明治維新
 文明開化

 時代は流れる

 新しい方へ、新しい方へと


 そして


 全てを見失う



「1895」



 旧家の一人娘。
 それが私の肩書きだった。


 生まれてこのかた大事に育てられたかと言われればそうでもなくて、どちらかと言えば放置気味であったと自覚している。
 と、言うのも母は酷く私に興味がなく、自分の趣味に忙しい人だったからだ。
「今日もお芝居?」
「そう」
「帰りは…?」
「さあね、夜かもしらん」
「…夕飯は?」
「独りでお食べよ」
「母さん…」
 ピシャリ。閉められた戸が酷い音を立てた。
 幼い頃の思い出はその戸板だけ。
 来る日も来る日も、戸板を見つめて時を過ごす。見ないようにしようと努めても、結局は見てしまうのだ。
 父は離れで仕事に耽っていたし、下女は元から居なかった。私は昼間に学校へ行き、帰ってからは家事に没頭する。母は遅くに帰って、遅くに起きて。ご飯も食べずに出掛けて行く。
 毎日毎日、飽きもせず。列車に乗って各地を回っているらしかった。彼女が本当に芝居を追いかけているのかどうかは、分からないけれど。
「明日…卒業式なんだけどな」
 言いそびれた報告を独り言にして、私は踵を返す。

 だけど、長かった戸板との思い出はそこでお仕舞い。
 翌月から私達一家は揃って洋館に移り住むことになったから。


 古いものは嫌いだった。
 だけど、新しいものも嫌いだった。
 じゃあ何が好きだったかって…そうね、そもそも一切楽しいことがない世の中に絶望していたから、好きなものなんて無かったのかもしれない。
 何もかもがどうでも良くて、人と話すのも面倒で。
 人間関係を希薄にして、周りを気にせず自由に振る舞っては…良くじゃじゃ馬だとかお転婆だとか陰口を叩かれていた。
 それは学年が上がっても、学校が変わっても同じ。だって私が変わり者であることに変わりはないのだから。


 家が変わっても相変わらず母からは疎まれて、放置されていたけれど。父とは少し、話が合った。
 父は昔から仕事に忙しい人で、人に合わせることがない人だったように思う。そう言う意味では、私は父に似たのかもしれない。
「家の裏に丘があるだろう」
 食事の最中、不意に父が言った。
「ええ。大きな木のある」
「そう。あれはいい」
「本当に?」
「何がだ」
「本当に、そう思われますか?」
「ああ。なかなかに立派だ。そして嘘をつかん」
「私も…そう思います」
「そうか」
「はい」
 それがはじまりで、私は時々父と話をした。
 難しいものも多かったけれど、比較的楽しんで話せていたと思う。時代の流れに付いていけず、辟易している父の様子が話の節々に見てとれた。
 そんな父が、昔から自己主張しない父が、次第に小さくなっていくような気がして胸が痛んだ。それは母の遊び歩きが本格化した頃から、人知れず続いて事だったのだろう。
 皮肉にも、それすら私達二人の心情を近付ける手伝いをしているように思えた。

 そうして一人目の拠り所を見つけたせいだろうか?
 その頃の私は、もしかしたら浮かれていたのかもしれない。


 17歳の春。
 とある冷たい雨の降る日。女学校からの帰り道。
「楠木郁さん?」
 そう言って、私に話しかけてきた男が居た。
「どなた?」
 私は当たり前の反応でそれに答える。何故なら顔見知りの中に私に声をかけるような人は居なかったから。
「ずっと気になってはいたんです」
「何が、です?」
「あなた様の事が」
「冗談は止して頂戴」
「これはこれは、手厳しい」
 ツンとすます私の態度に構わず、男は手前勝手に足並みを揃える。
「僕、くぬぎと言います。檪草平」
「そう」
「聞き覚えはありませんか?」
「さあ」
「有りませんよね、そりゃあ」
 ははは、と。檪は笑った。人懐っこい笑みだと、私はその時思ったものだ。
「どうか興味を持って下さいませんか」
「強引な方ですね」
「いけませんか?」
「このような小娘にけったいなことです」
「破天荒で、じゃじゃ馬で、お転婆…ですか?」
「ご存知でしたの?でしたらこれはただの冷やかしなのですね」
「飛んでもない。いやあ、そう噂に聞いていたものですから」
「もう十分だわ」
「お待ちなさい」
 檪は、私の手を掴んで呼び止める。その掌は妙に熱を帯びていた。
 振り向く私に、彼は訊ねる。
「木を見に行きませんか?」
「木?」
「そう。木を」
 にっこり笑ったその顔を、私は今でも良く覚えている。


