Act.6:[ハイエロファント]







   ちょっとした山岳のように連なる紙の束の間から漏れる呻き声。
 窓の外は薄暗い。それと対照的に煌々と照らし出される部屋の中で、闇の中から轟くような言霊が断続的に響いている。
 高い天井に走る細やかな模様は、赤と金、双方の色合いをゲシュタルト崩壊させるかのように散りばめられて。そこに注がれるシャンデリアのきらめきが、高貴とも下品とも取れる雰囲気を醸し出す。
 壁に張り付けられた背の高い本棚の中には、不揃いの本が飽和状態甚だしく並べられており、それから溢れた数十冊が紙の山岳の一角に色を与えていた。
 カーテンの閉められた窓際から、数歩離した位置に据えられた深茶のデスク。例外なく紙に埋め尽くされたそれに向かう一人の男が、先ほどから連ねられている呻き声の主である。
 羽根ペンにインクを付けて、紙に書を記す。彼が口の他に動かしているのはその1点のみ。尋常ではない速さで生み出される文字は、彼が口から生み出す言霊とは裏腹に理路整然と並べられてゆく。
「なんでなんだ、どうしてこんなことを。私はこんなことの為にここに居るのか?違う、違う、違う……」
 呟かれるネガティブな言葉は、静寂を纏う室内にブツブツと流れ行く。それはまるで、独り言を続ける自分自身、書類に書き込む全ての事柄、何もかもを呪うように。
「私は、私は、誰の為に、何の為に、っ………!」
 ダン!突如響いた大きな音は、彼が自らの拳をデスクに叩き付けたことで起きた物。そんなことをしてみても、騒音と共に振動でインクボトルを微かに傾かせる以外は、特に変化を与えられない。目の前の紙をぐしゃぐしゃに丸めて、更には部屋中に火を付けて燃やしてやりたい気分に陥っているにも関わらず、彼にはどうしてもそれが出来なかった。
 短い揺れの後、小さな溜息が落ちたところに部屋の戸を叩く音が響く。彼はうんざりした表情でそれに答えた。
「依頼の手紙だ」
 静かに開いた扉から顔を出した優男が、封筒の束を手に部屋に入ってきた。それを横目に俯いた彼は、搾り出すように発声する。
「…またか」
「どうする?」
 半笑いで手紙を翻す男。渋々片手を差し伸べる彼。
 男から手紙を受け取って、封を切り、内容を確認する彼の目から、微かにあった筈の光が消え失せて行った。

 彼の名はデニス=ハイラント。

 名を聞いただけで、この国の者は理解し、恐れ、軽蔑すらするであろう。高い志を元にこの世に生まれ、その姓を受けた筈なのに。
「は、ははははははははははははは………………!」
 デニスの棒読みの笑いを聞きながら、男は部屋の片隅に置かれた生活スペースに足を運ぶ。
 男には明記された差出人を見ただけで、手紙の内容が大方理解できた。デニスがああして笑う理由も、そしてこの後どうなるのかも。
「ふざけるな!!!何が、何が金は用意するだ!こんな、こんな……有り得ない!これが王族のすることか?!叔父上は一体何を考えておられる!何故、貴族に逆らおうとしないのだ!!」
 響く絶叫。
 その中に混じる言葉の通り、彼は王族の血を継ぎ、姓を持つ国の役人。
 根拠?証拠?国に住まう者の中にそれを求める者はいない。何を隠そう、デニスの姓である「ハイラント」とは、この国の名称なのだから。
「くそう、くそう……!こんなはずでは、私はこんなことの為に生まれてきた訳では…!」
 デニスはガクリと膝を付き、今度は床に拳を叩きつける。その瞳に浮かぶ涙も、現在のこの状況も。今に始まったことではない。ここ十数年、何度も繰り返されて来たことなのだ。
「それでも、やるのだろう?君は」
 音の合間を見計らい、男が薬缶に水を注ぎながら問いかける。奮え、屈辱に顔を歪ませながらも椅子に取り付いたデニスは、声の主を見もせずに小さく返答した。
「仕方が無い。他に方法はないだろう。私がやらねば他に金が流れ、またくだらん仕事が増えるだけだ。逆らえば簡単に脱却できるというのにそれすらできず、貴様の手を借りてまで国民の被害を最小限に止めなければならぬ私の心労を理解する者などおらんだろう?なぁ…ファンよ」
 独り言のように連ねられた言霊に頷いて、ファンと呼ばれた男はソファに身を沈めた。
「君の志は尊敬に値する。まぁ、存分に喚くがいい。ここには自分以外、誰も居ないのだからな」
 火に晒された薬缶が震える音に馴染む声が、デニスの口元に苦笑を滲ませる。手元では軽快に筆を走らせながら、しかし一向に解決する気配の無い問題に頭を悩ませ。次第に紙の山に埋もれていく部屋を片付けることすら忘れて。デニスは一心に計画を進めていく。
「邪魔だなぁ、邪魔だよなぁ。いっそ全ての貴族を焼き払う法律でも作ってしまいたいくらいだ。しかしそんなことを公表してみろ?私に火がつけられる方が先だろう。他に何か良い方法がないものか。悪人を守る法律ばかりが出来上がり、国の宝である国民を守る法律は破棄しなければいけないなどと、そんなことばかりをやっている可笑しな国政をなんとかしなければならんというのに、私の手は一体何を書いているのだ?ああ、オカシイ。何もかもが狂っている」
 遠縁とは言え、自らの血縁が成す事全てが、そしてそれに巻き込まれて片棒を担いでいる自分自身が、憎らしくて仕方が無いと。感情の全てを体中から放出して。それでもデニスは仕事を進める。
 この国の規律を、平和を「守る」ための法律を。
「私が守りたいのは馬のクソみたいな貴族ドモでもなければ親戚でもない。何の権限も力も与えられずに家畜のように働かされている国民の方なのだ。綺麗事?ふざけるな馬鹿野朗。私は誰のお陰でここで生きていられると思っている。貴様らウジムシが寄越す金の全ては国民から搾り取ったものだろうが自分の物のように扱うな汚らしい。裁きたい。いっそ闇に葬ってやりたい。2度と出てこられないように地下数百メートルの場所に埋めてやりたい」
 盛大な独り言はまだまだ続く。ファンはそれに苦言を吐くことすらせず、マイペースにお茶を入れていた。お互いがお互いの存在を無視するようなこの形は、彼らが出会った頃から続いている。

