々と、静かな語りが静まり返った部屋に馴染む。乙葉は途中、逸らした瞳をそのままに、変わらぬ調子で話を繋げた。 「だからと言って、離れてさえいれば忘れられるかと問われれば、それはまた別の話だと答えざるを得ません」 言葉を切って、蒼を振り向く。彼はただ、黙って頷いた。 「それならば。私は側に居て、伝え続けることを選びました。両親も、私も、感謝していたのだと。感謝して、いるのだと」 短い沈黙が訪れる。蒼は何も言わない代わりに微笑を強めた。乙葉も黙って椅子を勧める。 二人は丸いテーブルセットに、半端に向かい合って腰掛けた。テーブルの上には書類が重なっているだけで、特別なものは何もない。 「私が邪魔になる可能性も勿論考慮しました。しかし私が居ようが居まいが、小山内は放っておかないでしょう。そうなると、いよいよ答えは変わりません」 乙葉はテーブルの上に言葉を落とす。蒼も同じようにテーブルの上を眺めているのが、なんとなく見てとれた。 「小山内については知る術がありませんでしたから、孝さんを信じる他に道がありませんでした。現に、あの方は方々に手を回してここまで漕ぎ着けて下さった。私が、何も言わなくとも。全てを理解してくれたのです」 膝の上に重ねた両手に力が籠る。釣られて言葉にも力みが入った。 「予想以上でした。孝さんの手腕も、小山内と言う男の邪悪さも」 乙葉が顔をあげると、蒼も視線を彼女に合わせる。若干上目に見据える乙葉の眼差しは鋭い。 「彼は私に気付いていましたね?」 「そのようですね」 対して蒼は笑顔で肩を竦めて答える。その仕草に苦笑して、乙葉はポツリと。 「やはりあなたも気付いていたのですね」 囁くように口にしては、ため息で話を切り替えた。 「それで、教えて下さるのですか?」 「聞きたい、ですか?」 茶化すでもなく、どちらかと言えば真面目な色を持つ問い返しに、乙葉は微かに眉をしかめる。 「私の我が儘で皆さんに迷惑をかけたのです。どこまで大事になっているのか、知っておきたいと考えるのはおかしなことでしょうか?」 「迷惑、ですか。それなら僕も同罪です」 静かな会話にまた、溝ができた。訝しげに蒼を見据えた乙葉は、彼の微笑がいつの間にか威圧を含んでいる事に気付く。 「これはもう、あなただけの問題ではなくなった…結婚したのですから、当然ですよね」 「だからと言って…」 「勿論きちんとお話しします。僕が知っている範囲で、少しずつになってしまいますが」 くるりと、蒼の人差し指が回った。乙葉の意識が意図せずそちらに集中する。しかしこれくらいで誤魔化される彼女ではない。眉間には更に力が加わっていた。 「一度にお話しするには長すぎます。それに内容が内容ですから。ゆっくりと、時間をかけて説明する方が宜しいかと」 「…承知しました」 言い訳のように付け加える蒼の微笑が困ったようになる。それを凝視する乙葉が、疑いの色を解かないまま頷いた。 「それでは今日はこの辺りにして。続きはまた後日、と言う事で」 不意に、早々に、話を切り上げた蒼が立ち上がる。それをひき止めようと動いた乙葉を、彼は振り向き止めにかかる。 「まだお疲れでしょう?それに明日もまた取材ですから」 確かに、その通りではあった。あちらがこれきり誤魔化すつもりならば、また問い詰めれば済む話だ。 「飽きませんね」 「本当に」 頭の中で考えていることとは、全く別の返事が零れる。蒼もまた同じように同意して、静かに扉に手をかけた。 「それでは、おやすみなさい」 最後の挨拶には微笑だけが返される。 音もなく閉まった扉を背に、蒼はまた小さくため息を付いた。 聞きたいと言うのだから、話すべきなのだろうけれど。話したくない、と言うのが彼の本音だ。 孝さんが話さずに済ませていたように、なんとか切り抜ける方法は無いだろうか?そう、思わず思案してしまう雰囲気を、彼女は持っている。 こんな風に考えるのは蒼だけではないだろう。現に、例の村の人達も、彼女には何も伝えぬまま居るのだから。 そこまで考えて、蒼は思い直す。全ての判断は自分に託されているのだと。 乙葉の部屋の前から、王座の間への入り口へ到達するまでの短い間。纏まった考えに苦笑して、蒼はそっと扉を開いた。 翌日の城下町。 早朝からの雨にも関わらず、メインストリートは来る七夕祭りの準備で賑わいを見せる。 レインコートを着込んだ商人や近衛隊、傘をさしてでも買い出しに現れる元気な若者たち。雨音に混じる喧騒はいつもよりは静かなものの、先日から連なるイベントに浮き足だっているように感じられた。 