file9"報告書:第二"





 
 青空に浮かぶ入道雲。きつい陽射しに汗が滲む。
 橋の修理が始まってからと言うもの、日に日に暑さが増してあっと言う間に夏になった。それもその筈、明日からもう八月になるのだ。
 夏真っ盛り。これから更に暑くなる。
「野外作業をするにはうってつけの季節だ」と、他者の反論を押し退けて彼は言う。台風に熱中症などの強大なリスクよりも、熱気と清々しい天気にうなぎ登りのテンションの方が大事だと言われては返す言葉もない。
 更にはせめて倒れてしまわないようにと周囲が気を使うよりも早く、水分や塩分や檸檬の蜂蜜漬けを差し入れてくるのだから侮れない。
 人一倍元気で、人一倍声が大きく、人一倍仕事をし、人一倍周りを見ている。それが轟と言う男だ。長いこと大工の棟梁の右腕として働いていたとの経歴にも頷ける。
 需要の関係で修理が後回しにされた監視塔の下、遠巻きに轟の姿を眺めるのは同僚の銭だ。仕事柄夜型の二人が太陽の下に晒されているのは、一重に吸血鬼化しない為の自己防衛と言ったところか。
 橋の修理に勤しむ轟はともかくとして。特にその意図を強く持つ銭は、大きめのYシャツを弛ませて背中の相棒をきちんと隠した。
 今年始めに修繕された反対側の監視塔内部には、殺人的な暑さから避難する魔術師達の姿がある。魔術師と言ってもお伽噺に出てくる暑そうな出で立ちの者はなく、皆一様に半袖を着て団扇を手にしていた。一見して老人会の集まりのようだ。
 それでもいざバリアを発動させる時の彼等は、年齢を感じさせない輝かしいオーラを放ち、立派な魔術師に変身するのだから不思議なものである。中には半袖アロハに短パン姿のじいさんまで居るのに。
 彼等が休憩中と言うことは、それ即ちバリアの橋がかかっていない状態。海上を往き来するのは二台の飛行自動車だ。
 今日の担当は諸澄と帯斗らしい。橋の向こうでは小柄な少年が持ち物検査をしているし、あちらに戻る自動車には水色頭が乗っていた。ついでに言うともう一方には技術課の職員が乗っている。万が一故障した時に彼等が居ないと困るから、毎日必ず一人は派遣されてくるのだそうだ。
 橋の向こうには結構な人数が列を作っており、観光客の増加を感じさせる。それによって商人の出入りも激しくなるわけだから、忙しいのは当然なのだ。
 銭本人は遅番勤務の為、この業務に直接的な関係はない。何故なら安全と防犯の為、夕方には渡し船を終了するから。
 それなら何故この場を訪れたかと言うと、単純にいつもと違う光景を目に焼き付けておきたかったのだ。
 同じ理由でここを訪れる隊員は少なくない。第一のメンバーですら、当番でもないのに橋の修理作業を眺めにくることがあるそうだ。
 それだけ衝撃的だったのだろう。毎日毎日この場で働く轟が言った言葉だ。
 橋や周辺の状況は仕事で顔を会わせる度に彼から聞いているし、実際に何度か見に来ている。ただ、見物に来たことを轟が知っているかどうかは定かではない。
 銭は、いつも通りのふわふわした足取りで橋の絶壁部分に辿り着く。覗き混むと、橋の足を支えに幾つかの足場が宙に浮いているのが見えた。
 壊れたのは王都側から中央付近にかけて100メートル程。瓦礫を撤去し終えた今、部厚い橋の断面が良く見て取れた。
「複雑に組んであるんですねー」
 手を翳して声を出すと、下方から轟が顔を覗かせる。彼は不安定な足場をものともせず、銭の隣に這い上がっては橋の切れ目に腰かけた。
「珍しいな。こんな時間帯に」
「怪物が出るそうなのでー、またこの子を使ってあげられるかなぁと思いまして」
