「シャングリラ」



 毎日の通学。
 朝のラッシュ。
 急ぐ人混み。

 うざい、うざい
 邪魔だ邪魔だ

 少年は人混みをかき分けやっとホームにたどり着く。
 電車を待ちながら周りに睨みをきかせる。
 みんな大して他人に関心が無さそうに、自分の世界に没頭している。

 イライラとしたアナウンスと共に電車が入ってくる。
 毎日毎日同じことの繰り返し。
 みんなうるさい。
 みんな邪魔だ。

 人を押し退けながら車内に入りイスに座る。
 この朝のイスとりゲームにも嫌気がさす。

 自分のことしか考えてない。
 電車の中で他人に気を使う人間なんて皆無に等しかった。
 少年は目をつぶり、そして何度も思った。

「みんな消えていなくなればいい。みんな消えてしまえばいい」

 体から黒い渦を撒き散らしながら、目を閉じて駅に着くまでずっとそう考えてい  た。

 ガタンガタン
 電車が揺れる

 誰かのイヤホンから耳障りな音楽の欠片が漏れていた。

「池袋ー。池袋です」

 目的の駅に電車がとまる。
 その瞬間、今まで聴こえていたはずの音が無くなる。
 ふっと目を開けると辺りは突然、静寂に包まれていた。
 目の前には誰も座っていない椅子。
 障害物のないクリアな視界。

 彼は独り、電車に取り残されていた。

 不思議に思いつつも少年は辺りを見回し、駅のホームへと降り立つ。
 電光掲示板が次の電車が来る時刻を告げていた。
 ホームの端から端まで見渡す。
 誰も居なかった。
 彼の望んだとおり、みんな消えてしまったようだった。
 少年の笑い声が響きわたる。
 電車は動くこともなく、その場に留まっていた。

「最高だな…。願いが叶った…!煩わしさから解放されたんだ…」

 胸を踊らせ地上へと駆け出す。
 いつも人がごった返す場所を走り抜ける。
 改札をスルーして階段を昇りきり、日の光を浴びながら見慣れた景色を眺めた。
 いつもと同じ場所のはずなのに、妙に光って見えた。
 彼はまた大きく笑うと、誰も居ない街を好き勝手に遊び回った。


 コンビニで好きな商品を好きなだけカバンに詰めた。
 ゲームセンターの両替機をこじ開けて好きなだけゲームをした。
 漫画喫茶で好きなだけ漫画を読んだ。
 誰も居ない道を落ちていたバイクで駆け抜けた。

 好きなだけ…

 でもある時、不意に心に闇が訪れる。

 虚しさと

 そして

 寂しさだった。

 急に心細くなり、辺りを見回す。
 あんなに煩わしかった人が、とても恋しくてたまらなくなった。
 自分から望んだこの世界が、憎くてたまらなくなった。

 抜け出したかった。
 心の闇から。

 今まで気付かなかっただけで、誰かがいるかもしれない。
 儚い希望だった。

 走って、走って、

 必死に探した。

 だけど何処まで行っても、誰も居なかった。
 それを彼は最初から解っていた。
 今まで散々悪行を堪能した自分を、正してくれる人が誰もいなかったのだから。


 息を切らせ、道路の中央で膝を付く。


「なんで、なんで…」

 走っても逃れられなかった。
 逃げても逃げても黒い影がピッタリとくっついてきた。
 そして立ち止まったその瞬間、影は彼の心を蝕み、ぽっかりとした穴を空けてい  った。


 自由とは他人がいて初めて意味を成す。
 孤独に捕まった少年は、必死にあの煩わしさを思い出そうとした。

 しかし、頭に浮かぶのは家族や友人の事ばかりだった。
 まるで空いた穴を塞ぐかのように…。


 誰かに会いたい。
 誰でもいいから会いたい。

 何時しかそれは声となって、彼の中から吹き出していた。

 無音の中に悲痛な声が響く。

 誰にも届かないその声は、綺麗な青空へと虚しく消えていった。

 叫び疲れた少年は、自動販売機で一本の缶コーヒーを買う。
 真っ赤に光る缶を手に取り、蓋を引く。
 虚ろな表情で口をつける。
 味がしなかった。

 膝を抱え、震えながら、ふと思い返す。

「電車…」

 呟いてそのまま走り出す。
 青空を背に、暗い地下へと降りていく。
 誰も見ていないのに切符を買い、改札に通す。
 機械は何も言わずにそれを受け入れる。
 そして自分を乗せてきたはずの電車を探す。

 3番ホーム…

「あった…」

 息を切らせながら留まったままの電車を見つめる。
 いつもの車両、いつもの場所。
 その前で立ち止まり、手に持ったままのコーヒーを飲み干す。
 息を吐き出し腰かける。そして必死で願った。

「誰かに会いたい。誰かに会いたい。
 元の生活に戻りたい。」

 どれくらいそうしていただろう。

 いつしか遠くの方で声が聞こえた気がした。

 自分の声?

 いや。

 音楽の欠片…。


 ハッと目を開けると目の前には人の胴体部分。

 ゆっくりと辺りを見回す。

 それは紛れもなく、元居た電車の中だった。
 何も変わらない、日常がそこにあった。

 少年は泣き出しそうになるのを必死でこらえていた。

 良かった…。夢だったのか…。

 うつ向いた先に

 赤い缶コーヒーと
 赤坂見附行きの切符。


 高鳴る胸に彼は思いを馳せる。
 もう二度と、捕まらないようにと…。











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