大通りの交通整備やら、噴水広場の設営の打ち合わせなど、走り回るうちにいつの間にやら訪れた夕暮れ時。 駐屯地にはじわじわと奪われていた体温を回復しようと、交代に合わせて隊員達が集まってくる。入り口にぶら下げられたレインコートも、室内の人口密度も飽和状態間近だ。 義希がタオルで前髪を拭っていると、席を譲りがてら遅番の銭が会話の燃料を投下する。 「凄かったですねぇ。陛下の結婚式」 間延びした声に、居合わせたほぼ全員が反応を示した。 「自分、も少し落ち着きを持つよう心掛ける事にしたんす」 「だな。帯斗は特に大人にならんとな」 「特にって何?ズミこそ陛下みたいに優しい笑顔の一つでも浮かべて見せないと、何時まで経っても彼女なんかできないと思うけど?」 「そんなすぐムキになってちゃ、大人への道は遠いな」 部屋の最奥でやいやい始める帯斗と諸澄を眺めつつ、銭は朗らかな声を出す。 「第一は今日も元気そうですねー」 「お陰さまでねー」 「娘さんも影響を受けられたのではー?」 「おー。流石は銭くん。今まさにお家が真っ青だよ。僕も僕で、まだ見ぬ花婿の顔を忌々しげに想像したりしてね」 邪悪な空気が僅かに漏れた。そんな定一の微笑など吹き飛ばす勢いで、仁王立ちの轟が問い掛ける。 「ははは!凄かったな、あのパイプオルガン!どんな作りになってるんだ?誰か知らないか?」 「一人目の付け所が間違ってる人がいるっす…!」 奥で項垂れる帯斗のつっこみが、方々で苦笑や肩竦めを生んだ。 ややあって、テーブルの手前側に座っていた小太郎が、目の前の部下に声をかける。 「して、お前はどう思ったんだ?新入りよ」 「別に何とも」 「何ともってことは無いだろうよ。何かしらあるだろ?こう…」 「無いもんは無い。ってか感想強要するとかあり得ない。こんなくだらねー事で出世とか決まるのかよ?最悪だな近衛隊」 あからさまに顔をしかめてそっぽを向いたのは、あからさまに幼顔の少年だ。その風貌はやはりあからさまな反骨精神に溢れている。態度だけでなく、ピアスや髪型、眉毛までもがナイフのように尖っていた。 「出世?」 「なんの話だ?」 ポカンと口を開けてはこそこそ話す帯斗と諸澄。彼等を正面に、テーブルの端に立った銭がにこにこと首を傾ける。 「また想像の翼を広げちゃったね、尽(じん)くんー」 「つば…広げてね…」 「敬語ー」 ぷにっと頬を指で押され、おかしな顔になった尽を銭特有の笑顔が見据えていた。その圧力に負けたのか、尽は椅子から飛び退き部屋をぐるりと見渡す。 「とにかく、こんなくだらねー事に付き合ってらんねー。結婚だなんだって、ひ弱な話ばかりしやがって…」 「結婚がひ弱とはまた、若者の発想だねえ…」 「世の女性は強いですからね…」 「なんか深い話になりそうな予感…」 精一杯の威嚇を温い眼差しで見詰められた彼は、頷きながら瞳を細める定一、圓、義希とを順に指差した。 「ぴーちくぱーちくうるせえんだよ!ひ弱はてめえらだ!ろくに戦闘も出来ねえくせに、恋だの結婚だの…女子かっつーの!ダセエ!オレはそんなんの仲間になんか、ぜってえならねえからな!」 地団駄と共に言い捨てるだけ言い捨てて、尽はガタガタと駐屯地を後にする。残された面々はそれぞれに、実に穏やかな笑みで見送るだけ。 「若いねえ…」 「オレにもその感覚が分かるときが来るとはなぁー…」 「あー、隊長がおっさん側に行ってしまったっす…」 定一の呟きに同意した義希を、帯斗が遠目に惜しむ。そうして不思議な空気が生まれたところで、銭が人差し指を回した。 「そいで、どうするんでーすか?小太郎隊長ー」 尽同様、ぷにっと頬をつつかれた当人は、怒るでもなく遠い眼差しを中空に注ぎ続ける。 「ひ弱…ひ弱ねぇ…ってかあいつ、そんなに強いのか?」 「データ見たんじゃないん?」 「データだけで分かるかよ」 「なら、叩きのめしてやればいい!」 義希の茶々に言い返すと、別のところから答えが返ってきた。全員が全員、声の主を中心に傾いたところへ、銭の気の抜けるような声が落ちる。 「叩きのめ返されたら目も当てられませんけどねー」 「う、うるせえ!んなことあるわけねえし!絶対叩きのめしてやる!」 なはは、と笑い混じりの何時もの煽りを真に受けて、小太郎もガタガタと駐屯地を飛び出した。 見送った銭は小太郎が座っていた席に付き、緑茶を一口啜っては呑気に言う。 「今日も捕まらなさそうですねー」 「尽の奴、逃げ足だけは立派なもんだからな!」 なはは、と。