行く宛も無く彷徨っている訳ではないと言う事は理解した。
 しかし彼には何時まで経っても知らされることはない。
 これから出逢うヒトのことも、これから向かう先のことも。

「そのくらい、教えてくれたっていいじゃないか」
 そう小さく零したエニシアは、現在宿屋のベットの上に腰を据えている。彼の向かいで荷物を整理するジャッジは、手を止めぬままそれに答えた。
「教えても構わんのじゃがのう」
「じゃあ教えてよ。次はどんな奴?何処にいるんだ」
「それをわしの口から言ってしまっては、味気がないじゃろう?エニシアよ」
「会ってからのお楽しみってやつね〜?」
 備え付けの小さなテーブルで紅茶を楽しんでいたティスが話を締めくくると、エニシアの口から小さな溜息が漏れる。彼はベットの上に片っ端から荷物を開け広げるジャッジから目を逸らし、傍らの窓の外を見据えた。
 陽はとうに落ちており、更には1階の部屋であることも手伝って、見えるものと言えば宿の裏手に広がる森の一部だけ。
 街道から離れた場所にひっそりと存在するこの村は、深夜0時という時間帯だけに既に寝静まっているらしく、部屋の外からは物音一つ聞こえない。尤も、こんな辺鄙な村に立ち寄る旅人は少なく、この小さな宿屋に宿泊しているのは彼等3人だけなのだから、仕方の無いことではあるのだが。
 季節と言う物を感じ難いこの国でも、この時期になると流石に冷える。それを証拠に、部屋に入るやいなや暖炉に火が灯され、その光は未だ失われていない。ジャッジが荷物を整理する片手間、「寒い」と言いながら薪をくべ続けているのだ。
 お陰で暑がりなエニシアは、着ていたシャツを脱ぎ捨てて腕まくりをするはめになった訳だが。ジャッジはお構い無しに彼の上着を拝借すると、些か大きすぎるそれを肩にかけて身震いしたのだった。
 そうしてエニシアが何をするわけでもなくぼんやりと宙を眺めていると、紅茶を飲み終えたティスがゆっくりと立ち上がる。
「ちょっとお風呂行って来るね〜?」
 暖炉の熱を利用して裏側で湯でも沸かしていたのか。ティスは着替えとタオルを手に洗面所の扉に手を掛けた。
「こんな時間に?」
「うん〜」
 エニシアの呆れた問いかけに振り向いて、ティスは窓の外を指し示す。
「今日は月が綺麗だから」
 ふんわりとそう告げて、彼女はそっと扉に吸い込まれて行った。
 エニシアは気の無い返事と共に窓に足を向ける。数歩先に進めば手の届く位置にあるそれを開こうとするエニシアを、ジャッジが必死で止めに掛かった。諦めてそのまま座り込み、窓を背に目一杯上を向いたエニシアは、微かに見える空に浮かんでいる筈の月を探す。
 この時期は2色あるうちの1つしか見えないだろうと高をくくっていたエニシアが、満月に近い並んだ2つの月を捕らえた時。
 不意に、部屋の入り口が開かれた。
 開かれたと言っても勢いは無く、丁度人一人が通り抜けられるくらいの隙間が出来た程度。不審そうに顔を顰めたエニシアの次に、異変に気付いたジャッジが首を回すと、見知らぬ人物が半分だけ顔を覗かせた。
「こんばんは」
 か細い声でそう呟いた彼は、ジャッジがゆっくりと口元を歪めるのを待ってから部屋の中へと入ってくる。
「着きおったか」
「お久しぶりです。ジャッジさん」
 バタンとトランクを閉めて体ごと向き直ったジャッジに一礼したのは、真っ黒な髪に大きな丸眼鏡を装着した気弱そうな青年だ。彼はやはり蚊が鳴くような小声で挨拶を終えると、閉めた扉の前で俯き気味に立ち止まる。
「誰?」
「ムーンじゃ。近くに居ると言うんでのう。寄って貰ったんじゃよ」
 エニシアの訝しげな問いかけに対してジャッジが軽く答えると、ムーンはエニシアに向けて大袈裟すぎるほど頭を下げた。
「はじめましてエニシアさん。夜分遅くに失礼します」