 背中からひょっこり顔を出した銃口を前に、轟はそうかそうかと明るく笑う。
 二人がペアで動くようになってから、かれこれ5ヶ月程経過していた。互いに深いところまでは知らないものの、浅いところであれば良く知った仲である。
 時刻は昼時。他の作業員の姿も疎らで、諸澄や帯斗達にも交代が訪れたようだ。新しい暴風壁の向こうからやいやい騒ぐ声が聞こえてくる。
 轟も何処からか握り飯を取り出しては、冷たい麦茶諸とも口の中へと納めていた。対して家で食事を済ませてきた銭は、ペットボトルの緑茶だけを手にぶら下げている。
「毎日大変ですね」
「まあな。楽しいが、この暑さでは体が付いていかん。歳は取りたくないもんだ」
「難なら、少しくらい夜勤サボっても大丈夫そうですよー?なんたって、あの尽くんが小太郎さんにベッタリになりましたから」
 空に昇っていく銭の提案…に付属した理由を聞いて、轟は憂いと米粒を豪快に吹き飛ばした。
「あの変わり様にはみんなビックリしていただろう?」
「ぼくもビックリです」
「俺もだ!」
 わはは、と爽快に笑い飛ばす轟から密かに距離を取り、銭はペットボトルのキャップを回す。彼の右耳には予め耳栓が詰められているのだが、それでも轟の声は煩いのだ。
 まるで湯飲みで飲むように緑茶を傾ける銭の隣。轟も麦茶で口の中身をリセットして、ぷはと吐いた息の後に言葉を乗せる。
「んなら、お言葉に甘えて集中させて貰うとするか。皮肉な事だが、こうして派手に壊れてくれたお陰で、今や希少な過去の技術を学べているんだからな」
 言い終えた彼は大きく伸びをして、目の前の光景を有り難そうに見据えた。銭も途切れた橋の様子を興味深げに観察する。
 修理しながら、徐々に足場を増やしているようだ。海上と言う立地的に外側は勿論手を抜けないが、中の構造の複雑さは輪をかけて手が抜けなさそうである。
「そんなに昔から掛かっていたんですかー?この橋」
「そのようだ。参謀に頼んで資料班を組んだ。写真やスケッチ、設計図を山ととって後で纏めて記録に残す」
 ふむふむと頷きながら、銭はぐるりと思考を巡らせた。
 いつも普通に渡っていたが、確かにこの橋は凄い。何たって大きいし、幅も広ければ頑丈だ。昔からここにあったと言われても、直ぐには信用できないくらいに。
 しかしながら、今の技術でもこんなに複雑な物を作る必要があるのだろうか?いや、銃でも何でも、昔の技術は偉大なものだ。その基盤こそが全てだと言っても過言ではない。きっと世の中の大半はそうして出来ているのだ。これもその手のものに違いない。
 一人勝手に納得して、静かに興味を示す。銭は橋から目を離さずに質問だけを声にした。
「お城の図書館にも資料が残っていませんでした?」
「参謀から幾つか貰ってるが、他にもあるかもしれんな。しかしまぁ、俺の特性上図書館はいかんだろう。何より文字を見てると眠くなる」
 参謀も事務員も忙しいだろうし、現状今ある資料で不足はないからなと、轟は付け加えた。潮風を存分に吸う大きな欠伸が、彼の疲れを実感させる。
 銭は轟が寄越したファイルをざっと眺めた後、実にマイペースなタイミングで起立した。橋の切れ目に立っているとは思えぬほど、のんびり不安定な仕草で。
「どちらにしろ必要なことでしょうからねー。これはこれとして、図書館も漁ってみましょうか」
「怪物はいいのかい?」
 返ってきた資料を受け取りながら、轟は悪戯に問い掛ける。銭は珍しく目元も口元も緩ませて、振り向き気味に回答した。
「騒ぎになったらすぐわかりましょう。あのお城は静かですから」
 そうしてもう一度、海と空と壊れた橋をきちんと見渡して、彼はゆるりと島の反対側を目指す。