 途切れることもなく続く狂気の言葉は部屋の書類に記される事もなく、ただの愚痴として空中に発散されるだけ。
 それでもいい。溜めているよりは吐き出してしまうべきだと言わんばかりに、延々と放出されていく呪いの声。

 そんな中、ファンは何時ものように一人分のカフェラテを用意して、ソーサーと共にデニスの元へと運ぶ。
「さあ。一息いれるといい」
 言いながら置いたカップの上に、彼の左手がそっと被せられた。
 一瞬だけカップが青い光に照らされたが、幻であったかように消えてしまう。しかしファンが手を退けると、カフェラテの表面には、複雑な模様が刻まれていた。
 デニスはそれを見て頷くと、迷わず一気に飲み干して。
「そうか。その手があったか」
 突如思い出したように呟くと、再び羽根ペンを握り締める。
「凄い、確かにこれなら奴等を懲らしめることが出来るかもしれん。奴等、条約など面倒なものには一切目を通さんからな。ファン。これは一体何処の国の法律だ?」
 嬉々として筆を進め行くデニスを後ろから見守りながら、ファンはそっと眼鏡を押し上げた。
「一昔前、ここに存在した国のものだ」
「そんなもの、良く調べたな。まぁ、貴様の知識の広さは今に始まったことではないが。これは驚いた」
 ハイラントの創立は今から約100年以上前のことである。デニスが驚くのも無理は無い。しかしファンは然も当然と言った素振りで肩を竦めると、自分の分の紅茶を入れてソファに戻った。
 彼が何者なのか、それはデニスも良く知っている。しかし周囲にそれがバレてしまえば大変なことになる。だから彼は、ファンを友人兼秘書としてここに匿っているわけだ。尤も、匿うと言うのは可笑しな表現であり、実際に匿われているのはデニスの方なのかもしれないが。
 こうして正しい法律を作ろうとすれば敵が増える、それがこの国の最悪の特徴なのだから。
 デニスが落ち着いた独り言の代わりにそんなことを考えるうちにも、ファンは悠長に紅茶を消費する。テーブルの手前で組まれた長い足。天井から注がれる光を反射する小ぶりの眼鏡が、彼の持つ優しげな表情を厳しく見せていた。
「明日も書庫かい?」
「そうなるだろうな」
「そうか。好きなだけ漁るといい。君が探しているようなものは、きっとあげられないだろうからな。せめて。それくらいは自由にしてもらって構わない」
 そう断言出来るほど、彼の計画の実現は難しい。しかしファンは然も当然のように口にする。
「そう卑下するな。君の言動は実に興味深いものだよ」
「そうか。そうあり続けたいものだな。役人の全てがあのようになってしまっては、もうこの国は…」
「心配ない。私はそのためにここに配属されたのだからな」
 配属という言葉に若干の疑問を覚えつつ、デニスはふっと微笑んだ。
「ああ。この調子で、全てを改善することができたなら、この国はきっと良い物になる」
「その調子で進めてくれ。自分は少し、眠るとしよう」
「ああ。明日、また同じ時間に起こすとしよう。ゆっくり眠りたまえ。今日はもう、独り言は止めにしよう」
 そう言って書面に意識を戻しかけたデニスに、ファンの控えめな声がかけられる。
「気をつけたまえ」
 細いながらもハッキリとしたそれがデニスを振り向かせたと同時。
「その法律には穴がある。そこを埋めるのを、忘れぬようにな」
 ファンはソファに横たわりながら、そっと眼鏡を外した。
「そうか、そうだな、確かに。ありがとう。助かった!」
 指摘に何度も頷いて、鼻息荒く机に向かうデニスの背中に。ファンの無感情な呟きが独り言として発せられる。
「おやすみ。デニス。良い夢を」
 眠るのはファンの方であるにも関わらず。言霊は自然とその場に馴染んだ。

 ファンの言う夢とは、夜に見るそれのことではない。
 デニスが思う、現実に浮かぶ夢のこと。
 彼は夜通しそれに浸る。
 何時の日か、いつのひか。

 それが良夢になるか、悪夢となるか。
 正夢となるか、夢のまた夢となるか。


「夢でも構わんさ」


「夢のまま終らせるわけにはいかんのだよ」


 国民も、王族も、貴族も。
 彼等の持つ異なる目標が、「法律」という一つの繋がりによって、この国に大きな影響を与えていることを知らない。
 ただ一部の、”関係者”達を、除いて。


















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