 そうして彼が案内したのは、あろうことかあの木の下だった。それが私の家の裏手だと教えると、大層驚かれたのだけれど。
「あなたはどうしてこの場所を?」
「…家から見えるのです」
「近くなの?」
「ええ。貧相な平屋です」
「此処に来たことは?」
「今日が初めて」
「…木がお好きなの?」
 何時しか、私ばかりが質問を投げ掛けていた。彼は、檪は答える。
「ええ。好きです」
 臆面のない笑顔で。


 私は彼に惹かれていた。
 出会ったばかりの彼に。
 それはきっと、運命だったのだと思う。
 ああ、違うのよ。そんなむず痒い物じゃなくて。
 ねえ、だけど。きっと本当にあるのよ。
 人には、そう言う力が。


 それからあれこれあって、結局私は檪と結婚することになった。
 得体の知れない男と…と思うかもしれないけれど、その辺りは然して問題にならなかった。彼は天涯孤独の身で、私は跡取りの無い古い家の娘だったからだろう。
 縁談は、なんと母が取り纏めた。娘のためと言うよりは、自分のためのようにも見えたけれど…それでも私は嬉しかった。
 母が家に居る時間も増えたし、家の中が明るくなったから。
 これでやっと、家族らしい体制が整った。
 喜ぶ私を他所に、父の表情は芳しくない。思い詰めたような…虚ろな目をして、遠くを見詰める事が多くなった。
 その眼差しは必ず窓の外に向いている。そしてそこには必ず、あの木があった。
 私も、父も。ガラス越しに観る木の姿が好きだった。悠々と空に伸びる枝枝が、雲に、青に重なって風を起こす。私達の苗字と同じ、楠木。
 だからきっと、ただの憂鬱だと思って流すことにした。
 檪が家に来て、正式に家族となり、食卓を囲むようになっても、それが改善される事はなかったけれど。


 流れていくのだ。
 全てが、何処かに向けて。
 父も。母も。彼も。…そして、私も。



 また少し、時は流れる。
 幸せで、温かい。
 だけどそれもそう永くは続かない。
 その年の冬が終着点だったのだから。



 その日は、夜から雨の予報だった。
 私は学校帰りに寄り道をして、ちょっとした贈り物を買い込んだ。父に、母に、そして夫に贈る為の物だ。
 木の葉に見立てた栞や髪飾り、それから小さなナイフ。
 彼が良く、果物を剥いてくれるのだけれど、その時に使うのが古びたものだったから。出会って間もない頃、切れ味が悪いとぼやいていたのを覚えていたのだ。
 雨が降り始める前に帰ろうと、夕暮れの始まった町並みを歩く。抱えた包みは、不思議なことに生きているような暖かさを放っていた。

 寒さで赤くなった鼻を片手で覆い、曲がり角を覗き込む。その突き当たりが自分の家なのだが、どうにも暗く淀んで見えた。
 見上げれば、空を覆う雲が夕焼けの色を薄めている。だからこそ気に止めることなく、私はいつものように門を開いた。
 真っ白な玄関を開いても、先には闇が続いている。中はしんと静まり返って、人の気配すらない。