 街は活気に満ちていた。
 一見して何時もと変わらぬ日常がそこにある。
 どんな事件が起こっていようと。どんな問題がのし掛かっていようと。街の生活には然して変化がない。
 全く無いとは言わないが、殆ど変わらない。それが当然であるし、そうでなくては困る。
 何故ならそれこそが、平和と言う現象だと思っているから。


 銭は特に急ぐでもなく、城の図書館に辿り着いた。
 賑やかな下町とは違って静寂が身に染みる。静かなのに活気に満ちているのがこの建物の不思議なところだ。
 図書館は城の二階、丁度王座の間の真下辺りにある。三階と二階では間取りが全く違うので、厳密に言うと有理子の部屋やセキュリティスペースと、王座の間の4分の1くらいが上階に当たる事になるだろうか。
 それを証拠に、銭は廊下を進んで左手にある扉を開いて中に入る。
 入室し、扉を閉めると改めて、此処は城内でも特別に静かな場所だと感じられた。背の高い本棚が広い敷地に並んでおり、その手前に閲覧用の大きなテーブルが置かれている。
 銭はその隅で本を開く人物に歩み寄り、他に人が居ないのを確認して、普通の声量で問い掛けた。
「どうもー。調べものですか?」
「いんや。茂達の代役、みたいなものかな」
 途中で顔を上げた正宗が肩を竦めてゆるく微笑む。どうやらこの図書館には司書も管理人もいないらしい。それどころか本当に貸し切り状態のようだ。正宗も普段と変わらぬ調子で話し掛ける。静寂に溶けていた二人の気配が露になった。
「それにしても珍しいな。こんな時間に、こんなところで」
「ぼくもまさか知り合いが居るとは思いませんでしたよー。でもそうですよね。怪我の具合はどーです?まだ悪いんですか?」
「まあまあ、ってところかな。早く動きたくてウズウズしてるよ」
「いやあ、でも本気で痛そうでしたし?ちゃんと治した方がいいかと思いますー」
 足元を覗き混んで包帯を認識した銭は、正宗の相槌を受けてテーブルの上に目線を戻した。
「茂達さんは何をお調べなんですか?」
「いや、調べてるわけじゃないんじゃないかな?つまるところ情報収集の一貫ってわけだ」
「手当たり次第、って訳じゃないんでしょうー?」
「みたいだね。今は、ほら」
 正宗は二人の間に本の山を滑らせ、背表紙を見せる。「兵法」「共同戦線」「戦に置ける状況確認と伝達術」…成る程、集団戦についての調べものらしい。
「確かに、今のぼくらに必要なものですね」
「銭くんは何を?」
 正宗は開きっぱなしの本に栞代わりの紐を挟み、そのまま大きく伸びをした。銭はその間に本棚のジャンル区画を見極めて、奥の棚から数冊を取り出してくる。この図書館はなかり広い。普通の人ではこうはいかないだろう。眼の良い彼ならでわの探し方である。
 正宗は銭が両手で抱えてきた「橋」に関するタイトルを見て、細い目を更に細くした。
「轟くんだね?」
「はいー。ぼくも実物を見てみたんですけど、確かに精巧で、興味深かったものですから」
 銭は解説がてら正宗の隣の椅子を引き、浅く腰かける。二人並んで橋の図面を眺めていると、遠慮した風でもなく入り口の扉が開かれた。
 銭も正宗も、入室した人物が一瞬だけ固まるのを確かに認識する。同時に彼等も同じように硬直した。
「珍しい取り合わせだな」
 何事もなかったかのように進行を再開した沢也は、二人の前を通過がてら彼等の声に答える。
「お勤めご苦労様です」
「参謀も調べものですかー?」
「いや、息抜き」
 片手に本を呼び出して、軽く提示。そのまま奥の本棚へと進みながら、彼は口にした。
「橋の修繕か。轟も良いところに目をつけたな」
「…と、いいますと?」
「あの橋は妖精と共同開発されたもんだそうだ。一番長く生きている奴が当時の様子を覚えてた」
 正宗の相槌に声だけでの返答がある。見られていないのを分かっていながら、深く頷いて銭が言った。
「それは…是非記録に残して頂きたいですねー」
「だろうと思って、今文書に起こしてる。ついでに当時の資料が無いかと思って……如何せん此処は広いからな。俺もまだ全部を把握した訳じゃ無いんだ」
 ごと、がた、と、何冊かの本が仕舞われるか取り出されるかする音が響く。足音も断続的に。併せて話ながら声も移動していた。
「茂達も面白いこと調べてるな」
 不意に影から顔を出し、沢也自ら話題を変える。正宗が肩を竦めてノートを持ち上げた。
「こちらも纏めて報告上げましょうか?俺はどのみち、暫く動けませんから」
「そうだな。資料も合わせて提出してくれると助かる」
「資料、ですか?」
「それ関連が載ってる本そのまま。俺も読みたいからな」
 本棚から目を離さずに言い終えた沢也は、間ができた事で二人を振り返る。正宗と銭は互いに見合わせていた顔を沢也に戻した所だ。
 瞬きを浴びせられ、沢也は首を傾げて苦笑する。
「この手の作業で一番面倒なのは、資料を「探す」ことだろ?」
 普段、余り顔に出さない二人の表情が変わった。驚いたようなそれらから、震えに似た声が出る。
「参謀。失礼ながら同意しかねます」
「右に同じくー」
 それぞれ挙手をしての宣言に、眼鏡を持上げ唸った沢也が溜め息で場の空気を変えた。
「なら、正宗。少し頼まれてくれないか?銭も暇なら手伝ってくれ」
 急な振りの後、本を下敷きにメモ帳にペンを走らせる。そして数十秒後には驚く二人の前に、内容を提示した。
「中身は俺が確認する。二時間後に戻るから、それまでに見付けたもんはそこに積んどいてくれ」
 本のタイトル、欲しいジャンルが複数。どれも二人が調べているものに類似してる。
 沢也は正宗に紙を押し付けて、足早に出入り口へと向かった。
 銭も正宗も、一拍遅れて了承の意を示した後、今一度顔を見合わせ肩を竦める。





