薄暗い森の中。 この国にこう言った場所は数多く存在するのだが、此処は他とは少し様子が違う。闇が何処か赤みがかって見えるのは何故なのか。その答えとなる存在は、数十歩先に鎮座していた。 しかしエニシア達は、ある人物とすれ違うことで暫しその場に止まる事となる。 まず彼等が目撃したのは、見上げる位置に吊るされた一本のロープ。地面に向けて垂れ下がる先端は、当たり前のように輪形になっている。 余りに良く見る形状なので、それが何のために取り付けられた物なのかは直ぐに理解した。そして、今まさに向こう側から歩み寄ってくる一人の女が、これからそれを使用するのだろうと言うことも。何故なら、彼女が椅子を抱えて居たから。 「物騒じゃのう。エニシア」 「放っといてやれば?」 「止めると言う発想は無いのか。お主」 「君は人を生かすのが好きだね。ジャッジ」 「常人であればそうするのが一般的じゃと認識しておるがの。ああ、失礼。お主は常人ではなかったのう」 「それはどうも」 「誉めてなどおらんわ」 「良いから放っといて行こうよ。死にたいやつは死なせてやるのが一番」 「エニシアくんは優しいのねー?」 「ティス。こやつをそう持ち上げるでない!調子に乗ってしまうではないか」 2人の無意味にも程がある論争を止めたティスのほわほわした一言に、ジャッジの呆れたようなツッコミが入った頃には女が間近に迫っていた。 「あ、あの…」 控えめに声をかけ、見上げ気味にエニシアの前方に立った彼女は、椅子を抱えたまま深く頭を下げる。 「すみません!ご迷惑を、お掛けしてしまって…!」 「迷惑?」 申し出に、エニシアが微かに顔を顰めた。それもその筈、彼女と彼は今始めて接触したのだから。 女はコトリと椅子を置いて、何とか判別できるくらいの微量さで指をさした。 「あれを、ご覧になったのではないのですか?」 彼女の示す先には勿論、垂れ下がったロープがある。 「ああ。見たよ」 「すみません!ごめんなさい…わたしのせいで、嫌な思いをさせてしまって…!」 「別に。何とも思ってないけど」 「お気遣い、ありがとうございます…。では、私はこれで…」 噛みあわない2人の感情をそのままに、くるりと身を翻し、元来た道を戻ろうとする女の背にエニシアの疑問が注がれる。 「死なないの?」 「え?」 「その為に来たんだろう?わざわざ椅子まで持って」 「しかし…貴殿方のお目を汚すわけにはいきませんし…今日は、もう…」 「僕は別に。気にしないけど?」 「断末魔等で、ご迷惑をお掛けしたくないのです。どうか、お気を悪くなさらないで下さい」 頑なに言い切る女を見て。エニシアの眼光が微かに鋭くなった。 「…君さ」 「はい」 迷惑そうでもなく、女は問いかけに振り向いて小首を傾げる。 「死にたいんだよね?」 「…はい」 「じゃあ、僕が殺してやるよ」 言いながら、エニシアはすらりと剣を抜いた。その後方に佇むジャッジとティスは、黙って様子を見つめるだけ。 女は数歩後退すると、慌てた様子で大きく首を振った。 「そんな…。ご迷惑をお掛けする訳には…」 「僕は殺人が好きだから迷惑にはならない」 「ですが…。手間になりますし…」 「寧ろ、最近殺してないから…有り難いくらいなんだけど?」 「こらこら。あんまり彼女を困らせないでおくれよ」 俯き始めた女の背後に、突如人影が現れる。良く通る澄んだ声を響かせたそれは、すらっと伸びた手足に、長い金髪。顔の半分を赤い包帯で覆ったおかしな姿の男だった。エニシアは直感的に降りてきた推測から背後の2人を振り向いて、それぞれの表情を確認する。その間、変な男は女の肩に手を乗せた。 「困らせてるつもりはないんだけど」 そう呟いたエニシアを無視して、男は女を説き伏せる。 「さぁ、心配しないで?他にも方法なんて…幾らでも存在するんだから」 「そ…そうですよね?他所様のお手を煩わせずとも…」 「そう。ボクも一緒に探してあげる。だから、安心して宿にお帰り?」 「あなたは…」 「大丈夫。用事を済ませたら直ぐに帰るよ」 そうして納得した女を見送る男は、その背中が見えなくなるまでエニシア達を振り向かなかった。数十秒が過ぎてやっと、辺りから女の気配が消えると。 「君がジャッジのパートナー?」 そう言って、確かにエニシアを見据える。彼の両目は塞がっていて、エニシアの姿など見えていない筈なのに。 エニシアは「やっぱり」と小さく呟いて、後ろの二人に視線を流す。 「手間をかけさせたのう。ハング」 「いいや。構わないさ。新しい一面も見ることが出来たしね?それよりも、お久しぶり。そして、はじめまして」 ジャッジがハングと呼んだその男は、3人に数歩近寄って恭しくお辞儀をした。その柔らかな仕草は、彼の姿格好に不似合いなほど自然な動きだ。 エニシアはやはり小さく溜息を付くと、目の前の男に短く問いかける。 「何なんだ。あの女」 「彼女は、ボクのモルモット」 「死にたがってるんだから、死なせてやればいいのに」 「そうだね。でも、彼女は少し特殊なんだよ」 「特殊?」 「そう。彼女は、もう死んでいる。正確には、死んでいるのと同じだ」 ハングは数日前と同じように語り始めた。まるでそれが義務であるかのように。 「彼女はね、自分が生きていることで他人に迷惑をかけてしまうから、自ら命を絶とうとしているんだよ。だけど、死ぬときにも、死んだに後も、他人に迷惑をかけたくない。