銭とは違う調子で笑う轟の言葉を受けて、第一の面々が口を開けて納得した。 「あー、それで…」 「なかなか進展しないんですね…」 諸澄と圓の感嘆が連なる。更に義希が唸りを繋げて虚空に呟きを上げた。 「小太郎も遅くはない筈なんだけどなー」 「小太郎隊長も、いっそ卑怯になればいいのにー」 「多分そこまで頭回ってないでしょー」 銭と定一も互いに虚空に見解を上げれば、昇ってきたそれらが見えたかのように、義希が素早く反応する。 「ひきょー?なになに、どーするん?」 「隊長は、も少し頭使った方がいいと思う」 「俺もっす」 「えー…」 諸澄と帯斗の呆れたような呟きに、ショックを受けた義希が項垂れて口を尖らせた。 七夕祭りの準備も順調に。 それからまた数日の時が流れた。 6月も終わりに近付いている。 梅雨時の王都は静かなもので、外を賑わせるのは主に雨音だけだ。 下から上がってくる報告も特別なものはなく、変化の兆候すら見られない。 郵便課を常駐させている例の八百屋にも相変わらず変化はなく。後続の刺客が潜んでいる気配もない。 八百屋も、スパイも、諦めてくれたのか。いや、それよりも大きな何かをするつもりでいるのか。 耳に馴染む雨音が、嵐の前の静けさにならないといいのだが。 王座の間のデスクの上に小さなため息を漏らした沢也が、背後の窓を振り返る。雨は相変わらずの調子で視界を煙らせており、彼は思わず煙幕を想像した。 見通しが悪いのは景色だけではない。どうも何かがおかしい。そんな予感だけは常にある。しかし実際には前述の通り、至って平和な日々が続くばかり。 どうしたものかと考えては親展を待つ。その先にあるのが凶兆で無ければストレスにもならないのだが。 再度ため息を付いた彼の目の前には、何時ものように書類の山。左手に新品のデスクを据えた八雲は民衆課にお使いに行っている。 蒼と有理子と亮は会議。長テーブルでは海羽と倫祐が、仕事ながらにお茶を飲んでいた。 会話こそないが、室内には常に和やかな空気が漂っている。こうして二人が同じ空間に居るだけで、不思議な心持ちがした。 これはもどかしさと言うものか。安堵と言うものか。全く異なる感情が入り交じっては、あ空間に消えていく。 沢也がそうして三度目のため息を落としたところで、倫祐の顔が上がった。数秒遅れで沢也も気が付く。更に数秒遅れて、海羽が身構えた。 「お久しぶりです、海羽さん!」 静かだった空間に騒音が響く。肩を跳ねさせた海羽の前までずかずかと足を進め、秀は恭しく頭を下げた。 「長いこと会いに来られずにす申し訳ない、ちょっとした野暮用を片付けていたもので……ああ、陛下も。この度は御結婚おめでとうございます。近々厳選に厳選を重ねた高級品をお届けに上がります故」 そこまで言って顔を上げ、王座を見据えた彼の瞳が嘲笑で歪む。 「おや。いらっしゃらないのですか?折角私が挨拶に出向いたと言うのに」 「お気遣いなく」 「それよりもこの状況を何とかしようとは思わんのかね?」 秀は沢也のため息に靴音で抗議した。彼の言いたいことを全て無視して、沢也は更にため息を吐く。 「どうしてやろうか、今考えてるところだっつの」 「何か言ったか?」 「はい。どうにもなりませんね」 地獄耳に再三のため息を注ぎ、呆れたように言った沢也を秀が睨み付けた。彼はついでに平然と室内に居座る倫祐にも威圧をかけて、目の前の海羽に向き直る。 秀が口を開こうするのを見計らって、沢也は話の先を繋げた。 「文句があるのでしたらお帰りください。お父様が心配されていましたよ?」 さらりとした彼の口調に、秀の眉があからさまに歪む。数拍置いて、彼はやっと短く言い返した。 「心配無用だとお伝え下さい」 「ご自分で伝えては?」 「おや、そうでしたね。海羽さんに会いたい余り、家に寄るのを忘れていましたよ」 直ぐ様そう切り返しはしたが、秀の額には汗が滲んでいる。海羽も倫祐も、更には沢也までもが長袖を着ていたが、特別暑さは感じられない。 秀は引きつった口元を隠すように、急ぎぎみに踵を返した。 早足に歩いて、数秒後には大扉の前に。辿り着いた彼は、殊更ゆっくりと振り向いて妖しく笑う。 「また明日参ります。それまでにその木偶の坊を追い出しておく事です」 捨て台詞に含まれた感情が、王座の間に充満した。 退出した秀が、廊下を歩く音が妙に大きく響いている。 外は雨。 灰色だった雲の色が、酷く暗く、淀んで見えた。 cp100 [偽りの愛]← top→ cp102 [ツクラレシモノ:前編] |