「忘却屋」





 灰色に染まる森の中。
 疎らに生える木々の枝々が空を埋め尽くし、微かな月明かりを拡散させる。
 朧気な視界。僅かに残る藍色以外は、全てがモノトーンで映し出される。そんな、世界。

 ここは何処だろう。

 身一つでその場を歩く男は思う。何処だろうかと考えた所で、何の解決にもならないことは分かっているのだけれど。
 何となく歩いているうちに、見知らぬ場所へ辿り着いてしまう。良くあることではないが、身に覚えがある人も少なくないだろう。かく言う彼もその一人であった。
 住み慣れた街を抜け、近場の林の中を進むうち。
 次第に辺りが暗くなり、それでも戻る気になれずに。
「困ったなぁ」
 口ではそう言いながらも、然して困った風でもなく、男は道を進んで行く。上に行くに連れて枝が多くなる木々の様に、その道もまた、進むに連れて分かれ道が多くなる。
 どれにしようかな、てんのかみさまのいうとおり。
 脳内で唱えた呪いを頼りに、何処に辿り着くかも分からぬ道を歩くのは、子供の頃を思い起こすようで少し、楽しかった。そうは言っても、自分がもう30に近い年齢だと言う事実が消えるわけではないのだけれど。
 そうして呪いを何度唱えたか、どれくらい時間が過ぎたのか、それは分からないけれど、男はある地点まで来たときに不意に気が付いた。
 見渡してみても同じような景色が続くばかりであった世界の中。ポツリと…しかし確かな存在感を持つ光が見えることに。それはまるで彼を導くように、遠く向こうで低速な点滅を続けている。
 数秒間光り、数秒間で消失し、数秒間でまた、光を取り戻す。その繰り返し。
 男は当たり前に、その光に足を向けた。この代わり映えのない状況で、そんなものを見付けてしまっては誰もがそうするしかないであろう。
 急ぐでも、恐る恐るでも無く、今までと同じ速度を保って光に近付いていた男は、光の点滅が収まったのを機に足を速めた。近付くにつれハッキリしたのは、その光の中心にあるものの正体。
 男は、多少荒くなった息を整えるため…そして、その物体をしっかりと認識する為にも、目的の前で立ち止まる。
 薄闇に染まった風景の中で、それは異様に浮いていた。まるで光の全てを吸い込み、半径数メートル以上にはそれを拡散させないようコントロールでもしているかのように。それだけが、視界の中心で酷く光って見えたのだ。
 木の根に取り込まれてしまったような、それでいて潰れそうとも言い切れず、確かにそこに建っていたのは…紛れもなく家だった。
 こんな場所、と言っては失礼かもしれないが、人里離れた位置に、こんな家を建てるなんて…ここに住んでいる人物は、余程変わり者なのだろう。男はそんなことを思いながら、その家を観察する。
 黒く塗られた石壁、瓦を模した石盤が幾つも積まれた屋根は、先に言ったように木の根の下敷きになっている。入り口を挟んで対照的に設置された丸窓は、壁に対して比率が釣り合わぬ程大きく、暗い外観に明るい光を落としていた。その向こう側には、淡く輝く光の球体が詰まった小さな瓶、赤く輝く円錐型の宝石やら、黒く淀んだ空気を閉じ込めた様な水晶玉…他にも目に馴染みのないものが沢山並べられた棚が置いてある。良く良く目を凝らせば、木造の小さな扉には札がかけてあるのが見えた。
【OPEN】
 丸文字が示すのは、確かにその4文字だ。男はふむ、と一息漏らし、もう一度その店らしき家の全景を視界に収める。
 住んでいるだけならともかくとして、店まで構えているとなれば…やはり、中には相当の変わり者が居るに違いない。
 男は心のなかでそう唱えると、躊躇いも無く戸を押した。
 普通なら、その思考が浮かんだ時点で踵を返しても可笑しくはないのだが…その男も相当の変わり者なのだろう。顔には微笑を貼り付けたまま、そっと扉の中を覗き込む。
「いらっしゃい、お客さん」
 響いたのは、幼い声。男とも女とも判別し難いそれは、店の奥の方から飛んできた。男は、その言葉からここが店であることを再確認し、室内に身を滑り込ませてそっと扉を閉める。
 店内は明るかった。温かい色合いの光が部屋の中心から注がれて、隅々までを照らし出している。それは正に、外から見えた商品と思われる不思議なアイテムを際立たせるかのように。
「気に入った品がありましたか?」
 物珍し気に室内を見渡す男にそう問いかけるは、年端も行かない小柄な少年だ。彼は店の奥を占めるカウンターとおぼしき場所に肘を付き、真っ直ぐな眼差しを男に向けている。
「気に入ったかどうかは別として、興味深いものばかりだと言うことは確かだね。」