「それで?ギリギリまで本探してたってわけか」
 勤務交代間際の駐屯地。
 銭から昼間の出来事を聞き出した小太郎が、呆れながらも欠伸をもらす。続けてうだうだと頬杖をついた彼の目を覗き込み、銭はにこにこと首を傾けた。
「小太郎さんも眠そうですねー?」
「昼は昼で一実と仁平にいじくりたおされ、夜になればあれに貼り付かれ…そりゃ疲れもするだろうが」
 ついにはべったりと机に頬を付けた小太郎の、疲れ果てた愚痴。まるで待ち構えていたかのように、その元凶が部屋に飛び込んでくる。
「小太郎さん!今日は何処にパトロールですか!」
 元気も威勢もそのままに、輝かせた瞳で問うのは数週間前とは態度が一変した尽だ。小太郎の溜め息が長く長く吐き出される。
「噂をすればー」
「銭さんっ!お茶、いかがっすか!」
「大丈夫ー。自分で淹れます」
 独り言がてら立ち上がった銭は、絡んでくる尽を直ぐ様シャットアウトした。しかし尽は然して気にした様子もなく小太郎の隣に戻っていく。
 とどのつまり、尽は小太郎の命令に従って「新入りらしく」振る舞っているようなものなのだ。言い換えれば、それが正しいと盲目的に信じて疑わないため、塩対応されようが気付かないと言うことになる。
「先輩はたてるものだ」とか「せめて敬語ぐらい覚えろ」だとか「仕事は仕事なんだから、文句は言おうとちゃんとやれ」だとか、小太郎にしては割かしまともな教えでも、小太郎の言葉を鵜呑みにするだけの尽は、周りから見れば十分危うく見えた。
 これが若さか、とは轟の言葉であり、彼が実に楽しそうに、且つ嬉しそうにしていた事は言うまでもないだろう。
 銭は尽を煩わしそうにする小太郎がパトロールに向かおうとするのを見て、しかしなにも言わずに見送ることにした。
「これも試練ですよー。小太郎隊長」
 尽を連れ立って退出した彼に、銭は呟く。手に持った温かな緑茶をゆったりと啜りながら。


