アンケート 真夏の太陽光線が降り注ぐ道路はフライパンのように熱く、揺らめく大気が人々を調理するかのように足下を覆う。 雑居ビルが立ち並ぶ街並み。 ごった返す人混みから路地裏に入り込んだ七海は、柄の悪い男達に囲まれていた。 背中にはビルの壁。更に左右どちらにもビルが迫っていた。 唯一の逃げ道は今しがた通って来た道。しかし再びその道を通るのは限りなく困難に見えた。 七海は身構え、カバンの中で護身用に持ち歩いていたスタンガンを握りしめる。 これを使うのは初めてではない。以前にも同じ様な状態に陥って、それを打破する為に使用している。 その時は何とかなった。でも今回は… 続々と駆けつける学生服の男達は既に10人を越えていた。 臨戦体制で集合を待つ彼らは、まるで悪魔のように微笑んでいる。 屋外の筈なのに密閉されたその場所は、無駄に多い室外機と暑苦しい不良共のせいで気温が格段に高かった。感知器を使って空から眺めたらこの場所だけ異様に赤いはずだ。 七海は走る途中でほどけた長い髪を邪魔くさそうに払う。 「さて、そろそろ料理開始しますかぁ?」 「この前はよくもヤってくれたなぁ!」 女一人に大勢で仕返しとは、何ともカッコ悪い話だな…。 七海がそう思って口元を緩めた時、高々な合図が上がって不良軍団の士気が上昇。更に場を熱くするのだった。 (参ったな、こりゃ) 一度に向かってくる不良共をどう倒すか、考えているうちにも相手の攻撃が始まってしまう。 七海がため息と共に覚悟を決め、スタンガンを引き抜こうとしたその時…。 「あの〜、危ないですよ〜」 突然、上から声がする。 気がつくとドサッという音と共に声の主が降ってきて、不良の一人を下敷きにしていた。 不良達がざわめく。 見上げてみたがもちろん頭上には遠く狭い空があるだけで、ビルの窓も遥か上方にしかない。 「あーあ。だから言ったのに…」 どこから舞い降りたのか、その不思議な人物は足下の不良から退くと、実にのんきに呟いた。丁度七海の視界を覆うように立ち上がった男は、見るからに怪しかった。 何が怪しいって…全身真っ黒なのだ。このくそ暑いのに長袖のスーツを着込み、シャツにネクタイ、そして髪までもが、真っ黒。 「てめぇ!何者だ!?」 不良が引き気味に叫ぶと、彼は涼しい声でサラッと言ってのける。 「僕はこの方に少し用事があるんです。出来れば席を外していただけると助かるんですけど…」 「ふざけんな!まずてめぇからやってやる!行くぞ!」 不良共が怒るのも当たり前だ。 しかし黒ずくめの男は肩を竦め、向かってくる男達に対して無防備のまま佇んでいた。 ひょろっと長い手足が伸びた、華奢な彼がとてもこの人数を相手に無事でいられるとは思えない。七海が逃げろ、と叫ぼうとしたその瞬間。 流れるような動作で数人の不良共を蹴散らしたのは、その華奢な男の足だった。 七海が目を丸くする中、男は手慣れた仕草で敵を地に伏せていく。熱されたコンクリートは焼けるように熱い筈なのに、倒れた不良共はピクリとも動かない。 七海が手にスタンガンを握りしめたまま最後の一人が逃げていく様を見つめていると、男が近寄ってきた。振り向いた彼は息ひとつ乱れていない。それどころか、この暑さに汗ひとつかいていなかった。 真っ白で不健康そうな顔が目の前に突き出される。 「あんた、何者?」 警戒を崩さずに尋ねると、男は胸のポケットから眼鏡を取り出し、装着した。もちろん、黒渕眼鏡だ。 「浜岡七海さんですよね?僕は貴方に質問をしにきました」 「質問?アンケートかなにか?」 この時期にスーツを着ているのなんてサラリーマンくらいだ。どこかの企業が、どっからか自分の事を勝手に調べてアンケートを取ろうとしているのだろうか? でもわざわざこんな場所で、しかもあんな状況下で…? 七海は不審そうに男を眺めた。 もう一度見上げてみても、飛び降りて無事でいられそうな位置に窓は見当たらない。 「落ち着かなければ、場所を変えましょうか?」 男が笑顔を向けてくる。 「別に…いいわ。質問って、何?」 カバンの中でスタンガンを握り直す。 男は一瞬その手を見つめて、また直ぐに七海の顔に戻した。 「この世界を、滅ぼしても良いですか?」 「は?」 笑顔で問う男を見返す。 企業のアンケートにしては余りにも物騒だ。 七海は頭の隅で光る危険信号に頷いて、その場から一目散に逃げ出した。 坂の途中にある古い木造建てのアパート。 そこの2階が七海の家だった。 今にも取れてしまいそうな扉を開けて中に入る。何となくただいま、と呟いてみたが返事が返ってくることはない。 七海はため息をついて、制服のリボンを無造作に投げた。 おかえり、という言葉が恋しい。 もう何年も、いや、何十年も聞いていない言葉だ。 冷蔵庫から取り出した麦茶は、コップを取り出す間にも汗をかいていた。 冷たい感覚を喉から体内へと吸収する。 今日はバイトも休みだ。何もやることがない。 本当は休みなんていらないのだ。家にいてもやることを見出だせず、ただぼーっと過ごすだけなのだから。 窓を開けると、部屋を風が通り抜けた。 小高い岡の途中にあるこの部屋からは、屋根が連なる向こう側に海が見渡せた。 ベランダはない。