 男が肩を竦めてそう答えると、少年はフッと笑って視線を流す。その先では真っ黒な子猫が大きな欠伸を漏らしていた。
「ゆっくり見てっていいですよ。気に入った品が見付かったら、教えて下さい」
「入っておいて難だけど、財布を持ってくるのを忘れてしまってね」
「心配ないですよ」
 眉を下げた男。少年は変わらぬ微笑を浮かべたまま、こう続けた。
「この店は物々交換がルールなんで」
「物々交換…?」
「ええ。お客さんが持ってる物なら、何でも」
「何でも…ね」
 そう呟くと共に納得して、男は部屋の上部へと顔を回す。店に入ってからずっと気になっていたそれは、わざわざ顔を向けずとも視界に入る程、明るい光を放っていたのだ。
 その品物は、天井スレスレの位置に据えられた棚の半分を占領する形で収められた、ランプの灯火を軽く凌駕する輝きを持つ、大きな砂時計。砂時計と言っても、中に入っているのは砂ではない。先にも言ったように、眩しいほど明るく輝いている光こそが、時間を測る役割を担っているようだ。
 不思議な事に、光の質量は一定ではなく、何処からか涌き出るようにして増減を繰り返している。普通、砂時計と言えば重力の関係で上から下に流れるものだが、これは下から上へと光が昇っていた。
 形だけは立派な砂時計を模してはいるが、内容は全くの別物。そもそも、必要な時にだけ時間を測るはずのそれが、人の手を借りずに時を告げているのも可笑しな話だ。尤も、その光が時間を測っているのかどうかも…最早怪しい所ではあるのだが。
「お気に召したようですね」
 食い入るように意識を集中させる男に向けられたのは、少年の妖しい笑顔。男は頷くと同時に、しかし光時計から視線を反らし、その下に置かれた小さなビー玉を手に取った。
「確かにこれは素晴らしい。しかし、僕が持つものの中に、これに釣り合うものがあるとは思えない」
 微かに輝く小さな球体。指先に摘まんだ透明を懐かしそうに見据えながら、男はこう続けた。
「だから、これを頂くよ。折角こうして、巡り会えたのだからね」
 満足そうな笑顔が少年に向く。少年は、暫しの沈黙の後にまたフッと笑って見せた。そして…
「お買い上げ、ありがとうございます。お客さん…」
 立ち上がると同時にそう口にして、軽く会釈をする。
 どさっ…
 その後に響いた鈍い音。それは、男が床に倒れた事実を告げていた。
「良かったのかい?」
 続けて響いた声は、欠伸を漏らす黒猫のもの。少年は微笑を取り戻して頷くと、カウンター越しに男を見下ろして瞳を細めた。
「確かに、この男の心ならアレに釣り合うだろうし、取り出したら物凄く綺麗だろうね」
「だったら、無理にでも売ったら良かったのに」
 黒猫は何処からともなく少年の手元に現れた真っ黒な球体を覗きこみ、心なしか眉をひそめているようだ。
 少年は、掌の4分の1の大きさも無いそれを手の中で弄びながら、黒猫に向けて返答する。
「この記憶、凄い力で封じ込められているのが分かるかい?」
「そうだね。悪い記憶がこんな硬質で取り出されたのを見たのは、初めてだよ」
「この男がこの記憶を失ったら、どうなると思う?」
「想像も付かないね。良くもなるだろうし、悪くもなるだろうし」
「そう考えると…ワクワクしない?」
「君は本当に人が悪いね」
 黒猫がため息のように呟くと、少年は然も嬉しそうに微笑んで。
「送っておあげ」
 倒れる男を横目に、黒猫に短い指示を出した。


 此処は想いを扱う店。記憶を扱う店。感情を扱う店。
 良きも悪きも、光も闇も。
 全ては不思議な力を持って、実体を露にする。
 店の名かい?
 そんなものは無いよ。
 敢えて言うとするならば…


「此処は何処だろう」
 男は呟く。そして、見渡す。
 見渡してみて気付いたのは、自らが倒れていたそこが、見慣れた場所だと言うことだ。
「知らぬ間に寝てしまったのかな」
 男は首を傾げて呟きながら、失った何かに想いを馳せる。
「何で、こんなところに居るんだったか…」
 確か、何かをしに林の中に入った筈だったのに。
 男は思考を中断して立ち上がる。と、腰にぶら下がった一本のロープの存在に気が付いた。それが何を意味するのか、それは分からない。
 ただ、一つだけ言えるのは。
「明日は何をして遊ぼうか。」
 童心に返ったように、明日を楽しみに思う心。その清々しさと、希望の存在を胸に。
 夕焼け空の下、進み行く男がその後どうなったのか。


 きっと、彼はまた来るよ。
 その心に希望を抱えているか、絶望を抱えているか、それは、分からないけどね。

















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