「ほんと、もう寝ようと思ってたのに」
「す、すみません」
 溜息のように吐き出された皮肉にこれでもかと縮こまるムーン。その反応を見てエニシアは目を丸くする。
「これエニシア」
 ひょいっとベットから降りて、ジャッジは未だ床に座り込むエニシアの頭を小突いた。
「正直、先の例から言ってそんなに萎縮されるとは思わなかった」
「仕方が無かろう。今は新月じゃ」
「は?」
 適当に吐き出された言い訳に返された言い訳。エニシアは意味を理解し兼ねて空を仰ぐ。そこにはやはり、煌々と輝く2つの月が丸に近い形で並んでいた。
 そうしてエニシアが首を捻り続ける間、ジャッジは立ち尽くすムーンを椅子に座らせようと試みるが、彼は滅相も無いと断り続ける。最終的にムーンが折れて着席するまで、実に10分程の時間を要した。それでもジャッジは特に気にする様子も無く元の位置に戻ってくる。
「で。新月ってどういう意味?」
「そのままの意味じゃよ」
「じゃあ僕の目がおかしいの?あそこにちゃんと見えるけど」
 そう言ってエニシアが空を指差すと、ジャッジはふっと微笑んでムーンに視線を流した。
「あの…」
「あー。ムゥちゃん久しぶりー」
 ムーンの言葉を遮るように開かれた扉から、ティスがひらひらと手を振ってみせる。そんな彼女を振り向いた3人は、それぞれの反応でそれに答えた。何時もの事だと特に反応することも無いジャッジと、特に関心も無さそうに邪魔されたことに対して溜息を漏らすエニシアと。
「わ!ティスさんもいらっしゃったんですか?!」
 顔を真っ赤にして慌てながら、俯きそっぽを向くムーンと。
「そんなに慌てることないじゃないー。みんなして酷いなぁー」
「その格好じゃ無理もないと思うがのう。服くらい着てきたらどうじゃ?」
 ティスがムーンの反応に対してぷっくりと膨れて見せると、ジャッジが問題を指摘する。バスタオル1枚でその場に佇んでいたティスは、特に悪びれる様子も無くバスルームに戻っていった。
「みんな…?」
「ココに来る前にグスに会ってきたのじゃよ」
「ああ、成る程…」
 2人の関係性を知っているのであろう。それを聞いただけで納得を示すムーンの声は、相変わらず小さいままだ。しかし不思議と聞き取ることが出来るのは、周囲が静かなせいだろうか?どちらにしても、彼が普段からあの声量で会話を行っているのだろうことを、エニシアは何となく察した。
「あの…?」
「どうしたムーン」
 ムーンはきょろきょろと周囲を見渡しながら、4つあるベットを視線で数える。わざわざ数えずとも分かる数あわせを終えた彼は、小首を傾げるジャッジに向けて恐る恐る問いかけた。
「彼女もこの部屋で…?」
「そうなるのう」
「節約しないと、またファンのとこ行かないといけなくなっちゃうからねー」
 タイミングを謀ったかのように再登場したティスの言葉にムーンが何度か頷いてみせる。先ほどのように赤くなることはなかった彼ではあるが、眼鏡の下では確実に視線が泳いでいた。ティスはそんなことはお構い無しに、目のやりどころに困る大きく肩の出た服一枚で、欠伸交じりにゆったりとベットに辿り着く。
「ファンさんの支援で旅をされているんですね」
 ムーンはなんとか気を取り直して息を吐くと、やはり小さく納得の言葉を吐き出した。
「君もそうなんじゃないの?」
 エニシアがなんと無しにそんなことを尋ねると、ムーンは首を横に振る。
「いえ、僕は旅の途中、街で仕事を頂いて生活してます」
「その性格で?」
「す、すみません。裏の仕事でしたら、喋ることも少ないですし」
「そういうお主はどうしておったのじゃ?エニシア」
 またも申し訳無さそうに下を向いてしまったムーンの代わりに、ジャッジが会話に割り込んだ。エニシアは然も当然と言う様に返答する。