 陽もすっかり落ちた頃。
 暑さの残る薄闇の中、小太郎と尽のパトロールは続いていた。
 小太郎は本日何回目か、数える気も失せてきた溜め息を吐き出し頭をかきむしる。これでは沢也に幸せが逃げる等、とやかく言えなくなってしまう。それでも溜め息が止まらないのは、金魚の糞と化した尽が水分補給をする時以外は、常に口を動かしているからだ。
 最初は道行く人々の陰口ばかりだったのをなんとかなだめすかし、次は仕事や仲間に対する愚痴だったのを咎めて説得し、次に国への不満を我慢して聞いた後。待っていたのは自分への賛辞…と言う名の媚びである。
 普段は誉めろ崇めろとふんぞり返る小太郎が、参ってしまうくらい的はずれな内容だ。
 すぐ後ろを付いて歩く尽を振り向き、小太郎はわざと長く深い溜め息を浴びせる。
「お前、おれ様を尊敬するのは構わんがなぁ」
「うっす!大尊敬っす!」
「おうよ!……じゃなく!おれ様以外にも興味を向けろって話してんだ!」
「どうしてっすか?」
「どうしてって…」
 不思議そうに顔をしかめた尽に対し、小太郎は困って頭を掻いた。
 屁理屈は得意な彼であるが、理屈は大の苦手なのだ。
 星の浮かぶ天を仰ぎ、小太郎は暫し考える。

 自分が間違っているとは言わない。言わないが、もし間違ったら?

 どうなるっつーんだ。
 沢也のようにつらつらと小難しい説明文は思い付かんが、面倒で危険だということくらいはおれ様にも分かる。
 なんつーかな。まるで昔の自分を見ているようだぜ。
 んでもって、それが自分の通りなら…

