Act.19:[デス]







 遠く響く賑やかな声。微かに漏れる生き生きとした光。流れてくるきらびやかな薫り。
 その全ては、暗闇の中の記憶。


 13年前


 ”お前の仕事は全てに逆らわないこと”
 そう教わって育ったからだろうか?何かを考えることは、昔から苦手だったように思う。


「この愚図が!さっさと掃除せんか!」
 怒号が突き抜けるのは、真っ赤な絨毯が敷き詰められた豪華なリビングだ。叱責された張本人は、禿げ頭に青筋を浮かべて息巻く主人を見上げ、ばれないように小さく息を吐く。握り締めた雑巾に染み込んだ汚れが、指を伝って袖口を浸食した。
「聞いとるのか小僧!」
「御意」
「分かっておるなら早くしろ!貴様のような小汚ない餓鬼…視界に入るだけで虫酸が走るわ」
 無表情に頷いて、彼は掃除の続きを始める。
 そこに響いたのは軽快な音。続けて襲いかかる寒気、そして臭い。自分がブリキのバケツを被ったのだと気付いたのは、それが音を立てて地に落ちた時だ。
「あら、ごめんなさい?こんなところにバケツがあるなんて、気が付かなかったわ」
 わざと蹴ったくせに、と心の中で毒を吐くが、微塵も表には出さずに額を拭う。
「こんなところに置いておくのが悪いんだ、君は気にしなくて良いさ」
 女主人にそう言って、家の主は濡れ鼠となった彼を見下した。その眼差しに込められた蔑みも嫌悪も。全てを理解しながら受け流し、少年は黙々と手を動かす。
「全く、どんな躾をしているのかしら?」
「今日も厳しく言い付けんとな」
「毎日毎日、懲りないものね」
 高々に笑い、悠々と去っていく背中を振り向きもせず。幼い少年は働いた。
 この世に彼の名を呼ぶものはいなかったし、彼にとって名前とはただ単に、識別記号でしかなかった。しかし彼にも名前がある。彼自身もそれを認識していた。

 エニシア=レム

 赤子の頃の少年に与えられた唯一のもの、それがこの名前である。
 エニシアは人不足に悩む家人の命令によって生まれた、奴隷の子供だ。当然両親も奴隷であり、現在も共に家人に仕えてはいるが。
「お前のせいで…」
 暗い地下室に小さな声が落ちる。続けて響いた高い音は、少年の頬を赤く染め上げた。
「あんたが失敗する度に、私達がどんな目に遭わされるか…あんたも知っているだろう!」
「同じ目に遭わせてやる」
「そうしないと、分からないものね」
 狂気の瞳は、容赦なくエニシアに降り注ぐ。しかし彼は絶望すらしなかった。何故なら、それが彼の日常だったからだ。
 憂さ晴らしにされた仕打ちが、また憂さ晴らしとなって小さな体に傷を残す。全ての終着点としてそれを受け入れてきたエニシアにとっては、それが当たり前であり、逃れられない現実として常に隣に座っているものなのだ。
「明日も草むしり、代わりにやっておきなさい」
「俺の分もな」
「御意」
 壁に叩き付けられた頭部が一瞬だけひしゃげる。無感情に放った肯定は血の味がした。

 自分が生まれたことで増えると思われた給料は変わることなく、奴隷の中でも最低な生活苦と食糧難に追い詰められた両親が、こうして病んでしまったのも仕方がないことだと自分に言い聞かせる。
 エニシアはそうして自分を守っていた。
 誰にも愛されない現状に、希望の欠片を潰されてしまわないように。