「街1個潰しちゃえば暫く困らないから。金には」
「潰した挙句金品強奪とは…やりおるのう」
「さすが殺人鬼と呼ばれるだけのことはあるわねー」
「そ、そそそそそ…そんなことをしてらっしゃるんですか?」
「少し前までの話だけど」
 大したことでも無さそうに答えるエニシアを見ていたはずのムーンが、白黒させていた瞳をとうとう真っ白にしたのは数秒後のこと。静かだった空間に突如騒音が響くことになったわけだが、先に言ったように宿泊客は彼等だけなので、問題になることもなく話は進む。
 座っていた椅子ごとひっくり返ったムーンを悠長に指差して、エニシアはベットの上のジャッジを見上げた。
「…気絶しちゃったけど?」
「あらら〜」
 どうでも良さそうなエニシアの声と、気の抜けるようなティスの声が連なる中、ジャッジはトテトテと水場に足を進めると、コップに水を汲んでムーンの前に歩み寄り。
「しっかりせいムーン」
 無情にも顔面にその全て注いだ。さぞ驚いたであろうムーンはがばっと起き上がると、犬のように水を弾いて眼鏡を外す。
「あああ…またやってしまいました」
「仕方ないわよ。今は新月なんですものー」
 服の裾で眼鏡を拭きながらも、あからさまに落ち込むムーンをティスが宥めた。先ほどのジャッジと同じセリフに顔を顰めたエニシアは、続くムーンの言葉で思考を中断されることになる。
「いつかは彼女みたいになれたらな、って思うんですけどね。まだまだです」
「彼女?」
「僕の尊敬する人です」
 疑問符に対し、ふっと微笑んだムーンの表情を見たエニシアは、理解不能だとでも言うように首を傾けて見せた。ムーンもそんなエニシアを見て不思議そうに目を瞬かせる。
「貴方にはいないんですか?尊敬する人」
「いないじゃろうな。エニシアには」
「いないな、間違いなく」
「人が嫌いなのよー。エニーは」
 3人揃っての回答に驚くでもなく、しかし「うーん」と唸ったムーンは、エニシアと同じ方向に首を倒して小さな声を出した。
「では、その、人でなければ何かありますか?」
「人じゃないものを尊敬する奴なんているのか?」
「自然物とか、現象とか、そんなものに思いを寄せる方もいらっしゃいますよ?」
「へー」
 本来なら関心した時に使われるはずの相槌も、エニシアにかかれば「無関心」なものとして発せられるのだから不思議だ。
「生憎僕は、そんな思い持ち合わせていないよ」
 ムーンは傾けていた首を垂直に直しながらも、相変わらず不思議そうな表情でエニシアを見詰めている。エニシアは不意に上を向くと、新月とは程遠い月を視界に納めた。
「何かを尊敬したところで、なにも変わらないからね」
 それはまるで独り言のように。
「僕は僕だ。それ以上でもそれ以下でもない」
 それはまるで、自分に言い聞かせるように。
 吐き出したエニシアは小さな溜息と共に立ち上がると、追いかけてくる3人の視線を掻い潜ってベットに潜り込む。
 それを見届けたジャッジとティスは顔を見合わせて、次にムーンの表情を窺った。
 ムーンは俯き気味のその口元を、三日月のように緩めたままエニシアを見据え。次にジャッジに向けて微かに頷くと、2人が就寝準備に入るのを待って自分もベットに身を埋める。
 数分後。
 3人が寝息を立て始めるのを確認するまで身動き一つせずその場に留まっていた彼は、夜の闇に浮かぶ光に視線を向ける。

 窓から漏れる月明かり。
 淡い光の先にある光源を思い起こしながら。

「敬わずとも生きていけるのなら、それに越したことはないんですけどね」

 ムーンはぽつりとそう呟くと、隣で眠るエニシアを羨ましそうに眺めたのだった。














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