「言っても聞かねえんだよな」
「何がです?」
「いや、こっちの話」
 独り言を拾われて舌を打つ。続けて出たのはまた溜め息だ。
 小太郎は大きく頭を振り、顔を覗き込んでくる尽に釘をさす。
「兎に角!おれ様にだけ、執着するのはやめとけ。分かったな?」
「それ…迷惑ってことですか?」
「そうじゃねえ。お前の為にならねえって…」
「俺の為ってなんすか?そんなの俺が決めます。小太郎さんだけを信じるのが、俺の…」
「信じてねえじゃん」
「………そんなことは!」
 ムキになる尽を押し返し、息を吐いた小太郎は苛立たしげに告げた。
「まあいい。忠告はしたからな。後は自分で痛い目見て、学習するこった」
「そんなもの、見ませんし」
「言ってろ」
 ふんと鼻を鳴らし、裏路地に侵入する彼を不貞腐れた尽が追いかける。
 この時間になると大通りには殆ど人がいないが、逆に裏路地に潜んでいる確率が高くなる。
 小太郎は特に嗅覚と微かな音を頼りにパトロールをしている訳で、尽が五月蝿くては効率が半減すると言うわけだ。
 体よく静かになったのを機に、感覚を研ぎ澄ます。どうやらもう一本手前だったらしい。
 逃げられる前に、足を速める。
「どうかしたんすか?」
 静かにしろと合図しようと振り向いた矢先、興奮した尽の大声が響く。過去最近誰も彼もが詰めが甘いと指摘して来たことを思い出しては頭が痛くなる小太郎であった。
 案の定、慌てた足音が路地に溢れる。それに気付いた尽が新品の得物を前に回した。
「俺が行きます!」
「あー、行け行け。無茶だけはしてくれんなよ?」
 小太郎は全てを諦めて尽を追いかける。まだ見ぬホシは路地を南方向に抜けるつもりのようだ。
 置きっぱなしのゴミ箱を避けながら、真っ暗な狭い道を歩くのは困難である。足音だけでなく、何かを倒す音も頻りに聞こえてきた。
 その中に不意に、雄叫びが混じる。この夜中に迷惑な話だ。
 先を走る尽が、目の前に現れた豹のような動物に斬りかかる。思いっきり振りかぶった鎌が見事地面に突き刺さった。
「義希か!」
 思わずツッコム小太郎。それほど見事な空振りをして尚、武器が抜けずにもがく尽に豹が牙を剥く。
 小太郎は左手でレイピアを操り敵を退け、その隙に尽の鎌を解放してやった。
「っの!馬鹿にしやがって!」
「大振り過ぎんだよっ!」
 何もこんな状況でコントがしたい訳でもないのに困ったものである。理性の欠片も残っていないであろう顔付きの豹が、人を馬鹿にする余裕などある訳がない。
 尽なりに真剣なのだろうが、小太郎は敢えてボケとして処理をする。いちいち構っていては仕事にならないと、つい先日学習したばかりなのだ。
 未だ義手の修理が終わっていないため、スペアの右腕を庇いながら、小太郎が一歩前に出る。それを制して尽が二歩足を進めた。
「小太郎さんは片腕なんですから、無理しないでください!」
「そう思うなら少しはまともに…」
「だってここ、狭いし」
 子供のような言い訳が当然のように紡がれる。口をへの字に曲げる暇があるなら、背後の豹の動向を窺ってほしいものだ。
 小太郎は尽を押し退けてレイピアを突き出す。おかしな方角を向いていた左目が血飛沫を上げた。
 よろけた尽から鎌を奪い、下から斜めに凪ぎ払う。真っ二つに切り裂かれた豹は、グロテスクな形状を保つわけでもなく直ぐ様砂へと変化した。
「さっすが小太郎さん!よっ、日本一!」
「とーぜんっ!って!お前なぁ…」
 ふんぞり返った後、呆れて項垂れる暇もなく走り出す。あの豹はもともと猫だったのだろう。近くに犯人が居る筈だ。
「尽!残りカスの掃除「任せた」ぞ!」
「!はい!任されましたっ!」
 よしよし、単純。まだまだ子供だな。と、自分の事は棚に上げて満足げに頷く小太郎は、尽の声をシャットアウトして足音を探す。
 夜の空に反響していた足音が、唐突に慎重になった。心なしか気配が増えたような気がする。
 向かう先は確か、袋小路だ。
 小太郎は携帯の短縮ダイアルをプッシュして、すぐに耳に当てる。その瞬間にコールが止んだ。
「おい、銭」
「心得ておりますともー」
 間延びした声が電話越しに聞こえる。同時に、到着した行き止まりから長い影が飛び出した。
 小太郎が身を翻した数秒後には銃声が響き、着地した小動物が砂になる。
 続けて三度、迷いの無い銃声が仕留めたのは鳥と犬のようだ。二階に潜んでいたであろう数人が、怯えた声を上げる。
「怪我したくなけりゃ動くなよ?」
 居場所までは特定できそうにないが、銭が何処かで見ていたらしい。
 バツの悪さを八つ当たりぎみに消化しながら、小太郎は地上にいた二人に手錠をかけた。
 抵抗を荒く無に返されたのは二人の男。二階の窓には他に三つの人影がある。
「数は合っていますけどねー?」
 何処からともなく人影のうち一人の背後に忍び寄った銭が、拘束しながら話し掛けた。
 小太郎も近場のパイプに二人を結び付けた後、持ち物を検査し始める。
 その隙に逃げようと目論んだ残りの二名も、駆け付けた他の隊員によって無事確保された。


 5人の男たちはそれぞれ噛み痕やひっかき傷があり、一番重症な者で腕の切断が確認される。
 幸い命に別状はなく、事件後初めての被疑者確保となった。
 彼等の所持品は注射器と、紫色の液体が入った薬品瓶。

 それと、魔術師からの手紙だったそうだ。








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