 おかしい。

 私は直ぐにそう考えた。何故なら今日は、母が夕食を作ると張り切っていたから。父が片付かない仕事があると二階に籠っていたから。
「ただい…ま…」
 小さな声で呟いた。すると、返事が返ってくる。ガラスが割れた音として。
 甲高いその音に肩を揺らし、私はそちらへと足を進めた。薄闇に馴染む自身が不確かなものに思えて、自然と不安が込み上げてくる。
 そろり、そろりと歩を進め、居間に差し掛かった時。足元を這う水分の存在に気が付いた。
 それは、居間の中から闇のように延びてきて、私の履き物に染みていく。
 白に浸食するそれが。
「血…?」
 闇の中で赤く、輝いた。
 驚いて跳び跳ねる私の背後、不意に気配が現れる。
「草平さん…?」
 後退りと共に名を呼ぶと、彼は頷いて笑顔を浮かべた。
 じりじりと、迫る彼から逃げるように居間に追いやられた私は、彼から目を離すことが出来ずに足元を掬われる。
 背中から倒れ、慌てて起き上がった私の目に飛び込んできたのは、鮮やかな赤だった。
 その赤は、自らを倒した物体から流れている。
「母…さん」
 呼び掛けても、見開かれた瞳が動くことはない。当たり前だ。彼女の中からこんなにも、血が流れ出しているのだから。
 足音にハッとして、私は顔をあげた。刃零れをした、古びた包丁が、赤に染まってそこにある。それを握るのは、私を見下ろす彼の手だ。
「どうして…」
 震える唇が問いを溢す。
「どうして、あなたが…」
「どうしてだと思う?」
 彼は、にっこり笑って問い返した。私は、訳もわからず首を振る。
 あの時と、出会った時と同じ笑顔を傾げた檪は、包丁の先を右側へと向けた。
「君の父上が、僕の父を死に追いやったからだ」
「私の…父が…?」
「そう。この館の裏側にある丘、あれ…うちの父が目をつけた土地だったのさ」
 思わず振り向けば、まず窓の外が見える。先で揺れる木を背景に、今度は座り込む父の姿が見えた。
「だけど君の父上が邪魔をして、あろうことか高値で買い上げてしまった」
 言葉を聞きながら、父に呼び掛ける。当たり前に返答はない。何故なら彼にはもう、口が付いてなかったから。
 呆然とする私を、檪は無理矢理振り向かせ。
「うちが貧乏な事は、君も知っているだろう?」
 優しげに問い掛けた。
 私はただ頷いて先を促す。
「そんなうちが、どうして高値が付いた土地を取り戻せようか」
 ははは、と。彼は笑う。無邪気に、臆面もなく。
「借金を苦に、父は自害した。母も後を追った。それにも関わらず、あの男の理由は酷いものだった」
「理由…」
「木を守るため、だと」
 胸が高鳴った。それに気付いてか、檪は不意に表情を無くす。
「人間よりも木が大事だとでも言うのだろうか?」
「それは…」
「知らなかったから仕方がないか?ははっ、みな似たような事を言う。あいつは悪くない、悪いのは借金をこさえた父だと…」
 鈍い赤が僅かに光った。彼の顔の前に掲げられた刃物の色だ。
「木を切るくらい、何だと言うのだ…」
 目を眩ませた私に、檪の微笑と切っ先が注がれる。
「さあ、土産話は仕舞いだ」
 檪が一歩、足を踏み出した。私は俯き、その爪先を見据える。
「君にも死んで貰う。そうしたら、この家も、あの丘も…僕の物だ」
 視界の片隅に、壊れた髪飾りの破片が映った。



 そうだ。
 忘れていた訳じゃない。
 ただ、信じてみたくなっただけ。


 人は嘘をつく。
 悪意があれば、尚更だ。


 私が馬鹿なんだろうか?
 それとも。
 あちらが悪いのだろうか?



 いいえ。きっと、誰も悪くなんかない。


 それなのに、どうしてだろう…



 人は全てを見失う。
 自分のことも、他人のことも、そしてこの世の在り方すら。



「それなら私も同罪です」
 私は彼に告白した。いや、彼は元から知っていたのだろう。
「この世に生まれ落ちた時点で、既に…」
 これが罪深き人の性ならば。
 私は、指先に触れたそれを握り締め、そして。
「帰りましょう。自然のもとへ」
 檪の胸元に突き立てた。
「人は、人で在りすぎたのです」
 呟くと、彼の口から笑いが漏れる。見上げると、そこに赤が降り注いだ。
「良いナイフだ」
「差し上げましょう」

 そして私も赤に染まる。

「代わりにそちらの刃を下さいませんか」

 倒れ行く彼の手を汚さずに。









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