低い窓枠に座り、柵にもたれ掛かると錆び付いたそれが微かに軋む。 徐々にオレンジ色に染まりつつある水平線を眺めていると、少しだけ穏やかな気持ちになれた。 いつもやることが無いときにはこうやって海を見る。 七海は遠く広い水面に輝く光と、空を反映する海の色が好きだった。 時に穏やかに、時に激しく。 時に冷たく、時に暖かく。 海はいつもそこにあった。 「でも毎日違う水を見ているのよね。」 膨大な量の水は一時も同じ顔をしていない。そして毎日入れ替わる。それがすごく神秘的に思えて、七海はそう呟いた。 もう太陽が沈みかけている。 夜の海はただひたすら真っ暗で、近寄れば近寄るほどそちらに吸い込まれて戻れなくなりそう。 それは見上げた都会の空と同じ。 「こんばんは」 突然の声が七海を現実に呼び戻す。 それはやはり先程と同じく上から聞こえ、低く囁くような声色も同一のものだった。 七海が驚いて部屋に飛び退くと、雨避けの為の小さな出っ張りから真っ黒な髪が覗く。もちろん、逆さまの状態で。 「あ、あんた、何のつもりよ!」 七海がカバンに近づく様を見つめながら、男は錆び付いた柵に座る。 少しでも体重をかければ軋む筈のそれは、華奢な男の体をキチンと支えていた。 「まだお答えを聞いていませんから」 少しだけ傾く笑顔は警戒体制の七海に不思議と威圧感を与える。 そんな男の片足は窓の外側、もう片方は柵の上に曲げられていた。一応土足で部屋に踏み込まないようにしているつもりだろう。 「そんなとこから登場することないじゃない!あんた、ホントに何なの?一体何のアンケートなのよ!」 「答えて頂ければお教えしますよ」 まくし立る七海に困った笑顔を向けた男は、次に柵の上から足を下ろし、彼女に背を向けた。少し押せば落ちそうな体勢。 ここは2階といえど、その窓の下はちょっとした絶壁で、1階より更に低い位置まで落下できる。それにも関わらず一切の恐怖を感じさせることもなく、男は催促するように七海を振り向いた。それを受けて、彼女はため息と共に質問を思い出す。 『世界を滅ぼしても良いですか?』 七海の頭の中で繰り返される言葉と共に、彼の声がもう一度そう尋ねた。 思考を読まれているのだろうか? 七海は男を睨み付ける。それでも男は七海の言葉を待っていた。 分かってる。答えなんて一つしかない。 「当たり前じゃない。今すぐ壊しちゃってよこんな世界」 不機嫌そうに答えた七海を見て、男の真っ黒な瞳が大きく見開かれた。そして彼は、徐々に口元を緩め、とうとう笑い出してしまう。 それを見て更に機嫌を損ねた七海は、鋭く眉を歪めた。 「何が可笑しいのよ!答えたんだから、あんたもアタシの質問に答えなさい!」 七海がヒステリックに叫ぶのを聞いて、男は笑い涙を指で払いながら返答する。 「僕は、世界中から選ばれた1億人に、同じアンケートを取ってきました」 ふう、と息を吐き、通常の笑顔を取り戻した彼は、向けていた背中を後ろに回した。 「ある者は偽善から、ある者は本心から、ある者は常識の赴くままに。口々に「とんでもない」「ふざけるな」「そんなことが許される訳がない。」…そう言いました」 柵の手前で長い足が揺れる。 七海は自分の答えが特異であることくらい解っていた。 わざわざそんな事を教えてもらいたくなんてなかった。 文句を言おうと口を開きかけると、男の言葉がそれを遮る。 「貴方が最後の一人だったんです」 顔の前で人差し指を立てた男の顔から、一瞬で人なっつこい笑みが消えて、今度は不敵な笑顔が浮かぶ。 「じゃあ滅ぼしてよ!今すぐ!…出来る?出来ないわよね。バカじゃないの。」 苛立ちなのか、怒りなのか、良く分からない感情のまま殴りつけたちゃぶ台の上で、背の高いコップが転げた。 男はそんな様子を笑顔のまま見つめながら、小さく呟いて指を回す。 「出来ますよ」 すると倒れたコップが宙を舞い、空中で弾けて消えていった。 七海は息を飲む。 本気だ。 願いが、叶うかもしれない。 「でも、やりません」 静かな呟きが、瞳を微かに揺らしていた七海の耳に届く。 彼女はこんなにも世界の滅亡を望んでいるのに。 目の前の男はそれが出来る力を見せつけたのに。 何故、それをしない? 何故、そんな意地悪をする? 男は七海の絶望的な瞳を読み取ったように意地悪く微笑むと、不安定な柵の上に立ち上がった。 「僕、悪魔ですから」 嬉しそうに肩を竦めた彼の黒いスーツから、漆黒の翼が覗く。 艶のあるその羽が大きく羽ばたくのと同時に、真っ黒な男はその場から跡形もなく消えてしまった。 それはもう10年も昔のこと。 七海は噴水で無邪気に遊ぶ我が子を見守りながら、隣に座る顔見知りと話をしていた。 不思議な事に永遠に手に入らないと思っていた温もりが、今は凄く身近な物になっていた。 「今もまだ、滅んでほしいですか?」 低く落ちついた声が尋ねる。 小さな手が此方に向かってぎこちなくはためいていた。 七海はそれに手を振り返して、そっと呟く。 「当たり前じゃない。その方が、あの子にとっても、アタシにとっても良いに決まってるわ。」 そして。 「もちろん、あなたにとってもね…」 目を細め、振り向く七海に、男の黒い瞳が不敵に輝いた。 |