だから誰にも迷惑をかけることなく死ぬ方法を探している。死ぬことを目的にして生きる人間なんて、もう死んでいるも同然だろう?」 「それなら尚更、殺してしまえば良いのに」 「言っただろう?彼女はボクのモルモットなんだ」 「だから殺してはいけないという理由にはならないだろう?」 「ふむ。君はどう考える?」 仰々しく両手を腰の高さまで持ち上げ、無機質なエニシアの表情と真っ直ぐに向き合ったハングは。 「何故人を殺してはいけないと言われているのか」 地味に本題から逸れた質問を、当たり前のように投げかけた。 エニシアはやはり面倒なことが起きたとでも言わんばかりに、しかしこれが本質だと見抜いて、更にはそれでも思ったまま言葉を口にする。 「辞めてくれよ。そんなくだらない質問」 「くだらない、か。どうしてそう思うんだい?」 「人の感情が関与することで人の行動を抑制しているに過ぎないってこと」 「それがくだらない、君はそう思うわけか」 「そう」 数回頷いて、ハングはエニシアの背後へと顔を向ける。 「ジャッジは?」 「そうじゃのう」 急な問いかけに肩を竦め、ジャッジは不適に微笑んだ。 「ワシはこう考える。人類が生き残るために、無意識にそう思わされているのじゃないかとな」 「へぇ」 その言霊に、エニシアのやる気皆無な感嘆の声が漏れる。 「今までに出会ったモノの中では、一番納得のいく理由だな」 珍しく同意して、エニシアは再びハングに目線を合わせた。それを待っていたかのように。 「そう。無意識に。しかし意識的に」 ハングは右手の人差し指を立てる。その下方で、赤い包帯が揺れた。 「自殺も立派な殺人だ。そうは思わないかい?」 「考えたこともなかった」 「そうじゃろうて。お主は考えることをせんからのう」 エニシアとジャッジのやりとりに「クククッ」と声を立て、ハングは自分の中で話を繋げる。 「だから彼女はきっと、長生きするよ。ボクはそう踏んでいる」 飛び飛びの会話にも関わらず、エニシアはハングの顔に張り付いた赤い包帯に問い返す。 「君がそう仕組んでいるだけだろう?」 「今はそうだね」 肯定と共に、然も楽しそうに笑う様は明らかに異様。まるでその不気味な場所が彼の為にあるように思えてしまうほど。 「でも彼女はきっと。自殺を止められたら、簡単に死ぬだろう」 笑い混じりにそう続けたハングに、エニシアの殊更面倒くさそうな溜息が注がれる。 「意味がわからない」 「止めて欲しいのさ。最後に。誰でもいいから、情けをかけて欲しい。それが彼女の最後の望みなんだよ」 「それこそ迷惑じゃないか」 「ああ。君の言うとおりだ。自殺を止めた人間が、その時は止められたとしても。後になってやはり彼女が死んでしまったことを知ったら不快だろうね。それが正しい。しかし彼女はそれに気付かない」 熱弁の合間、小さく言葉を切って。 「その情けが偽善だと言う事を知っているからさ」 ハングは妖しげにそう締めくくった。 「偽善でも迷惑に変わり無いと思うけど」 「そう。どのみち彼女は絶望して死ぬ運命なのさ。最後に迷惑をかけてしまったことに気付きながら絶望して自殺するのと、必要とされない絶望の中で自分を殺しながら生きていくのと。どちらも余り変わらないのではないかい?」 「大違いだよ」 「言い切ったね。まぁ、当たり前か」 最初から変わらず不機嫌そうなエニシアを指すハングの指先。その透き通るような白は死人のそれに似ていた。 「君も、彼女と同じ境遇だ」 死にたくても生きている。だからこそエニシアは彼女を殺そうとしたのだろうか?4人に流れる空気が若干の変化を見せる。 「しかし君は彼女とは違う」 「そうだね。僕はそんなくだらないエゴは持っていない」 「しかし、偏屈で凶悪なエゴは持っているようじゃがのう」 ジャッジの茶々を無視して、エニシアは再びハングに問いかけた。 「モルモットって言ったな?」 「そう。ボクは彼女を観察しているんだよ。生きる屍が行き続ける様を。そして、どんな風に死んでいくのか」 「それを見て何が楽しいんだ?」 「歩く屍の思考というのはね、驚くほど狂っているんだよ」 「狂った考えを見るのが楽しいってこと?」 「簡単に言えば、そうなるね」 頷いたハングを呆れたように見返して、エニシアは手に持ったままだった剣を鞘に収める。 それを見たジャッジは、口端を吊り上げてハングを見上げた。 「お主も相変わらずの変人じゃのう」 「エニーも負けてないと思うけどねー?」 「こんなのと一緒にするなよ」 そんな3人の様子を見守っていたハングは、満足気に頷いて両手を開く。 「君も、なかなかに面白そうだね。」 その穏やかな笑みは何処か猟奇的にエニシアを捕らえた。 「彼女が壊れたら、次は君を観察させて貰いたいくらいだが」 「僕は君たちのモルモットになるつもりはないよ」 「君達、か」 エニシアの発言に困ったように首を傾げ、ハングはジャッジに問いかける。 「見込みは薄そうかい?ジャッジ」 「いいや。その逆じゃ」 「ほう。そうか。まぁ、さすがだね。彼女が選んだだけのことはある」 小さな間を風が埋める。それと同時に口を開いたエニシアの声は。 「何の話を」 「それじゃあ、また会おう。御機嫌よう、エニシア=レムくん」 ハングの爽やかな挨拶にかき消されてしまう。 今まで目の前に居たはずの声の主は既に姿の見えない場所に。 見上げると、灰色の空に、赤い帯が幾つかの筋を描いていた。 |