 そんな生活に転機が訪れたのは、とある寒い日の夕方だった。
 黒い雲に覆われた空の下、街に放たれた火が辺りを赤く照らし出す。

 落ちた林檎、欠けた石畳、煤けた絨毯、滴り落ちる血液。

 唐突に訪れた襲撃に成す術もなく崩れていく美しい町並みと、誇りの塊のような町人達の姿。誰もが叫んだ不服と憤怒は相手に届く事もない。
「貴様らが悪いのだ」
 剣を手に、騎士団は言い放つ。それもその筈、この町の住人は王族を騙し、徴兵を免れ、税金を払うことなく生活していたのだから。
 許しを乞う人々も容赦なく斬られ、逃げ出そうと目論む者は撃ち殺された。普段から奴隷に頼りきりの生活をしていた裕福な老人達が、強靭な肉体を持つ騎士団に対抗することなど出来るわけもない。
 エニシアの仕えた家に住む二人の主人は、自らの過ちを反省するでもなく、ありったけの金品を懐に詰めて地下室に逃げ込んだ。部屋の隅ではエニシアの両親が怯えるままに、肩を抱き合って震えている。
 上階では沢山の足音が響いており、時折聞こえてくる号令がこちらを探している事を告げていた。
 一本の蝋燭とフライパンを持たされたエニシアは、暗闇に潜む大人たちを口を開けて見詰める。
「さあ、行くんだ!」
 父親が叫んだ。
「私達を守るのよ!」
 母が入り口を指差した。
「散々世話してやったんだ、その屑みたいな命を賭けてなんとかしろ!」
 家主の震えた声が背中を押す。
「そうよ、あなた一番若いんだから…戦って駄目なら、命乞いでもして。せめて私達だけでも助けてくれるよう頼んできなさい」
 名案だ、と瞳を輝かせた女主人は、エニシアを見てすらいなかった。
 それでも彼は大人たちに背を向けて躊躇いも無く扉を開くと、狭い階段を中腰で登り、蓋を押し上げる。
 大量の足が見えると予測していたが、思いの外誰も居なかった。
 先程とはうってかわって静まり返った室内には、何時もの暖かさも冷たさもなく、埃と鉄の香りだけが充満している。エニシアは蝋燭を持ち直し、いつもの足取りで外へ向かった。
 リビングから窓の外の様子を窺うと、金色の甲冑を纏う人々が広場に集まっているのが見える。
 天高く人差し指を突き上げた町長の銅像は、腰に当てた左腕が破損してしおり、傍らに倒れる本人にも既に息はなさそうだ。
 エニシアは意を決して玄関に進む。板張りの床が大きくきしんだ。
 ハッとして息をのみ、足元を見据える。何時もは無い筈の金色が、そこにあった。
 恐る恐る見上げるエニシアの頭に、硬い手が乗せられる。同時に、赤と青の眼差しがぶつかった。
 フルフェイスの冑から覗く綺麗な顔立ちや体格からして、恐らく女性だろう。それでも、フライパンで敵う相手ではない事は一目で分かった。
「散々な言われようだったな?」
 両腕を垂れたエニシアに放たれたのは、彼がなぜこの場に居るのか…全てを理解した風な彼女の言葉。恐らく、地下の入り口で聞き耳でも立てていたのだろう。エニシアは丸くした瞳で女騎士を凝視する。
「憎いだろう?」
「憎い…?」
「そうだ。誰もお前を愛してくれない。それどころか、自分の盾にしようとした」
 事実が声となってエニシアを襲う。それでも彼は、耳を塞ぐことなく聞き届けた。
「お前は奴等の盾となるのか?」
 無意識に、頭を振る。
「お前が本当に戦うべき相手は、誰だ?」
 差し出された剣に、震える手を伸ばす。つかんだそれは、フライパンより遥かに重かった。
「そうだ。それでいい」
 力を込めて構えると、騎士は優しく微笑んでエニシアの背を押す。
「憎め。そして、生きるんだ」
 無表情のエニシアの頷きを見送る彼女の瞳には、複雑な喜びの色が宿っていた。
「健闘を祈るぞ、少年よ」



 その後。
 エニシアは地下室を血で染め上げた。
 断末魔を聞いたのは、広場に佇む銅像だけ。
 家主の声も、両親の声も、エニシアの耳には届かなかったのだ。彼等の耳に、エニシアの声なき声が届かなかったのと同じに。

 愛されていないことには気付いていた。それを直に突き付けられた時、エニシアのまともな感情は死んだ。
 だから何とも思わなかった。

 彼等がぐちゃぐちゃになっていく過程を見ても。それを自分の手が行ったことに気付いても。


 残る記憶は赤の中に。
 赤黒い夕焼けに似た瞳の奥で輝いた希望は、今もエニシアの中で生きている。


 彼等を残して撤退した騎士団の、赤い目をした団長は、それから直ぐに行方不明になったそうだ。



















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